神の系譜 竜の時間 神国 西風隆介 ------------------------------------------------------- 【テキスト中に現れる記号について】 《》:ルビ (例)西風《ならい》 |:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号 (例)麻生|竜一郎《りゅういちろう》 [#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定 (例)だいえっと[#「だいえっと」に傍点] ------------------------------------------------------- 〈帯〉  あなたは竜の時間を目の当たりに見ることができる!  天才・火鳥竜介、  万物創造の神の仕組みを解く。 [#改ページ] 〈カバー〉 「あれはいったい何なんですか?」  顔をしかめて依藤は聞いてくる。  いかにも、いかがわしいものであるかのように。 「いわゆる黒いマリア像ですが、警部さんがご懸念なさっているような、よろしくない宗教が、からんでいる可能性もあります」 「それは、どのような?」 「具体的にどこだと特定できるわけじゃないんですが、根源は、もちろんヨーロッパですね」 「それが日本に、しかも、こんな片田舎に」[#地付き]〈本文〉より 気がついた麻生まな美はどこかおかしい。 入ってすぐのところで倒れていたはずなのに、洞窟の奥の部屋にいたという。 そして頭をうったのか、ふたりは誰という。天目と水野弥生のことをだ。 水野は今年歴史部に入ってきた新入部員だから知らないはずはない。 おまけにおにいさんの火鳥のことを自分のお父さんだというのだ! それは、天目マサトにいわせると、まな美は別人のようだということになる。 マサトには普通人に見えないものが見えるから、竜蔵がその話を電話で伝えてきたとき、火鳥はそれが何を意味するかを考えて、電話を切った。 そして、いま琵琶湖の近くの巨刹に異変が起きつつあった。 二千年このかた涸れたことのない井戸の水の音が途絶えたのである! Character File ㈭ 【桑名竜蔵】くわなりゅうぞう アマノメの御神《おんかみ》に仕える側用人《そばようにん》。 御神の秘密の全貌を知る、  ——ほぼ唯一の人物。 七十歳をすぎているが矍鑠《かくしゃく》とした老人で、通称、単にジイとも呼ばれる。 アマノメの組織の事実上のトップだが、他人の火鳥竜介を次代の長にすえるべく、  ——画策中。 ガーデニングが趣味。 [#改ページ] 書下ろし長篇超伝承ミステリー 神の系譜 竜の時間 神国 [#地から1字上げ]西風《ならい》隆介 [#地から1字上げ]徳間書店 [#地から1字上げ]TOKUMA NOVELS [#改ページ]    目 次  第一章 「身代わり」  第二章 「娼婦」  第三章 「傀儡《くぐつ》の恋人たち」  第四章 「雲」 [#改ページ] 第一章「身代わり」  1  どれくらい気を失っていたかなんて、わからないと麻生《あそう》まな美《み》はいう。  目をあけると、澄みきった初冬の青空がひろがっていて、両肩を誰かの手で支えられながら、その誰かの膝に頭をのっけていた。あたりは茫々《ぼうぼう》の草藪《くさやぶ》で、彼女は仰向けに寝そべっていたのだ。  まな美を庇《かば》うように支えてくれていたのは、女子である。艶やかな長い黒髪に、切れ長の瞳、おひなさまのように奇麗《きれい》な顔立ちだ……?  そしてもうひとり、ひ弱そうな感じがする男子が、すぐかたわらに立っていて、ふたりして心配そうな顔をまな美に向けていた。  その男子と女子は、ともに私立M高校の制服を着ていたから、おなじ学校の生徒であるらしいことはわかった……けど? 「どないしはったん」  耳慣れた悠長な関西弁が聞こえてきて、土門巌《どもんいわお》がまな美の視界にあらわれた。 「入ってすぐのところで、ふわあ、と倒れられて」  女子が説明していった。 「貧血かあ? 姫、無茶なだいえっと[#「だいえっと」に傍点]でもしとんちゃうん」  土門くんはいつもの調子で、お気楽にいう。  まな美は手をついて上半身を起こした。  二、三メーター先に見覚えのある岩の小山があって、覆《おお》いのトタン板が横にずらされ、洞窟の入口が姿を見せていた。 「入ってすぐのところって……どこ?」 「うん? そのへんちゃうのん」 「それほどのあたりのこと? だって、わたしが倒れちゃったのは……洞窟の奥だったでしょう?」 「ええ? 洞窟には、まだちゃんと入ってへんやんか。自分ひとりが、石段をやっとこさ降りきったぐらいで、それで戻ってきたんやけど」 「土門くんこそ何いってるのよ。さっきまで、その石段を降りた先にあった、部屋みたいなところにいたじゃない。わたしとふたりで。そしたら男の人が入って来て、そして」 「あーん!?」  土門くんが頓狂な声をあげ、 「……頭でも打ちはったん?」  小声で問いかける。  女子が、ううん、と神妙な顔つきで否定した。  男子の顔が急に険しくなった。それまでの、温和で、どこか頼りなげな表情とは打って変わって、驚くほどに鋭い眼差《まなざ》しをまな美に向けたのだ。それは、こころに突き刺さるほどの、こわい目である。 「あのう……」  まな美は、少したじろぎながらいった。 「助けてもらって、心配してもらってこんなこというのも何だけど、ふたりは……誰なの?」 「だ? 誰いうたかて?」      ※ 「そんなん、どう説明すればええんでしょうか? 天目《あまのめ》と、水野弥生《みずのやよい》さんなんですよ。水野さんいうんは、おにいさんは知らへん思いますけど、ちょっと前に歴史部に入ってきた新入部員なんですね」  竜介《りゅうすけ》は、その彼女については別ルートから聞いて名前ぐらいは知っていたが、適当にうなずいた。 「だから!」  まな美が、尖《と》んがり声でいう。 「何なのよさっきから。ふたりして、わたしをからかってるの? それに、おにいさんって、いったい誰のことよ?」 「こ……こんな感じなもんで」  土門くんは、おろおろしながら、 「そやから、大あわてでタクシーをひろうて、ここに飛んで来たんですよ。おにいさんは、こういうのの専門でしょう」  困惑しきった顔の土門くんが、何やら怒りまくっているまな美をともなって、ここT大学・文学部本館の四階にある『情報科』の資料室(竜介の私室)にあらわれたのは、つい数分前のことである。今は一点豪華な鳩血色《ルビーレッド》のソファに、右と左に離れ離れになって、ふたりは座っている。まな美は腕組みをし、不機嫌この上ないといった表情だ。 「それで、知らないという、その男子と女子は?」  竜介は聞いてみた。 「いやあ……誰や誰や、知らへん知らへん、と姫があまりにもいうもんですから、とりあえずその場でさよならをして、それでもって自分ひとりが、おにいさんとこにお連れしたんですよ」 「だから! おにいさんって、誰のことよ!」  まな美が、噛みつかんばかりにいう。 「ぼ……」  竜介は、自身の顔を指さしながら、 「……ぼくのことだけど」  やんわりといった。 「んもう! ふたりして何悪い冗談いってるのよ! それに土門くん、どうしてここを知ってるの? わたし、土門くんを連れて来たことなんかあった!」  まな美は、すごい剣幕だ。 「数えきれへんほど来てるやんか。ひめぇ〜」  土門くんは悲鳴をあげる。  ふだんから仲が良いのか悪いのかわからないふたりだが、今日は様子がちがう。痴話《ちわ》喧嘩や冗談のたぐいではなさそうだ。 「ちょっと待ってね」  竜介は、仕事机《デスク》の上にある電話に手を伸ばすと、短縮ダイヤルを押した。呼び出した相手は、津久見《つくみ》という脳神経科の助教授である。 「突然で申し訳ないけど、今、MRIは空いてる? だったら、ちょっと診《み》てもらえないかな……いや、猫じゃないよ。人間人間……」  そんな軽口をいってから、竜介は受話器を置いた。 「猫じゃないって、誰のこと!」  まな美が、般若《はんにゃ》の形相でニラんでくる。 「まあまあまあ、すぐそこに大学病院があるから、念のためにと思ってね。MRIは、レントゲンの親戚みたいなもので、レントゲンよりも安全だからさ。猫で実験するときなんかに、使わせてもらったりするのね。ただ寝そべってるだけでいいし、猫も、ゴロニャーンとおとなしくしているぐらいで、痛くも痒くもない。それに、そこの医者は友達だから、ややこしい手続きも必要ないしさ」  竜介は、駄々っ子をあやすように宥《なだ》めすかししながら、まな美をうながして研究室から出た。土門くんは居残りである。  道すがら、寒くなってきたね……などと、あたりさわりのない話題を竜介はふったが、まな美はまったく乗ってこず、終始無言である。それどころか、並んで歩くのはイヤだといわんばかりに、不貞腐《ふてくさ》れぎみに何歩か後ろをついてくる。そしてキャンパスを五分も歩くと、その大学病院の建物がある。築三十年は経っているから外観は薄汚れているが、設備や医者は、そこそこに優秀だ。  津久見の個室は三階にある。シミひとつないダブルボタンの白衣を着て、ようこそ、と彼が出迎えてくれた。 「この娘《こ》なんだけど、ちょっと頭を打ったのかと」  竜介は簡単に説明する。  津久見は、一瞬、ニヤついた笑顔を竜介に向けたが、まな美を丸椅子に座らせると、診察を始めた。  ペンライトを目にあててのぞき込んだり、どこか痛いところある? などと問診をし、手で彼女の後頭部をさすりながら触診をしたり……と、ひととおりの診察を終えてから、二階にあるMRI検査室の方に移った。  津久見は、竜介と同年輩で、よく酒を酌《く》みかわす間柄でもあり、気心は知れている。  看護婦の誘導で、着替えのためなどに、まな美が控室に消えるやいなや、 「火鳥《かとり》! こんなとこに女子高生を連れてくるなんて、おまえいったい誰とつきあってるんだ!」  堰《せき》を切ったように、津久見が詰問《きつもん》し始めた。  まな美は制服姿だから一目瞭然で、不審がられるのも無理はない。 「つきあってるも何も、彼女は妹なんだよ」 「さっき名前を聞いたけど、麻生さんだったろう。ちがってるじゃないか」 「母親がちがう、妹なのね」 「うん? それは話がおかしい。父親がちがったら名前が変わるってのはわかるけど」  津久見のいうことも、もっともであるが。 「説明は難しいんだよなあ」 「そんな話、誰が信じるもんか。それに、すっごい可愛い娘じゃないか」  おれに紹介しろ、といわんばかりに津久見はいった。  MRI検査は(頭部だけだから)わずかな時間で終わり、そして最前の診察なども踏まえての津久見の所見は、これといって異常はなく、タンコブの痕《あと》すらもない……であった。  まあ、それはそれでよかったが、何かが解決したわけではない。  竜介は、行きとおなじく白けた雰囲気のまな美をともなって、自身の研究室に戻った。  そして鳩血色《ルビーレッド》のソファに座るや、また前とおなじで、まな美は土門くんに噛《か》みつく。 「ねえ、あれはどういうこと! 洞窟の中には入ってないって、土門くんいったでしょう」 「まあ、ちょっとは入ったやろうけど」  弱々しい声で、土門くんは応じる。 「まともな懐中電灯があらへんかったんやから、入られへんやんか。あんな真《ま》っ暗《こ》っけのところ」 「何いってるのよ! 立派な懐中電灯を二本、ちゃんと準備してたじゃない」 「ええ? そんなもんどこにあるんや。自分がたまたま持っとったんはやな……」  土門くんは、学生ズボンのポケットに手をつっ込んで何やらとり出すと、 「この小《ち》っこいやつやんか」  竜介にも見えるようにと、長い腕を伸ばした先で、ぶらぶらとふって見せた。  それはキーホルダーにくっついている極小のペンライトであった。鍵穴を照らすためのものだ。 「これは何かのおまけで貰《もろ》たやつで、自分が様子見で、ためしに入ってみたんですけど、ぜんぜん役に立たへんかって、石段を降りきったとこぐらいで、あきらめて、それでもって地上に戻ってみると……姫が倒れてはったんですよ」 「何よその話は! 洞窟に行くのは前々からの計画で、懐中電灯も何もかも、準備万端ととのえて行ったじゃない」 「そ……そんなあ」  土門くんは困りはてた顔を竜介に向け、 「洞窟探検はですね、今日の放課後、姫が突然いい出されたことやないですか。古いスクラップブックで面白いのを見つけた……いうて」 「そんなの前の話じゃない! あれを土門くんに見せたのは、たしか日曜日のことでしょう。見城《けんじょう》さんのお家を訪ねたときじゃない」 「だ? 誰のお家ですって?」 「土門くん何寝ぼけてるのよ! 正体不明の謎の仏像を、とある人からあずかってた家じゃない」 「そ……そんなとこ自分は行ってへんですよう」  土門くんは泣くようにいい、 「謎の仏像いうんは、あの洞窟に置かれてあったとか、いうやつですか?」 「決まってるじゃない!」 「そやけど、その種の話は全部ひっくるめて、今日初めて姫から聞かされた話で、謎の仏像がどこにあるかなんて知ってるはずあらへんし、自分が行ってるわけないやないですか。あのスクラップブックを見せてもろたんが、今日やねんから」 「今日なわけないでしょ!」 「いやぁ、今日やてぇ」  土門くんは、情けない声でいいながらも、そのてんでは譲らない。 「いっとくけど、あのスクラップブックは、今日はわたしは持ってきてないわよ」 「いや、持ってきてるはずやでえ。そやかて、今日の放課後に……今から二時間ほど前に、姫が部室でみんなに見せてくれたんやから。あの何年か前の古い新聞記事を」 「いいえ! 今日は必要ないから、家の机の引き出しの中に仕舞ってるわ」 「そ……そやったらですね、念のために、姫の鞄の中を見てみたらどないでしょうか? 入っとう思いますよう」  土門くんは、やんわりとうながしていった。 「入ってるわけがないじゃない!」  まな美は強くいうと、自身の学生鞄をひらいて、中身をばらばらーとソファの上にぶちまけた。 「……あっ! これ、あるやんか。この黄ばんだ大学ノートが、見せてくれたそれや」  土門くんが指さしていった。 「あら!」  まな美は、目を真ん丸にして驚く。  そして、その大学ノートを手にとって、しげしげと凝視《みつ》める。 「まちがいあらへんかったでしょう」 「ええー? どうしてえー?」  まな美は、奇跡でも目《ま》のあたりにしているかのように、信じられないといった顔だ。 「そのスクラップブックとやら、よかったら、ぼくにも見せてもらえないかな」  竜介が、おだやかな口調でいう。  まな美は仕方なさそうに、頁《ページ》をひらいてからさし出した。 「どれどれ……浦和《うらわ》市郊外で、マンション建設に住民が大反対! 業者とニラみあいがつづく中」 「その最後の、囲みの記事が、問題のとこです」  土門くんがいう。 「えー……マンション予定地の一角に、小さな浅間《せんげん》神社があったので、それを別の場所に移したところ、跡地から洞窟が見つかり、その洞窟の中から、正体不明の仏像? らしきものが発見された」 「つまりそういう話で、それで、部室にあったミリオンの地図で調べてみたら、そのマンションとやらは、まだ建ってへんみたいなんですね」 「歴史部《きみたち》がよく使ってる、あの一万分の一ね」 「ええ、それの最新のやつです。あれは建物まで正確に描かれてますから、わかるんですね。それに学校からもそう遠くはなさそうやったから、それじゃ散歩がてら、ちょっと行ってみよか……いう話になりまして」  尻すぼみで、土門くんはいう。 「またしても、タクシーで直行したんだな!」 「ま……そんなところで」  土門くんは、頭を下げながらいう。  高校生なのだからタクシーなどは使うな、と竜介は再々注意しているのではあったが。  まな美は、自身の学生鞄の中にスクラップブックが入っていたことが(彼女の言い分とは食いちがっていたことが)よほどにショックだったらしく、腕組みをして黙りこくっている。 「で、行ってみたら?」  竜介はつづきをうながす。 「行ってみたらですね、そのマンション予定地は、白い金属フェンスで囲まれとって、けど、ぐるーと歩き廻ってたら、そのフェンスの一部がひん曲がっとうとこを見つけて、そっから入れそうだったんですね」 「つまり、無断で入ったわけだな!」 「せっかく来たんやから、入ってみよ……いう話になりまして。誰もいてへん空き地やし、それに泥棒するわけでもあらへんですからね。おにいさんかて、気持ちはわかるでしょう」  まな美が、キッ、と鋭い視線を土門くんに向けた。  おにいさん……その言葉に反応したのか、と竜介は思う。理由はわからないが。 「で、中に入ってみると?」 「そこはもう草茫々で、あのブタクサというやつの林。それに敷地はけっこう広いんですね。で洞窟はどこやーと見渡したら、敷地の角っこが、こんもりと小山になってたんですよ。そこに行ってみると、トタン板が立てかけられてあって、それをどけると、洞窟の入口があったんですね。でそこまで来て初めて、そや! 懐中電灯は……いう話になりまして」  一巡して、話はつながった。  土門くんの説明は、それなりに辻褄《つじつま》は合っているようだ。変なのは、やはりまな美の方であろうか。つぎはまな美の説明を聞こう、などと竜介が思っていると、  ——コンコン。  内扉をノックする音がして、西園寺静香《さいおんじしずか》が、お茶を運んできてくれた。如才なく微笑《ほほえ》みながら、竜介にはいつものように煎茶を、客人には珈琲《コーヒー》を。  土門くんは、素早く居住まいを正して、畏《かしこ》まっている。  まな美はというと、キョトンとした表情だ。  竜介はふとひらめいて、 「こちらは、当研究室の助手をしてくれている、西園寺さんね」  念のためにと思っていった。  まな美は、はじめまして、と軽く会釈《えしゃく》してから、 「助手の樋口《ひぐち》さんは、どうなったの?」  さらに奇妙なことをいう。 「うん? 誰?」 「背の高い樋口さんよ、土門くんほどじゃないけど。度のきつそうな黒ぶちの眼鏡をかけてて、まだ若いのに、白髪まじりのボサボサーとした頭で」  まな美はすらすらというが、竜介は、そのような人物にはまったくこころ当たりがない。 「あら……」  静香が、何かに気づいたように、 「わたしが以前にいた情報工学の研究室で、わたしの二年先輩で、おっしゃるとおりの樋口さんが、今も助手をしておられますけれど」  不思議そうにいってから、竜介の顔を見やった。 「うーん?」  ますますわからない話であったが、 「その樋口さんとは、まな美は、いつ会ったの?」  竜介はたずねる。 「それは今年の春じゃない。この研究室がオープンしたときに、一国一城の主《あるじ》になれたと大喜びして、わたしを呼んでくれたでしょう。そのときに会って紹介された、きりよ!」  まな美は、語尾を極端に強調していい、 「後にも先にも、わたしがここに来たのは、その一度っきりなんだから。だから今日で二度めね」  きっぱりという。 「じゃ、つかぬことを聞くけど、その春のオープン記念のときには、別の人とも会った? ぼくが紹介をした?」 「会ったわよ。ちょっと小太りぎみの中西《なかにし》さんと、それと五月女《さおとめ》さんという、どこか飄々《ひょうひょう》とした感じの女の人、ふたりは院生よね」  竜介は、キッネにつままれたような気分だが、うなずいた。  その院生ふたりについては、まな美の描写は、正しいからである。 「そんな人らは、自分は知らへんですよう」  土門くんは首をかしげている。  彼のいうこともまた……正しい。  中西と五月女は、歴史部の面々が訪ねてきているときには、こちらに顔を出したことはなく、だから竜介も紹介などはしていない、はずだからである。 「ちょっと確認するけど、助手の西園寺さんとは、まな美は今日が初めて?」 「ええ、初めてお会いするわ」  まな美は、平然という。 「ふむ……」  竜介は最初、脳震盪《のうしんとう》による記憶障害か、と単純に思ったりもしたが、明らかにちがう。  知っている人を知らないという……それはままあるが、知るはずもない人のことを知っていたりもする……そこが決定的におかしい。それは人物記憶のみならず、エピソード記憶においても同様のようで、まな美と土門くんの言い分が、奇妙に食いちがう。その種の症例は(それこそ専門だから)数多く知っている竜介ではあるが、これといって該当するものは思い浮かばない。 「火鳥先生……」  静香が、ささやき声でいい、 「わたしでお役に立てることがありましたら、お声をかけてくださいね」  隣の研究室に戻っていった。  ただならぬ事情を察してか、奥ゆかしく気を遣ってくれたようだ。 「かとり……かとり……」  まな美が、何度かぶつくさいってから、 「さっきのお医者さん、津久見先生も、かとり、と呼んでたわよね。それはニックネーム? 大学だけで使うペンネームみたいなもの?」 「いやあ……」  どう応えていいものか竜介が戸惑っていると、 「かとりって、つまりフェニックスの火鳥?」  まな美が聞いてくる。 「まあ、そうだけど」 「だったら、それは鳥取のおばあさんの名前じゃない。おじいさんと離婚して旧姓に戻しちゃった」 「ええー……?」  それは竜介の母親のことに、たぶん間違いないが、その女性はまな美からみて、おばあさん……の間柄にはない。血のつながりはないからだ。それに、まな美は会ったことすらも、ないはずだが。 「鳥取のおばあさんとは、いつ会ったっけ?」  竜介は、さりげなく聞いてみる。 「今年の夏休みに会いに行ったじゃない。お家が山の中にあるから、夏は涼しくていいけど、でも、虫だらけなのが」  まな美は顔をしかめながら、 「夜になると網戸に、クワガタのたぐいが鈴なりになってたけど、そんなのわたしは嬉《うれ》しくないし、いっしょに人の手ぐらいの蛾《が》もバサバサと飛んでくるし、それに裏の竹藪で大発生する、あの体がしましまの巨大な蚊は、とくに困りものよね。刺されるとタンコブぐらいに腫《は》れるんだから。まるで土門くんみたいな蚊よ!」 「そ、そんなあ、自分はやぶ蚊ですかあ」 「わたしのような繊細な都会人には、免疫ができてないのよね」  竜介も……うなずいた。  不可思議な話だが、まな美の描写は、それなりに正しいからである。  竜介の母親が住んでいる家は、大山《だいせん》の三合目あたりにあり、そこは昆虫の宝庫ともいえそうな場所で、すぐ裏に竹藪もあって、夏に訪ねると、ヤブ蚊に悩まされるのが常だ。 「ところで、離婚されたおじいさんの方は、最近はいかが?」  竜介は、さらに聞いてみる。 「いかが……ていわれても」  まな美は、ふくれっつらをしてから、 「そういわれてみれば、お正月以来、おじいさんとは会ってないわよね。よし美《み》ちゃんとは、よく電話で話はするけど……通称、わたしの妹ね」 「え? 姫に妹なんか、いてはりました?」 「だから通称なのよ。中学の二年で、わたしのことを、おねえさんって呼ぶのね。名前は麻生よし美で、平仮名のよしに、美しい」 「ありゃ、おんなじぱたーん[#「ぱたーん」に傍点]やんか、まな美姫と」 「それにはわけがあって、おじいさんが若い人と再婚してできた女の子だから、わたしの妹として勘違いされてもいいように、わざとに似たような名前をつけられちゃったのね。でも実際は、わたしの叔母にあたるの」  まな美は土門くんに説明していった。  が、麻生よし美……?  中学二年のそのような女の子は、竜介の知るかぎり、親戚じゅうのどこを探してもいない。  いや、それどころか、鳥取にいるおばあさん、が離婚した相手のおじいさん、が再婚して生まれた子は、ほかならぬ、麻生まな美、本人なのだが!  彼女の頭の中では人脈図がどうなっているのか、竜介には理解できない。 「じゃ、ごくあたりまえのことを聞くけど、記憶のテストだと思って、怒らずに答えてね」  竜介は質問の形式を変えた。 「その通称妹の、麻生よし美さんの、おとうさんの名前は?」 「つまりおじいさんよね。——麻生|竜一郎《りゅういちろう》」 「ふん」  竜介は、軽くうなずいた。  が、それは明らかに間違いである。麻生竜一郎は、まな美の父親の名前だからだ。もちろん、竜介の父親でもあるが。 「じゃ、まな美のおかあさんの名前は?」 「——麻生|紀子《のりこ》。旧姓、木下《きのした》紀子でしょ」  まな美は、何をいまさら、といわんばかりの顔でニラんでくる。 「うん」  それは、そのとおりで正しい。 「じゃ、まな美のおとうさんの名前は?」  そうたずねると、まな美はそっぽを向いて、 「——麻生竜介!」  いかにも憎々しげにいう。 「うん?」  それは誰のことなのか、瞬間、竜介には理解できない。 「この大学では、別の名でも呼ばれてるみたいだから、別名、火鳥竜介!」  まな美が毒づいていった。 「ええ?」 「なにいうてはりますの姫ぇ?」  土門くんまでもが、疑問符を投げかける。 「わたし変なこといった? パパの名前なんて、間違えようがないじゃない!」  まな美は居丈高にいって、 「それに土門くんも土門くんよ! どうしてパパのことを、おにいさん、なんて呼ぶのよ? いつからそんな裏取引をしてたの! 見てくれがちょい若いからって、それはどう考えたって変じゃない!」  ——声高に、まくしたてる。  土門くんはソファの片隅で、ただただ縮こまっている。 「パパぁ? ええー……?」  竜介が頭をかかえていると、 「パパこそ何よ! 研究をいいことに、何の研究だか知らないけど、ここ一、二週間まともに家に帰ってこないからって、娘の顔まで忘れちゃったの!」 「わ、忘れるもなにも……」 「大学生の分際《ぶんざい》で、ママを誑《たぶら》かしてできちゃったのが、わたしじゃない。今になって知らないとはいわせないわよ!」 「つ、つまり……ぼくの妻が、旧姓・木下紀子さんだってこと?」 「あたりまえじゃない! ほかに誰がいるっていうのよ!」  まな美は猛々《たけだけ》しく吼《ほ》えた。  竜介にとっては、封印してあった過去の亡霊が、墓から這い出してきたような気分だ。竜介と、その彼女(木下紀子)と、そして父親(竜一郎)がからむ経緯《いきさつ》は、青春時代のもっとも忌《い》まわしき思い出だからである。  とはいっても、さすがに古い話なので(ちょうどまな美の年齢分)、亡霊も笑顔で手をふって消え、そのイヤな気分も、ちょっとの間だけで消えた。  それに、まな美が、そのような兄貴の古傷を土足で踏み荒らすようなまねを、意図的にするはずはないから、彼女の記憶|錯誤《さくご》は、かなり重篤《じゅうとく》のようにも竜介には思えた。  そうこうしていたら、仕事机《デスク》の電話が鳴った。出ると、老人の温和な声が聞こえてきた。  ——桑名竜蔵《くわなりゅうぞう》からの電話であった。  マサトが自宅に帰りついて話をし、心配して、かけてきたのである。  竜介は、声をひそめて応対する。  まな美と土門くんは、竜介と竜蔵が知り合いであることは知っている。が、より親しいことまでは、ふたりは知らない。天目マサトをはさんで、誰が何をどこまで知っているのか……は複雑で、慎重に対処する必要があるからだ。  竜蔵は、古めかしい言葉遣いでゆったりと語ったが、話の要点はこうである。  ——アマノメの御神《おんかみ》(マサト)がいうには、まな美は、別人のように思える。気絶して倒れたときを境にして、別人に変わった。それ以上のことは今のところわからない。ただ、彼女の話すことに嘘《うそ》いつわりはないから、懇《ねんご》ろに。  マサトには普通人には見えないものが見える。それは(竜介の持論によると)おもに他人の記憶に由来している。彼に見えた絵を、いわば翻訳するのが竜蔵の役目だが、おのずと限界もあるのだ。  ——別人?  ——気絶したときに変わった?  ——話に嘘いつわりはない?  それらが何を意味するのか考えながら、竜介は電話を切った。 「ひょ、ひょっとしたら」  土門くんが何やらいい出した。 「自分らが、変な実験やっとったせいやろか」 「実験……て?」  竜介がたずねる。 「おにいさんは笑いとばすやろ思うけど、いや、パパか……おとうさまか……」  まな美は、怒り疲れたのか、そっぽを向いていて反応しない。 「……今日の放課後ですけれど、姫は遅れて来はったんで、それまで、みんなで瞑想《めいそう》しとったんですよ。ちょっと、未来を見よかーいうて」 「どんな未来を?」 「今日は木曜日でしょう。何の日かというと、ちょうどロト6《シックス》の締め切りの日なんですよ。数字を自由に選べる宝くじですね。その当たり番号を、みんなで予知しようやないかーいう話になって」 「土門くんがそれやってたの、先週じゃない」  まな美が口をはさんでいう。 「メタ相対論にもとづく超光速粒子が、どうのこうのって話でしょう。未来からの情報がタキオン粒子にのって過去へと伝わり、それを過去の土門くんが受信するって手筈《てはず》だったわよね。結果はぜんぜんダメだったけど」 「ありゃ? ありゃりゃあ……」  土門くんは心底驚いた顔をし、 「自分、そんな説明、姫にしましたかあ?」 「もうイヤというほど、さんざん聞かされたじゃない。『ヴォイジャー』の例とかをひいて。氷づけになっていた、セブンオブナインとかいう、グラマーで美人の死体の頭から、ボーグトランスミッターを剥《は》ぎとったんでしょう。この話、わたしに何度いわせれば気がすむのよ!」  印象が強烈だったから、まな美の頭にこびりついているのだ。 「なんや、姫も『すたー・とれっく』の愛好者《ふぁん》やったんか。うちら趣味があいますねえ」 「ちがうわよ! 土門くんが、衛星放送で見てるんじゃない。店番してるときにヒマにあかして」 「よ、よう知ってはるなあ。そんなこと誰から聞きはったん?」 「土門くん本人からでしょ!」 「そ、そんなあ……」  土門くんは、お手上げといった顔で、天井の方を見やる。 「『スター・トレック』はおいといて、話の全体像が、ぼくにはわからないんだけど」  竜介が、不満げにいった。 「じゃ、わたしから説明するけど」  まな美が先んじていう。 「土門くんがそれをやってたのは、たしか……先週の金曜日よね。当選番号がのってる新聞の切り抜きをもってて、過去に信号を送るんだって、それに向かって念じてたでしょう。部室の円卓《テーブル》で」 「いや、それはやな、明日やる予定になってたんやで。明日が金曜日やねんから。そやから今日は、その未来からの信号をうけとろうと、みんなで瞑想しとったわけなんや。そうこうしてたら、姫が部室に入って来はったんで……手仕舞いしたんね」 「どうして? なぜ手仕舞いしたの? わたしって、いつからそんなのけ者にされてるの?」 「いや、そんなわけちごうて——」  ふたりの話し合いは、延々つづきそうだったが、その話の食いちがいの奇妙さに、竜介は興味を覚えた。ジグソーパズルの凹凸のように、かみ合ってもいるからだ。さらには、みんなで瞑想、には驚いた。かのアマノメの御神も、それに加わっていたはずだからである。はたして、彼には、その種の未来は予知できるのだろうか? 竜介のような専門家ならずとも、大いに気になるところだ。 「——姫をのけ者にしとうなんて、そんな滅相もない。実験が万が一うまくいったら、あっ! と姫を驚かしたろう思てやな」 「それは驚くけど……」 「そもそもやな、これは姫の夢をかなえてあげようと、そんな純粋な気持ちで始めたんやで」 「わたしの夢って、何のこと?」 「ほれ、磐梯朝日《ばんだいあさひ》国立公園にある『地蔵岳《じぞうだけ》』に行きたーいいうて、姫うなってたやんか。そやけど、そうおいそれとは行かれへん場所や。そやからな、宝くじでもどかーんと一発当てて、ヘリこぷたーでもちゃーたーしてやろか、思てやな」 「ええー?」  まな美は首をかしげながら、 「そういった殊勝な話は、前にも土門くんから聞いたけど、筋がちがってるわよ」 「ど、どんなふうに?」 「なんでも、土門くん家《ち》のお店が、左前で」  まな美は声をひそめぎみにいう。 「店の奥に陳列されてあった高価なお皿が、一枚、また一枚、消えていくって……しんみりと。それは土門くんのおとうさんが、仕入れを下まわるような値段で、こっそり処分しているらしく、そうまでしないと店がもちそうにないから、宝くじでもドカーンと一発当てて、とそんな孝行息子のような話だったじゃない」 「なにいうてはんのん。うちの店勝手につぶさんといて。それにやな、一枚、また一枚……番町皿屋敷やあるまいし」 「それは、土門くんがいったんでしょ!」 「そんなこというてへんぞう。けど、そういわれてみれば、自分そういうこと、いいそうな気はする。そやけど、いうてへんぞう」  土門くんは頑《かたく》なに否定してから、 「それにやな、実際、店は繁盛しとって、高価な古伊万里《こいまり》が、一枚、また一枚、どころか飛ぶように売れていっとうで。というのもやな、蔵出しの話が、つぎつぎと舞い込んできて。これは不思議な話やねんけど、田舎を歩きまわって、頭を下げまくって、ようやくお蔵の中を見せてもらえるんが、ふつうや。そやけどうちの店は、ほっといても、来てんかーと電話が人んねん。それも名のある旧家から。それで名品を安く仕入れられるから、お客さんも大喜び。東京に出てきて、上野広小路《うえのひろこうじ》に店をかまえたんは大成功やったなあ……と、左前どころか、親父《おやじ》は左うちわやでえ」  パタパタと巨大な手で扇《あお》ぐ。  その土門くんの話を聞きながら、商売繁盛の真の秘訣は、店の場所などではなく、歴史部に、天目マサトがいたことだろうなと、竜介は思ったが。 「土門くん、どうしてそうちがうことばかりいうの? 話が真反対じゃなあい」  さすがのまな美も、泣きべそ顔でいい、 「それに、さっきの『地蔵岳』とやら、わたしは知らないわよう。それがどうして、わたしの夢なんかになるの?」 「まあまあまあ、姫……」  土門くんは、手ぶりもまじえて宥《なだ》めながら、 「それは姫が発見しはったことやで。徳川家の霊線を、真北にずーと延ばしていくと、行き着くはてにあったんが『地蔵岳』やんか」 「徳川家の霊線? そんなのどこにあるのよ?」 「それはやなあ、芝《しば》の増上寺《ぞうじょうじ》から一分の狂いもなく真北に延びとって、淨山寺《じょうさんじ》にたどりつく線やないですか。歴史の教科書を書き換える、とまでいわれとうぐらいの、我が歴史部はじまって以来の大発見やでえ。それを発見したんも、姫やんか」 「ええー?」  まな美はしかめっつらで首をふって、 「どんなに褒《ほ》められても、知らないものは知らないわ。それに、芝の増上寺はわかるけど、そのもうひとつのお寺は、何?」 「あの淨山寺ですよ。——淨山寺。埼玉のど田舎にあるけど、三《み》つ葉葵《ばあおい》がついとう淨山寺やで。姫が、家康公《いえやすこう》のこころのお墓! とまで名言をはきはった、あの淨山寺やんか——」  土門くんは力説していったが、まな美は、まったく知らない様子で、 「家康公のお墓? そんなの日光東照宮《にっこうとうしょうぐう》に決まってるじゃない。小学生でも知ってることよ」  けんもほろろだ。 「あちゃー……それこそ、教科書を書き換えた話で、それも、姫が書き換えたんやでえ! ぜーんぶ姫が謎を解きはって!」  土門くんは、やけくそだ。  そんなふたりのやりとりを目のあたりにしながら、竜介は、とある事柄に気づいていた。 「姫、ちょっとおたずねしますけど、このあいだの文化祭は、出し物は何にしました?」  土門くんは、竜介も聞きたく思ったことを、たずねる。 「それは……土門くんも知ってのとおりで、いいネタがないから窮しちゃって、仕方なく、平将門《たいらのまさかど》の首塚の話で、お茶を濁したじゃない」 「ええ? それは去年の文化祭の出し物やんか。自分が聞いとおんは、今年のやつやで?」 「今年の文化祭が、平将門じゃない。今年といっても、ひと月前の話なんだから、わたしが間違えようないでしょう」  ——案の定だと、竜介は思った。  歴史部の今年の文化祭の出し物は、その淨山寺にほかならないが、そのネタをふったのは誰あろう、竜介である。たしか七月のことだったが、まな美がここに来たさい、埼玉に面白い寺があるから調べてみたら、と資料を手渡したのだ。そこには(歴史部は与《あずか》り知らないことだが)竜介なりの策略があって、つまり、歴史部の部員にいると彼女から聞いた、天目マサトなる意味深な名前をもつ少年に、鎌をかけようと考えたからだった。  だから竜介が思うに、まな美の頭からは、天目マサトに関係する事柄が、すっぽりと抜け落ちているようなのだ。なぜだかはわからないが……?  それに、天目マサトのまわりでは、不可思議なことが頻繁におこるのだ。まな美のそれも、何かしら彼が関係していそうではある……! 「ひょ、ひょっとしたらやなあ」  土門くんが、また何やらいい出した。 「なんかのはずみで、姫は、たいむましんにでも乗りはったんちゃう?」 「いつ乗ったのよ。そんな乗り物に——」 「いや、それはたとえ話で、姫の頭ん中だけが、ひゅーと乗りはって……というんもやな、姫のいうことが、奇妙にかみ合ってたりするやんか」  土門くんも、竜介とおなじように感じているようだが。 「それにやな、自分が絶対にいうてへんはずのことを、姫が知ってたりするやろう。そんなこと知ってるんは、もう未来人しかありえへん。もしくは……超能力者や。それに、自分らが変な実験やっとったやろう。未来を見ようと」 「それって、『タイムマシンの話』とかいう本に感化されたんでしょう。ブルーバックスの」 「ま、まさに……そやけど、そのことも自分、姫にはいうてへんねんで。そやから、どうなってるんやあ」 「こっちが聞きたいわよ。だけど……」  まな美は、謎を解くときに見せるような思慮深い表情になって、 「わたしひとりが変? それとも、まわりの全部が変? どっちを採《と》るかといわれると、第三者的に冷静に考えてみれば、わたしひとりが変……の方が理にかなってるような気はする」  凜《りん》としていう。 「変ちゃいますよ。姫は、変なんかでは決してあらしませんよう」  土門くんがフォローしていう。 「どっちにしても、さっき土門くんがいったように、別世界にでも飛ばされちゃった気分だわ。このスクラップブックがここにあること自体、もう徹底的に変なのよ。そんな記憶ちがい、わたしがするはずないでしょう。これはわたしの宝物で、家からもち出すことは滅多にないんだから。そのほかにも、変なことはいくつかあるのよ」 「たとえば?」  竜介がたずねる。 「まずね、わたしは洞窟の奥で倒れたんだけど、わたしの記憶では、そのときに、わたしは手に、釘を握ってたはずなのよ。その釘が手に刺さって、とっても痛かったのね。と同時に、気絶しちゃったらしいんだけど、その傷痕がないのよね」  まな美は、自身の右の手の平を、まじまじと凝視《みつ》める。 「どうしてまた、釘なんかを?」 「それはね、洞窟の秘密の場所に、ひそかに隠されてあったの。大事そうに桐の箱に入って。土門くんの見立てによると、それは江戸時代の五寸釘、とのことだったけど」 「あれえ……」  土門くんは訝《いぶか》しげにいい、 「さっきいうてた淨山寺にもやな、そういった古い五寸釘が、お寺の宝物としてあるんや。おなじく江戸時代のやつで、ご住職に見せてもろたことがあんねんで、もちろん姫もいっしょに」 「へえ……」 「そやから、これまた奇妙に話が合うやんか」 「そうだわね……」  来た当初は、ハラハラするほどに啀《いが》み合っていたふたりだが、今はもういつもの仲良しこよしで、 「ところでね、土門くん」  顔を寄せぎみにしていう。 「さっきから探してるんだけど、わたしの携帯知らない? あのへんで落としちゃったのかしら」 「いや、いやいや……こんなこというんはあれやけど、姫は、携帯電話はもってはらへんのやで」 「そんなバカな!」  ——怒っていう。 「これはほんまの、ほんまの話で、めいるみたいなもんに時間を食われるんは嫌やーいいはって、かたくなに、もってはらへんのですよ」 「そんなの不便な!」 「ところがところが……」  土門くんは照れたように笑いながら、 「いるときだけ、自分のを使《つこ》てるんや」 「自分のって……まさか、土門くんのを?」 「嘘やとお思いでしょうが」  土門くんは、学生鞄から、自慢の髑髏《しゃれこうべ》の根付《ねつけ》がついたそれを引きずり出すと、 「姫がかけるとこは限られとって、めもりーにも入っとんねんで。たとえば、はひふへほの『ひ』のところにはやな」  まな美にも見せながら操作し、 「この『秘密の小部屋』いうのが、それやな。ためしにかけてみましょうか」  しばらくすると、ジリジリジリジリ、竜介の仕事机の電話が鳴った。  まな美は信じられないといった顔をするが、そのわりには興味津々の目つきだ。 「つづいて『姫のぺんとはうす』いうんもあるんやけど、これは姫のお家やな」 「あっ」  竜介が声を発して、いう。 「そのペントハウスって、七階建のマンションの最上階のこと? 蕨《わらび》市にある?」  まな美が、あたりまえでしょ、といわんばかりの顔で竜介をニラみながら首肯《うなず》いた。  自宅に関しては、まな美の記憶は正しいようだ。  が、その蕨市のマンションには、パパ(竜介)は帰るわけにはいかない。それどころか、ママ(麻生紀子)には電話すら入れられない立場にある。  まな美をこのまま家に帰してしまうと、またひと騒動あるのは目に見えている。そのさい、ここ(秘密の小部屋)のことを話に出されては困る。竜介とまな美は、これも秘密の兄妹で、つき合っていることは彼女の両親は知らないからである。  竜介はちょっと考えてから、 「土門くんは、姫のペントハウスには、行ったことあるの?」 「ええ、ちょくちょく」 「だったら悪いんだけど、今日は、姫を家まで送ってくれないかな」 「かまいませんよう、へへへ」  土門くんは、ことのほか嬉しそうだ。 「もっとも、玄関までじゃなく、家の中までずかずかと入ってさ」  そこから先は、竜介は土門くんを手招きして、耳元で指示を出した。 「あー……なるほどなるほど」  まな美は土門くんのことは信頼しているらしいので、あとは彼に託すことにした。もちまえのウィット精神で、うまくやってくれることを期待して。 [#改ページ]  2  ここは、とある巨刹《きょさつ》である。  眼下に琵琶湖《びわこ》の湖畔や大津《おおつ》市街が眺められる長等《ながら》山の山腹に、金堂《こんどう》や観音堂や三重塔などをはじめとして数えきれないほどの堂宇《どうう》を要して建っている、よく知られている寺でもある。  異変に最初に気づいたのは、その境内《けいだい》に落ち葉集めの手伝いに来ていた、近所に家がある五十代の主婦であった。  彼女は、まったくの無報酬で、時間があるときに手伝いをしに行く。そういった人たちが(ほとんどは年配の女性だが)近所に少なからずいるのだ。とくに今の時期は、紅葉を終えつつある木々の落ち葉がひとしきり激しい。  今日は、午後の三時すぎに大門をくぐった。  もちろん拝観料はとられないし、野良仕事用の割烹着《かっぽうぎ》などは寺が貸してくれる。  竹の熊手と塵取《ちりと》りを手に、同好の女性たち何人かとともに、落ち葉集めに精を出しながら小一時間ほどがたったときのことだろうか。  彼女は、あたりの様子が、いつもとどこかしらちがっていることに気づいた。  境内じゅうが、しーんと静まり返っているのだ。  もう四時をすぎていたから、参拝客はほとんどいない。  それにもとより、老樹が鬱蒼《うっそう》と茂っている森閑《しんかん》とした場所だから、鳥の囀《さえず》り以外は、静かであるのは当然なのだが。 「あ! 聞こえるはずの音が、聞こえないわ!」  彼女は気づいていった。  一緒にいた女性たちも、しばし耳をそばだててから、 「あっ、いわれてみれば、あのボコボコという音がしないわよね」  口々にいい出した。  ——ボコボコ、ボコボコ、ボコボコ、ボコボコ。  それはいつもなら聞こえてくるはずの、閼伽井屋《あかいや》の中にある井戸の湧《わ》き出る音である。それはかなり遠くにいても響いてくる、妙《たえ》なる音なのだ。  さっそく知らせが飛んだ。  僧服に身を包んだ老僧や、作務衣《さむえ》のそれや、小僧さんまでもが、ぞろぞろと閼伽井屋の前に集まってくる。  閼伽井屋は、巨大な金堂のすぐ裏手に立っている、こじんまりとした古びた木造だ。井戸をおおうための建物である。戸の格子から中をのぞくと、岩がごろごろとあって、注連縄《しめなわ》がしてあり、水面が見えるだけだ。  けど、音はしない——。 「ど、どうなっているのでしょう」  僧侶が、うろたえぎみにいった。 「聞いたことある? 涸《か》れたって話?」  別の僧侶が問いかけている。 「いいえ」 「知らないですね」 「じゃ、誰か知ってる?」 「いや、閼伽井屋の霊泉は、二千年このかた、涸れたことなどは一度たりともない。たとえどんな旱魃《かんばつ》があったろうとも」  老僧が声を荒らげていった。 「ですが、実際、音は聞こえませんよう」 「……天智《てんじ》さま天武《てんむ》さま持統《じとう》さまが産湯にお使いになられたというのに」  手を合わせて拝んでいる僧侶もいる。 「何かの、異変の兆《きざ》しでありましょうか……」 「詰まっているのかも、何かが」 「誰かもぐってみろよ!」  大騒ぎである。  そんな僧侶たちの狼狽《ろうばい》ぶりを、閼伽井屋の庇《ひさし》の下にいる竜が、ただ静かに凝視《みつ》めていた。  ほどなくして、晩鐘が、湖面に響きわたった。 [#改ページ]  3  翌、金曜日のことである。  お昼休み、情報科の研究室に竜介宛にFAXが送られてきた。  どこかの地図が描かれていて、その一点に×印が打たれ、本日の午後三時三十分、と時間が指定されてあって、謎解きに是非《ぜひ》おつきあいを、との簡素な添え文があり、差出人は『歴史部』となっていた。  もう有無をいわさぬ、そんな厚かましい様式だ。昨日の今日だというのに、件《くだん》の洞窟探検に再チャレンジする、気なのだ。——まな美が。  竜介としても、妹のことが心配は心配だったので、それに大学には特段の用事もなかったから、行ってみることにした。  最寄り駅からは歩けそうになく、タクシーで向かった。田舎びた住宅地を走ること約五分、話に聞いたとおりで、連なった白い金属フェンスが見えてきた。その道端に、見知った紺色のセダンが停《と》まっていたから、そこでタクシーから降りた。  助手席にいたスーツ姿の若い男が、竜介に気づいて、ドアをあけて道に出てきた。 「すみませんです。先生までご足労ねがいまして」  ——うやうやしく頭を下げていう。 「いや、きみたちこそ大変だね。昨日も今日も。それに見えないけど、たくさん来てるんでしょう」 「ええ、まあ」  ——苦笑ぎみにうなずいた。  その好青年の彼は、桑名|政嗣《まさつぐ》、以前に聞いたところによると、桑名の分家筋の長男で、二十七歳、アマノメの御神《おんかみ》の警護をおもに担当している。  御神がうろちょろすると(まな美があちこち連れまわるからだが)まわりは大変なのである。 「そこのフェンスの角を曲がって、少しいった先あたりで、お待ちだと思います」  政嗣に教えられて、竜介はとぼとぼ歩き出した。  角を曲がると、道はゆるやかな下り坂になっていて、五十メーターほど先に、色とりどりのコートを着た男女が立っているのが見えた。制服だがコートは自由らしく、背が高い順に、緑、青、赤、白……四人いるので歴史部員が勢揃いだ。竜介も薄手の紺をはおってきているが、今日はそう寒くはない。  竜介が合流すると、 「水野さんは初めてやな。こちらは火鳥さんというて、大学のえらい先生。姫の……おにいちゃん」  土門くんが、ちょっとお道化《どけ》て紹介してくれたが、まな美は素知らぬ顔で沈黙しているところをみると、昨晩、彼がうまく説得してくれたらしかった。 「よろしく」  竜介は軽く会釈したが、楚々《そそ》として奇麗な女子なので、驚いた。  それに、彼女は武道の達人だと聞いていたから、ごつい体型を想像してもいたのだが、まな美以上に細身のようである。だが、背筋をしゃんと伸ばしている立ち姿に、その片鱗《へんりん》がうかがえる。  マサトが竜介の方をちらっと見て、いつもの澄んだ表情で微笑んだ。その彼の神秘な目には……何が見えているのやら。 「ここです、ひん曲がっとうでしょう」  土門くんが、背後のフェンスを指さしていった。  たしかに、地べたに手をついて身をよじってやっと入れるぐらいの隙間《すきま》が、あいている。 「ちょっと行った先に、扉はあったんですけど、そこには鍵がかかっとって、もうこっからしか……」  そんな詫《わ》び言を土門くんがくどくどいってるうちに、まな美はさくさくと隙間をくぐっている。  仕方なく、竜介も後につづいた。  囲いの中は見渡すかぎりの雑草の草原である。  フェンスぎわは草がまだまばらで、そこをぴょんぴょんと跳んで歩きながら、まな美が先導していく。まるで白兎《しろうさぎ》だなと竜介は思う。  フェンスの角にある小山は、二メーターほどの高さである。草でおおわれているが、ところどころ岩が露出してもいる。  考えれば、さっき政嗣が車を停めていたのは、そのちょうど裏手あたりなのだ。 「ありゃ、昨日いちおうとじて帰ったよな?」  トタン板が、手前にひっくり返っていて、洞窟の入口があらわになっていた。 「……風で飛んだんかなあ」  土門くんが、その半分|錆《さ》びている厚手のトタン板を、邪魔にならないところに動かした。  洞窟の入口の前あたりにだけ、大きな石がごろごろとある。そのトタン板の支えに用いてあったのかもしれないが。 「そやそや、これこれ……」  土門くんが、竜介に懐中電灯を手渡してくれた。  今日は準備万端、各人に一個ずつ用意したようだ。 「じゃ、土門くん——」  まな美が、目で指図していう。 「わかってまんがな。地獄に堕《お》ちていくときは、いつも自分が先やと決まってるんや」  すねたようにいうと、彼だけが特大の懐中電灯を手にもって窮屈そうに身をかがめながら、その地獄への門をくぐる。すぐ背後に、まな美がつづいた。  竜介はちょっと待ってから、 「昨日まな美が倒れたのは、どのあたり? どんなふうに倒れたの?」  ふたりに小声で問うた。 「もう、入ってすぐのところです」  弥生が指さしていい、 「わたしが真後ろにいたから、支えて、でも石があるので、こう……先輩を引きずりながら外に」  仕草で説明してくれた。 「なるほど」  竜介にも様子はわかった。 「じゃ、彼女は、頭は打ってないんだな?」 「ええ、まったく……」  マサトも、首肯《うなず》いている。  ——ね、話したとおりでしょう。  ——ほんまやなあ。  洞窟の奥からふたりの声が響いてくる。  竜介たちも、足を滑らしそうな石段を、慎重に降りていった。  降りきった先は、かなりの広さがある岩の洞窟だ。土門くんの頭もつっかえないぐらいの高さがある。地面はそれなりに均《なら》されているが、壁面はごつごつした岩肌で、窪《くぼ》みや出っぱりがある。 「絵が彫られてますね……あちらこちらに」  弥生が、あちこちを照らしながらいう。  竜介が一瞥《いちべつ》したところ、それらは大半が如来《にょらい》や菩薩《ぼさつ》の像で、光背《こうはい》を放射上に誇張してあったりもするが、そう古い感じはしない。|浮き彫《レリーフ》ってほどでもなく、ただ輪郭線をなぞっただけの、単純な彫りのものが多いようだ。 「問題は、ここね——」  まな美が、正面の壁の上部を照らしながらいった。  土門くんの大きな懐中電灯も、より広い範囲で、やはり正面の壁を照らしている。 「——竜がいるでしょう。その手がワシづかみしている、宝珠《ほうじゅ》のところが、穴になってるのよ」  その竜はまずまずの出来栄えだが、まな美のそんな説明よりも、竜介は別のものが気になった。  竜の真下には石の祭壇があって、そこに黒っぽい何かが置かれてあるからだ。  竜介は、自身の懐中電灯で照らしながら、近寄ってみた。  土門くんも気づいたらしく、顔を寄せてくる。  それは二十センチほどの細身で黒い…… 「や、やばい」  ……何であるかが見えてわかって、竜介は思わず口に出していった。 「ありゃあ、これは赤ん坊をかかえとうから、まりあさまちがうんか? そやけど、真っ黒やなあ」  土門くんが、ほうけた声でいう。 「ええ? そんなのはなかったけど」  まな美の記憶とは、ちがっているようだが。  どっちにせよ、竜介には悪い予感がした。  石の祭壇にはロウソクの燃えかすがグロテスクに山をなしていたからだ。それに、ロウの燃えた臭いが洞窟内にただよっているような気もする。ごく最近、ここを誰かが使っていた感じだ。  ——キャ!  女子の悲鳴に、一同、ふり返った。 「あそこに、何かが……」  弥生の懐中電灯が照らしていたのは、降りてきた石段の右手側で、奥まった岩の窪みだ。  全員の懐中電灯が、そのあたりを照らす。 「あや……人ちゃうんか?」  土門くんが震え声でいった。  頭をこちらに向けているらしく、不自然に丸まった姿勢で地面に横たわっている。その人は……微動だにしない。眠っている雰囲気でもない。 「動かないでね。ぼくが見てくるから」  大人は自分ひとりだけなので、やむをえずそういってから、竜介は近づいていった。  それに、危なそうならば、御神(マサト)が察して止めてくれるはず……なのだから。  頭はスポーツ刈りのような短髪で、モスグリーンの古《ふる》ジャケットを着ている。顔は地面にななめに伏せていて見えないが、若い男のようだ。手が、両手とも体の下にもぐり込んでしまっている。  竜介は、仕方なく、男の首筋に指をあてがった。  ……脈はない。  それに……温《ぬく》もりも感じられなかった。  竜介は目をつむって、そのままの姿勢で十秒ほど、それは間違いのないことかと確認してから、立ち上がった。 「全員! ただちに! ここから出るように!」  ——強い口調でうながしていった。  洞窟から外に出るや、 「警察には、ぼくから連絡しておくから。きみたちは学校にバレたらマズいだろう。だから、とっとと帰るように——」  さらに急《せ》かして、竜介はいった。  一同は黙りこくったまま、小走りに駆けていく。  だが、約一名、竜介にまとわりついて走りながら、 「ねえパパ、じゃなかったおにいちゃん。あそこの竜、見たでしょう。その宝珠のところに穴があって、その中に、桐箱に入った五寸釘があるはずなのよ。それはとっても大切なもののような気がするの。わたしの命運をにぎっているような。だから後生《ごしょう》だから、それを探して——」  食らいついてきていう。 「わかった、可能なかぎり」 「お願いよ——」  全員、フェンスの囲いから外に出た。  土門くんが、たくしーを呼ばな……そんなことをいってるうちに、空車のタクシーが、道をこちらに走って来るのが見えた。らっきー……と土門くんが手を挙げて止め、彼らが車に乗り込んだのを見届けてから、竜介は携帯電話を手にとった。  かけるのは、一一〇番ではない。  埼玉県南警察署の刑事課への直通電話だ。  その南署は、埼玉県南東部の大きな市——以外を広範囲にカバーしており、だから田舎びたこの場所も、所轄のはずである。なおかつ、そこの刑事課とは、いわゆる殺人課なのだ。そこへの直通電話が、自身の携帯電話のメモリーに入っているぐらいの、因果な友人を竜介はもっているのである。  電話をかけると、刑事課は全員出払っていたが、話は通じた。近くにいる署員をただちに向かわせる、とのことで、竜介の携帯電話の番号を教えてから、電話を切った。  けど、ただちに……といわれても、何分ぐらいで来るかわからない。竜介は、まな美から切に託された、お願いよ……が気になった。その何分だかわからないわずかな時間で、あの洞窟にふたたび入って探し物をする……べきかどうか。警察が着いてしまうと塵埃《ごみ》ひとつ外にはもち出せないからだ。それはそうだが、死者が横たわっている真っ暗闇の洞窟に、ひとりで入っていくのもな……などと竜介が逡巡《しゅんじゅん》しているうちに、遠くからサイレンの音が響いてきた。  赤い灯を屋根でくるくるさせながら突っ走ってきたのは紺色の車で、竜介が手をふると、急ブレーキをかけて止まった。  そして慌てふためいた様子で降りてきたのは、 「ど、どうしてまた先生が——」  刑事課の、若い生駒《いこま》刑事であった。  たがいによく知っている仲である。 「——どうもこうも、現場はこっちね」  竜介が先導して、フェンスの隙間をくぐった。 「あっ、懐中電灯が要る! 洞窟の中だから」 「植井《うえい》くん! 聞こえた!」  叫んでから、ふたりは走った。  ひょろっと背の高い植井は、刑事課の新米刑事である。その彼が追いついてきてから、三人で洞窟の中に入った。  竜介は、横たわっている男をあらためて見て、母親の子宮にいるときのような丸まった胎児の姿勢を、連想した。  生駒がしゃがみ込んで、様子をうかがう。  植井も、懐中電灯で照らしながら、その生駒のかたわらで棒立ちしている。  竜介は、石の祭壇の方へにじり寄った。まな美のお願いをかなえるべく……と、そのとき、靴が何かに触れたような気がして、地面を照らしてみると、細長い箱がころがっていた。古びた桐の箱で、ふたもすぐそばに落ちている。だが、古い五寸釘のようなものは……ちょっと見当たらない。地面にも亀裂《きれつ》や小さな窪みがそこかしこにあって、もぐり込んでいるかもしれず、短時間では探せそうにない。  生駒が立ち上がって、 「たしかに、ほとけさんですね」  ——神妙な声でいった。 「植井くん。そろそろ皆が来はじめるから、さっきのところまで戻って、誘導してくれる。それと、署に連絡とって、現場の状況を正確に伝え、明かりが要ることとか、念押ししといてね」 「了解」  凜々《りり》しくいうと、植井は石段を登っていった。 「ふう……」  生駒が長い嘆息《ためいき》をついてから、 「さて、死体の第一発見者には、事情聴取をする決まりなんですが、おっつけ依藤《よりふじ》係長も来ることですし、自分はごくごく素朴なことを聞きますけれど、ここは私有地ですよね?」 「……だと思う」 「だったら、許可はとられてますか? 先生!」  そういって、竜介をニラむ。 「いいえ」 「それに……」  生駒は、懐中電灯で照らして、まわりの様子を見渡しながら、 「……この雰囲気。仏像の絵とかがいっぱいあって、気味悪いっていったらバチあたりそうだけど」 「いわくありそうな洞窟だよな」  竜介は、意識して、無意味な言葉をつむいだが、 「けど、このような場所を趣味にしている人たちが、どっかにいませんでしたっけえ」  生駒は鎌をかけるようなことをいい、 「ともあれ、係長にどう説明するか、整理しといた方がいいっすよ。こんなとこで四方山話《よもやまばなし》もなんなんで、地上に出ましょう、先生」  いつもの軽い口調でうながされたが、若い生駒刑事にすら、すべて見透かされているといった感じだ。  外に出るとサイレンの音が、複数、響いていた。 「救急車が来てますね……けど、鑑識さんと、監察医の先生が来られないと、動かせませんからね」  生駒は独り言のようにいい、 「あっ、そうだそうだ。地権者を探して、連絡をとらないと」  背広の内ポケットから携帯電話を出して、かけ始めた。  竜介は、外に出てから気づいたことを、考えた。  それは洞窟の入口の手前に倒れていたトタン板のことである。風か……とも土門くんはいっていたが、誰かがぞんざいに倒して入った、そんな雰囲気もする。その誰かは、中で死んでいた本人だろうか? それとも別人か? 複数人が一緒に入ったのだろうか? そんなことを考えていたら、そのトタン板を、土門くんが触っていたことを思い出した。彼の指紋がついているではないか……いや、昨日も来ているのだから、歴史部員全員の指紋がついていそうだ。  その後も、次々とサイレンの音は響いてくるが、敷地の中には誰ひとりとして入って来ない。  あちこちとの電話連絡が一段落したらしく、 「不幸中の幸いでしたね」  生駒はいう。 「高いフェンスで囲われてるから、やじ馬は入ってこられませんからね」 「ところで、地権者は、見つかったの?」  竜介はおずおずとたずねる。 「ええ、すぐに回答ありました。何とか興産って大会社らしいんですが、東京にある会社でした」 「じゃ、鍵が届くまで、時間かかるよね」 「いや、あの先に見えてる、扉のことでしょう」  生駒は含み笑いをしながら、 「鍵は途中であきらめて、その会社に了解をとりつけ、鍵開けのプロが、こっちに向かってるはずです。南署《うち》にも何人かいますので、防犯課に」 「なるほど……」 「それに、さっき自分らがくぐってきたフェンスの穴は、人はもう通さないです。さっき植井くんに連絡して、封鎖してもらったんですよ」 「へえ……」 「考えれば、あの穴、すごく狭かったでしょう。だから何かがひっかかってる可能性もあると思って」 「あっ、なるほどね……」  生駒の機転に感心しながらも、その穴のまわりには、緑、青、赤、白のコートの繊維が付着していそうだなと、竜介は思う。 「だから道で、待機してるはずです。鍵開けが到着しだい、ぞろぞろーと入って来ますから」  生駒の言葉どおり、しばらくすると通用門らしき小さな扉が開いて、青いつなぎ服にジャンパー姿の男たち五、六人が、先陣をきって入って来た。手に手に機材をもっている。 「岩船《いわふね》さーん! まずライトねえ」  生駒が声を飛ばした。  集団の中でも一番小柄な人物が、うんうん、と頭をふっている。  岩船さんは鑑識課の係長(現場の責任者)で、名前はよく存じているが、顔を見るのは竜介は初めてだ。華奢《きゃしゃ》で、どこか鄙《ひな》びた感じがする人である。 「こちらは、火鳥先生です」  生駒が紹介してくれた。 「ああー、はいはい、あのM高の歴史部の、娘さんのおにいさん」  岩船も同様に、竜介のことはよく知っているようである。  が、挨拶《あいさつ》もそぞろに、 「入口から何メーター?」 「二十メーターぐらいですかね」 「中は入り組んでるの?」 「それほどは、ひとつの部屋って感じです」 「広さは?」 「二十畳ぐらいでしたかね」 「だったら、発電機は外の方がいいな。空気が悪くなるから。——じゃ、もろもろ準備してね」  てきぱきと打ち合わせをし、 「自分、先に一度見てくるけど、生駒くんついてってくれるよね」 「ええ、お供しますよう。——先生は、ここから動いちゃダメですよ」  生駒が念を押して、ふたりは洞窟の中に入っていった。  つなぎ服の鑑識課員たちは、あたかも軍隊アリのように、黙々と機材を運んでくる。重たそうな発電機はふたりがかりで、コードのリールを十巻ほど、そして照明器具などが入っているジュラルミン製の四角い箱をたくさん……その箱から出して、設置を始めている課員もいる。洞窟の入口の外も照らすようで、フェンスぞいの通り途《みち》にもコードを延ばしている……考えれば、すぐに陽が落ちてしまうからだ。  ふたりが地上に戻って来た。  岩船は課員を何名かともなって、ふたたび中へ。  ブルルルルルーン……発電機に火が入った。  そうこうしていたら、暗色《ダーク》のコートに身をつつんだ男たちが三人、扉口から姿をあらわした。  肩をいからせぎみに歩いてくる、いかつい体つきの猛者《もさ》は、刑事課の野村《のむら》警部補。  手に黒い診療鞄をもっている恰幅のいい中年男は監察医だろうが、竜介は知らない。  そして、パッと見は刑事には見えない、運動選手《アスリート》のようなすらりと背の高い男は、依藤警部さん、つまり竜介の因果な友人だ。  三人は、慌てた様子など微塵《みじん》もなくゆっくりと歩いてくる。照明がつくのを見計らっていた感じだ。  そして通りすがりに、 「あっ、先生」  会釈して依藤はそれだけいうと、ふたりをともなってそそくさと洞窟の中へ。 「……嵐の前の静けさですよ」  生駒が耳元でささやいた。  その生駒もどこかへと消え、竜介ひとりが、洞窟の入口前で立ちつくして待つこと……約三十分。  依藤ひとりだけが、ようやく外に出てきた。 「先生。ちょっと向こうへ行って、話しましょう」  依藤は扉口の方へと歩いていく。  竜介も従った。  扉(通用口)の前に立っていた制服警官に、 「遺体の運び出しオッケイだから、外に伝えて」  簡単に指示を出すと、依藤は、さらに奥へとフェンスぎわを歩いていく。  そして十メーターほど先で立ち止まると、 「うーんちょっと、ややこしそうですよ。誰だ勝手に入り込んで事件をおこしているのは、て地権者はおかんむりだし。それにほとけさんの身元も、身分がわかるようなものは何ひとつ持ってないんですよ。そのうえ殺人事件なのか何なのか、監察医もてんであやふやだし……」  依藤は恨み節を、ぶつくさと独り言のようにいう。  ……が、中身のあることは爪の先ほどもしゃべっていない。 「さてと、先生は今日はおひとりでここに来た、てわけじゃないですよね?」  依藤は、ズバリ核心を突いてくる。  竜介は油断していたわけではないが、 「ええ、もうご推察どおりです」  はなから降参していう。 「死体の第一発見者が火鳥先生だと聞いた瞬間、イヤな予感がし、そして洞窟に入って壁の仏像を見て、それが確信に変わりました」  依藤は、ぜんぜん怒ってないふうにいい、 「するとですね、例の……神さまの少年も、一緒に来ていたわけでしょう?」  依藤も、アマノメの御神《おんかみ》のことは知っているのである。鑑識課の岩船に見抜かれたこともあって、ならばやむをえまいと、竜介が詳細を教えたからだ。それは半月ほど前のことだが。 「ええ、歴史部が全員で来ましたから」 「そうすると、あの洞窟に入る前に、中で死体がころがってることを、少年は、わからなかったんですか?」 「いや、そういうのは、見えないんですよ。岩を透かして洞窟の中を見通す……なんてことはできませんから。それは彼だけじゃなく、できません」 「うん? なんかそういう超能力、話に聞いたことがありますけど」  依藤は不満げにいう。 「それはね、情報が別のところにある場合です。かりに、犯人がいたとして、男を殺して洞窟に隠したとしましょう。その犯人の脳と、彼がコンタクトをとれれば、即わかります。洞窟に死体がころがってる、そんな映像が見えますから。けどコンタクトがとれなければ、なーんもわかりません」  竜介は、小刻みに首をふっていう。 「ふーん、なるほどね」  依藤はあたりを見渡しながら、 「すると、これもかりの話ですが、犯人は近くにはいなかった、てことなんですか?」 「ま、距離の遠い近いは別にして、彼の脳がコンタクトをとれる範囲には、犯人に相当するような人はいなかった、と考えていただいた方が。あの洞窟の死体に関しては、彼も、まったく予期していなかったことらしく、信じられないといった顔で大びっくりしてましたから」  とはいっても、実際は(竜介自身が驚いていたから他人がどう驚いていたかなんて)見てるはずもなく、マサトをかばっての発言だが。 「なるほどね……」  依藤は、残念そうにうなずき、 「犯人からなら何とかなるが、つまり死んじゃってる人の方からは、もうなーんもわからないってことなんですね」 「ええ、そのとおりです。あのような暗闇では、すぐ足元に死体がころがっていても、ぜんぜん察知できないんですよ。そのてんでは、われわれ普通人とおなじです」 「じゃあまあ、それほど、全知全能ってわけでもないんだ。神さまとはいえども」  依藤は、厭味《いやみ》っぽく、勝ち誇ったようにいう。 「けどね、事と場合によっては、死んだ人からだって、情報がとれるんですよ」  負けじと、竜介もいう。 「どんな場合ですか?」 「えー……たとえば、鉄砲で心臓を撃たれたような場合、即死、ていいますよね。ところが、心臓が停止しても、脳の方は、十分、二十分、うまくすりゃ三十分ぐらいは、生きてるんですよ。だからその間だったら、彼がひとニラみすれば、つまり、撃った犯人の映像が見えるわけですね」 「はっはーん!」  ——草原じゅうに響き渡るほどの大声をあげ、 「そりゃいい話聞いた! 今度そういったチャンスがあったら、ぜひ呼びますから、来てくださいよ」  依藤は狂喜乱舞せんばかりにいう。 「いい話聞いた、いい話聞いた……」  その後も彼は連呼している。  しまったあ、刑事にこんな話するんじゃなかった、まさに猫に鰹節《かつおぶし》ではないか……竜介が、依藤の挑発にまんまとのってしまったのが敗因だ。 「やっぱり先生とは、ちょくちょく会って話をしなきゃねえ」  依藤は、なおも上機嫌でいってから、 「けど、今日のほとけさんには、その手は使えませんので……ところで、ころっと話は変わりますが、自分、ここ知ってるような気もするんですよ」  突然そんなことをいうと、草藪を、さらに奥へと歩き出した。  しかもフェンスから離れ、ともすれば腰の背丈ほどもありそうな草々を靴底で踏んづけて道を作りながら、敷地の中央部の奥へと進んでいく。  ちょっとした、ジャングルの行軍だ。 「……あっ、ここだここだ! やっぱり間違いないですよ、先生」  依藤が立ち止まった先には、建物の土台だったらしきブロックが、草藪からところどころ姿を見せていた。それも、かなり大きな建物の跡のようだ。 「ここね、昔、お寺が建ってたんですよ」 「なるほど」  竜介は、合点《がてん》がいったふうにうなずいて、 「あの洞窟の上には、神社があったそうです。寺の境内のすみっこにあるのが、定番ですからね」 「あー、はいはい」  依藤も洞窟の方を見やりながら、 「そういえばあったな。小山の上に、木に囲まれて古びたやつが。そう、そうそうそうそう」  思い出してきたのか、何度もうなずき、 「今はなんもありませんが、大きな木もけっこう植わってて、この前には……たしか池がありましてね、橋もかかっていて、太鼓橋っていうんですか、木製の丸っこい形をした」  竜介は——首肯《うなず》く。 「なかなか立派な、庭園だったんですよ。それに、お寺の裏手には」  依藤は、そちらに目を移しながら、 「ずらーと墓石が並んでたんだけど、きれいさっぱり、どっかへ移しちゃったんでしょうね。ばーち当たりが」  憎たらしそうにいう。 「それは、どんなお寺だったんですか?」  あの洞窟との関係や五寸釘の件などもふくめて、竜介は興味を覚えていった。 「どんな、ていわれても」  依藤は不貞腐れぎみにいい、 「これは古い話ですからね。おれが刑事になりたてのころだから、ざっと二十年は前でしょうか。それに自分は、お寺の建物は知らないんですよ。来たときには、燃えかすしか残ってませんでしたから」 「あっ、火事で……」 「しかも焼死者が出たので、警察も調べにゃならんでしょう。で新米刑事のおれが、つたない捜査をやったわけですよ」  とそこまでしゃべって、依藤は沈黙する。 「で、どうなったんですか?」  竜介は先をうながす。 「ま……いわゆる、迷宮入りってやつですわ。それ以外に何かあります? おれの顔色からいって」 「いや、ぼくは人の顔色をうかがうの、あまり得意じゃなくって」 「心理学の先生のくせに!」  依藤は半分怒っていってから、 「そもそも、失火なのか放火なのか、それすらもわからなくって。もう完全に、木造建築が燃え落ちちゃってましたからね。けど、不審なてんも多々あって……今は野っ原ですが、ここは道になってなきゃおかしいんですよ」 「道?」 「バイパス道路の建設予定地にひっかかってて、移転するのどうのと、もめてたんです」 「じゃ、放火って線も、考えられますよね」 「それも単純じゃなくって、ここには、住職の僧侶がふたりいたんですが、老人と、若い息子ね。けど、血のつながりはなくて、養子さんなんですよ。縁があるお寺から、跡継ぎとして来てもらったんです。ところが、このふたりが、意見が真っ向から対立していたらしく、そして意外にも、若い住職の方が移転には反対で、古くからこの地にあった由緒正しきお寺を、動かすなんてもってのほか、何がなんでも死守しましょう、てね。かたや老人の方は、土地をできるだけ高く買ってもらって、もう少し便のいいところに、こざっぱりとした真新しい寺を、こういうのは檀家《だんか》さんから話を聞いたんですが……あっ、歴史部歴史部」  依藤は何を思ったか、突如いい、 「あの岩船さんが、文化祭にいって話を聞いてきて、その受け売りですが、お寺によっては、一メーターの狂いもなく位置ぎめして、建てられてるそうですよね。だからここも、似たような事情が、あったのかもしれませんね。今にして思うと」 「するとですね、警部さんの話しっぷりでは、火事で焼死したのは、その若い住職の方?」 「あたり……」  依藤は、濁声《だみごえ》でささやいていい、 「それだけではなく、奥さんと、小さな子供も、つまり一家全員が焼け死んだんです」  その話には、竜介もさすがに沈痛な気持ちになった。が、聞かないわけにはいかない。 「すると、その老人の住職だけが、助け出されたわけですか?」 「いえいえ、その火事の当日、老人はひとり、はるか遠方の鹿児島県にいて、どっかのお寺の、祭りの手伝いをしていたそうです。もちろん、これは裏はとってますよ」 「僧侶が、系列の別の寺に手伝いに行くのは、めずらしいことではないですが、鹿児島県とはねえ」 「ちょっと、わざとらしいでしょう。アリバイ過多、て感じです。もっとも、その彼が放火の実行犯、てことはありえないので、裏で、悪い連中とつるんでんじゃないかと、そんなことも視野にいれながら、その彼をマークしてたわけですよ。けど、ぜんぜん尻尾《しっぽ》出さない。それどころか、檀家さんを一軒一軒訪ねまわって、寺を再建したいから多額のご寄付を、それもなぜかこころ変わりをして、元あったこの場所に建てたい、それが亡き息子の遺志であり供養にもなるから……などといってね」 「まあ、芝居っぽいといえば、そうかもしれませんけど、本心のようにも」 「いえ! 警察は疑うのが仕事です」  依藤は強い口調でいい、 「それに、寄付はそう簡単には集まりません。お寺の建物は、ちゃっちいやつでも、最低一億ぐらいはかかるそうですから。けど、そういって訪ねて来られると、檀家さんだって、少しはつつむでしょう。そのお金は老人の生活費に消えてんじゃないか、て噂もあり、そんなこんなで何年かすぎたある日、とんころりーんと心臓|麻痺《まひ》でお亡くなりになっちゃったんですよ。その老人は」 「あらららら……」 「でもって、迷宮入り、なわけです」 「ふーん」  竜介は思案げにうなってから、 「すると、この広々とした土地は、誰が相続したんですか?」  庶民が詮索《せんさく》したがるような疑問点をたずねる。 「いや、ここは宗教法人ですから、遠縁の誰かが相続して、売っぱらって、はいさよならーてわけにはいかんのですわ。定款《ていかん》にしばられてますのでね」 「定款……ですか」  竜介も言葉は知っているが、その種のことには、うとい。 「土地を処分するような場合には、全体の四分の三以上の同意が必要なんですよ。この全体っていうのは、つまり檀家さんですね——ここにお墓があった。老人の住職が生きていたときは、まだ方向性を示せたんですが、その旗振り役がいなくなって、跡継ぎもいないとなると、いきなり合議制になって、もうぐちゃぐちゃなんですよ。そのあたりで、自分らは捜査をあきらめ、手を引いたんです。お墓のことなんかに、警察は関与してられませんのでね」 「あっ……問題は墓か、それはたしかに困りものですよね。面倒を見てくれる人がいないと」 「でも条件は最悪でしょう。お寺の建物はないわ、片田舎だわで。そんなとこに来てくれる奇特な僧侶など、今の世にはいません」  依藤は断言していう。 「けど、これだけ広いんだから、土地の一部を売れば、それなりの資金はできたでしょうに」 「——残念」  依藤は首をふりおろして否定し、 「当時はこのへんの土地は二束三文《にそくさんもん》……とまではいいませんが、そう高くありません。それに、お寺もある種の企業ですから、銀行から借入金があって、土地は担保に入ってたんですよ。だからおいそれと、処分はできないんです」 「だったら、最初の道路建設の話を呑《の》んで、高額で買いとってもらえば」 「いや、それは建物があったときの話……なければ、ここは墓場にしかすぎず、行政だって足元見ますよ。檀家さんがいってたには、提示額は、たしか、四分の一ぐらいにまで落っこちたそうです」 「……行政もあくどいなあ」  苦笑しながら、竜介はいった。 「だぁらもう八方ふさがりでしょう」  依藤は巻き舌でいい、 「その後、話がどう進展したのかは、調べりゃわかりますけど……どっちにせよ、この土地では儲《もう》けられません。よしんば相続して土地を換金したとしても、銀行からの借入金で、あらかたは」 「なるほどね」  竜介も、庶民が詮索しそうな疑問点は解けた。  ——が、 「話を最初に戻しますけど、その老人が放火に関与していたと仮定して、何のメリットが彼にあったんです? お寺の資産価値が、つまり四分の一に減っちゃったわけでしょう。放火で」 「さすが、いいとこ気づきましたね先生」  ニタ、と依藤は笑ってから、 「ところが、別のメリットが生じるんですよ」 「どのような?」 「土地に着目してもだめです。先に説明したように。つまり、宗教法人格そのものの売買、こちらが金になるんですよ。マネーロンダリングや脱税などに、使い途は多々ありますから」 「そちらですか、噂にはよく聞きますけど、具体的なことはねえ」  竜介は知らない。露骨にそんな顔をした。 「じゃ、チラッとだけ教えますが」  依藤は仕方なさそうに、 「土地の処分や移転以外にも、住職の任免の規定や、定款そのものの変更なども含めて、大それたことをやろうと思えば、四分の三の同意が必要なんです。そこが宗教法人の箍《たが》ですので、ここをいかにして外《はず》すかです。じゃ、具体的にどうすればいいのか……つまり、檀家さんをゼロにできれば、その四分の三なんて意味がない」 「ええ?」  竜介はしばし考えてから、 「ということは、お寺とお墓とを切り離しちゃう、てことですか」 「だから、お寺を、廃寺《はいじ》同然の状況に追い込んじゃえば、自動的にそうなるでしょう」 「なるほど、お墓や檀家は、系列の別の寺にでも、移らざるをえないですもんね」 「すると、住職がひとりで、定款そのものを自由に書き換えられるから、何だって可能です。お寺を他人にくれてやるのも、紙切れ一枚」 「はあ……」  竜介は、あきれて嘆息《ためいき》をついた。 「実際のやり方は、そこまで単純じゃありませんよ。それに、古くからあるお寺は、宗教法人の売買では、破格の値がつくんです。過去の実績と信頼があるので、行政のチェックがめちゃ甘なんですよ」 「ほう……」  竜介としては、ただただ感心するしかない。 「だから、老人がそのような法人格の売買をやるんじゃないかと、自分らはマークしておったんです。その瞬間をお縄にしようと。私文書偽造程度は絶対にやってますからね。それを突破口に、火事の件を問い詰めようと——」 「けれど、とんころりーん、なんですね」 「だったわけですよ。それが南署《うち》の捜査方針の真相。なぜここまで詳しくしゃべれるかというと、もはや完全に時効だからです」 「ハッ、ハハハハ……」  竜介は吹き出して、笑った。 「ところで、洞窟の方ですが」  依藤が、ひさびさに本題に戻していう。 「壁に彫られていたたくさんの仏像、これはまあいいとしても、石の祭壇がありましたよね。その上に、黒い小《ち》っこい像が置かれてあったんですけど、先生はごらんになりました?」 「ええ、見ました」 「あれはいったい、何なんですか?」  顔をしかめて依藤は聞いてくる。いかにも、いかがわしいものであるかのように。 「いわゆる黒いマリア像ですが、警部さんがご懸念なさっているような、よろしくない宗教が、からんでいる可能性もあります」 「それは、どのような?」 「具体的にどこだと特定できるわけじゃないんですが、根源《ルーツ》は、もちろんヨーロッパですね」 「それが日本に、しかも、こんな片田舎に」 「けど、黒いマリア像は、そこそこに知られてますから、西欧かぶれしている日本の新興宗教の一派が、偶像として使っている可能性もあります」 「先生、そう可能性を連発されても」  依藤は不服そうにいい、 「自分が思うに、マリアさんって、ふつう白いですよね。だからあそこにあった黒いやつは、その裏って感じで、つまり邪悪なマリアさん」  ——結論を圧《お》しつけてくる。 「その裏ってところは、正しいです……ですが、白があったから黒が生まれて、裏表になった。てわけじゃないんですよ。先に黒があったのに、白を無理強《じ》いされて、やむをえず、黒は裏の存在に甘んじている。それが正しい歴史認識です」 「あれえ……」  依藤は、いかにもわからないって顔をする。 「もともと、はるか古代から、黒い女神がいたんです。バビロニアのリリト、エジプトのイシス、ヒッタイトのキュベレ、ギリシャのアルテミス……などなど。もっとも、この黒という形容詞は、キリスト教的な差別発言ですよ。黒石が聖なる石だったこともあって、黒い女神像も、少なからずはあったんですが。で、キリスト教時代に入り、聖母マリアの信仰が流布《るふ》されます。これが白いマリア像ですね。すると黒い女神は、マグダラのマリアに置き換えられちゃうんですよ。聖書に登場する女性ですね」 「はいはい、みんなからよってたかって石を投げられる、あの娼婦でしょう」 「映画では、決まってそう描かれますね。ところが、二、三世紀からつい最近までは、マグダラのマリアが、大衆には圧倒的に人気があったんですよ」 「娼婦がですかあ」  依藤は、濁声でいかがわしそうにいう。 「たとえば、ノートルダム寺院……有名ですよね。同名の寺院が数多くあるんですが、これらはすべて、マグダラのマリアを祀《まつ》るために、建てられたものなんですよ。やはり数多くある、マドレーヌ寺院、も同様です」 「そんな有名寺院で、娼婦を祀ってたんですか」  依藤は、なおもいう。 「もちろん、バチカンはおかんむりで、聖母マリアを崇拝しろと強要します。で仕方なく、マグダラのマリアは、地下聖堂へと追いやられるんです。それが、いわゆる黒いマリア像ですね。実際に色が黒いかどうかは別にして」 「ほう、そこまでの先生の説明だと、これといって邪悪な感じはしませんね。娼婦だって、見ようによっては、男に幸せを与えてんだし」  今時分になって、依藤は弁護する。 「ええ、大寺院に置かれている場合は、とくに邪悪はありません。マルセイユのノートルダムのそれは、善良なる真っ黒な女神、と称せられていたし、パリのノートルダムでは、マグダラのマリアは聖母で、愛の都に君臨している……とまでにね」 「まさに、愛ですね」  依藤は納得していう。 「けれど、地下聖堂、つまり裏に押し込められれば、どうしても邪教化しやすいんですよ。悪い連中に外にかつぎ出されて、悪用されちゃうわけですね。日本にもおなじ例があって、たとえば、ぼくたちがお寺にいくと、見えるところに置かれてある金ピカの仏像に、願い事をしますよね。これは白いマリア像。けれど、そこの僧侶が願い事をする場合は、裏にひそかに置かれてある、こわおもての仏像に……です。それが密教《みっきょう》の定番《スタイル》です。裏に置かれているのは、おもに天部《てんぶ》の神ですが、裏神《うらがみ》さんだと歴史部は呼んでます。いいえて妙ですね」 「う、裏神さんですか……雰囲気ありますね」  そのネーミングは依藤もお気に召したようだ。 「そして、その裏神さんは、やはり邪教化するんです。髑髏《どくろ》崇拝の真言立川流《しんごんたちかわりゅう》などが、その代表格ですね。だから洋の東西を問わず、人間は似たようなことをやってるんです」 「ふむ、寺院の地下聖堂からかつぎ出されて、あの地下の洞窟に置かれた。あってるちゃあってますよね。やはり、邪教化してますか?」 「十二分にしてるでしょうね。だって、壁にいるのは、仏教の仏たちでしょう。喧嘩売りにきてるようなもんです」 「あっ……いわれてみれば」 「それに、石の祭壇ですが、ぼくはよく見なかったんですけど、蓮華《れんげ》のような形になってませんでしたか?」 「はいはい、蓮の花びらみたいになってましたね」 「ますます無謀ですね。蓮華座は、クリスチャンにいわせると、悪魔の座布団なんですから。そんなところにキリスト教由来の偶像物を置くなんて、どんな神経をしているのか、ぼくには、さっぱり理解できません。だからもう究極の邪教ですね」 「ほう、そういった細かいところが、宗教はうるさいんですねえ」  竜介は、依藤があれこれと聞いてくるのはもしやと思って、 「ひょっとして、犠牲《いけにえ》の儀式あとのようなものでも、あったんですか?」 「そういったのは……」  依藤は明確には否定しない。 「古代の、黒い女神の場合だと、犠牲の儀式はありましたからね」  竜介は念のためにいった。 「ほうほう……」  依藤は、思案げにうなずいているだけだ。 「ところで、つかぬことを聞きますが」  竜介が切り出した。 「あの洞窟の中に、地面に、細長い木の箱が落ちてましたでしょう」 「さあて、ありましたっけねえ」  依藤はとぼける。 「あったはずです! ぼくがこの目でしかと見ましたから」  竜介は力説していい、 「その箱はふたが開いていたはずで、ふたも近くに落ちていて、問題は、その中身なんですけどもね」 「ほう、中には何が入ってたんですか?」 「おそらく、古い五寸釘だと思うんですが、そういったの、落ちてませんでしたでしょうかね?」 「古い五寸釘ね……」 「それ、ちょっと重要なものらしいんですよ」 「重要……ねえ」  依藤は無表情で、鸚鵡《おうむ》返しにいうだけだ。 「そのへんが、歴史部の探し物らしいんですよ」 「歴史部さんのねえ……」  依藤はなおもいってから、 「そもそも、歴史部さんは、何を手がかりにして、あんな洞窟を見つけられたんですか? 外からは見えないのに」 「あっ、それはですね……」  竜介は、まな美のスクラップブックにあった古い新聞記事のことを話した。ならばそのコピーを、いや現物をくれと依藤はいう。けど、記事の中身とは辻褄が合わないことに竜介は気づいた。 「……正しくはですね、妹が、五寸釘に興味をもってるんですよ。それは新聞記事には出てません」 「じゃ、どっから仕入れたネタなんです?」 「うーん、どう説明したらいいのか」  竜介はしばし考えてから、 「これは隠し立てしてるわけじゃないんですが、うまく説明できないんですよ。まあ、彼女が夢で見た、とでも思っていただくしか」 「夢、ですか?」  依藤は、ぜんぜん信じてないふうにいう。 「ほら、御神がそばにいるでしょう。すると彼女の身のまわりでも、奇妙なことがいっぱいおこるんですよ」  なかば自棄《やけ》っぱちになって竜介はいった。 「それはそれは、たしかに妹さんは、以前に呪われたりもしましたっけねえ」  依藤も同情ぎみにいい、 「じゃ、かりの話ですが、そういった五寸釘みたいのが洞窟にあったとして、先生は、それをどうされたいんですか?」 「できれば、それが欲しいんですけどもね」 「欲しい……」  依藤はニラんでくる。 「いや、貸していただければ、けっこうです。それも短期間」 「貸すねえ……」  依藤はなおも渋い表情だ。 「なんか、あったみたいですね!」 「さあて……」  依藤は、またもやとぼける。 「ラチがあかないなあ、それはすごく重要なものらしいんですよ。妹は今ちょっとした病気でしてね。実際に。その病気を治すためには是が非でも、それが必要らしくって、彼女の夢の話では」  竜介は泣き落としをかけていう。 「先生のたってのお願いだけど、今回ばかりは、それはかなえられそうにありませんよ」 「岩船さんから、ちょろまかすという手は?」  竜介が唆《そそのか》していうと、 「そうそうおなじ手は食わんです。彼も!」  依藤は半分笑いながら怒った。  が、警部さんの話しっぷりからいくと、五寸釘は洞窟にあったが、死体の近くに落ちていたか、最悪ポケットにでも入っていたか、そのあたりなんだろうなと竜介は思った。  長話をしていたら、空には夕闇がせまってきていた。死体袋をのせたストレッチャーは、だいぶ前に外へと運び出されていった。その後も、フェンスぞいの通り途は、警察関係者がひっきりなしに往来している。  そちらに戻ろうと歩いていると、 「そうそう、思い出した思い出した」  依藤がいう。 「ここのお寺ですけどもね、りゅうがんじ、て名前だったんですよ」  竜介は、最悪の漢字が頭に浮かんで、たずねる。 「どんな字なんですか?」 「竜の——眼《め》の——寺ですね」  竜介は、草藪に棒立ちしてしまった。 [#改ページ]  4 「そやけどたくしーはらっきぃやったな。自分らいつも、乗りたい思《おも》たときには、たいてい空車のたくしーが来てくれるもんな。幸運の星の下に生まれとおんや」  そういう土門くんの声にも、いつもの元気さはない。まさに意気消沈のありさまだ。  その奇特なタクシーで、古利根川《ことねがわ》沿いにある森の屋敷(マサトの自宅)へと直行した歴史部の四人は、今は、離《はな》れの書院座敷の一室で、電気|炬燵《ごたつ》に足をうずめながら、あれやこれやと善後策を模索している最中なのだ。——彼らなりに。 「おにいちゃん、うまくやってくれてるかしら」  まな美がつぶやいていった。  うまく、とはもろもろを意味するが、彼女の最大の関心事は、やはり五寸釘の件。 「大丈夫大丈夫、きっとうまくやってくれてはります。学校にはばれへんです」  土門くんは、自身の最大の心配事をいい、 「そやけど、おにいちゃん、よりも、おにいさん、の方がええ思うよ。姫のきゃらでは」  やんわりとうながす。 「——ん」  まな美はふくれっつらでうなずいた。  弥生は泣きべそ顔で、 「歴史部の調査って、いつもあんなに、こわい目にあうんですか」  みんなを非難するようにいう。 「いつもちゃうちゃう、いつもちゃうで。いつもはもっともっと楽しいことばっかしや。こんなんで懲りてやめたらあかんでえ、水野さん」  土門くんが必死になぐさめていった。 「なあ、天目も黙ってへんで、もっとやさしゅうしてやったら」  と、突然うながされたマサトではあったが、彼は別種のことにこころを奪われていた。  タクシーに乗ったあたりから見え始めていた絵を、自分なりに考えていたからだった。  ——古い五寸釘。  まな美がそれにご執心なことはすぐにわかった。紫の上等そうな布にくるまれてあったそれを、手にとって凝視《みつ》めている。そんな絵が見えたからだ。かたわらには土門くんの顔もあった。それはおかしい。彼の方からは五寸釘の絵などはいっさい見えてこないからだ。それに、洞窟に入ってくる男の顔も見えた。若い男らしかったが、死人のような虚《うつ》ろな目をしている。いったい、誰なのだろうか?  けど、彼女の見た五寸釘は、あの洞窟の中にはないようだった。どこか遠い……別の場所に……。 「わたしが思うに、あそこはお寺の敷地だったはずよ。すみっこに神社があったことからいっても。だから、そのお寺のことを調べるのが先決かもしれないわ」  まな美がいった。 「そやけど自分は、姫の古い新聞にのっとった、正体不明の謎の仏像|?《くえっしょん》いうんが気になるぞう」 「だってそれは、わたしはすでに見てるんだから、謎の仏像が置いてある、そのお家《うち》を訪ねて。ほんとは土門くんも一緒に」 「ええー……」  土門くんは困った顔をする。 「そのときに撮った写真もあるし、家の近くのDPEに出しといたから、それをもらってくれば」  とはいったものの、みずからの言葉に自信がもてなくなってきて、まな美は首をかしげる。 「姫が写真を撮りはったんは、あのかめらでか?」  土門くんがおずおずと聞く。 「どのカメラよ?」 「それは……天目が推薦した小《ち》っこいやつで、そやけどすんごいよう写るかめらで、歴史部の部費で買うたんやけど、ほぼ姫が独占してはって、あるとき日光でおにいさんに貸したら、傷つけられたーいうてわんわん泣いとったやつ」  土門くんはカメラにまつわる歴史を語る。 「そんなの知らないわ。いつも使ってるのは、使い捨てカメラじゃない。フィルムを巻くときに下品な音がする」 「や……やっぱりかあ」  土門くんは頭をかかえて、小声でいう。 「それに、カメラなんて買うお金がどこにあるっていうのよ。部費はからっけつじゃない」 「いやいや姫。歴史部はすごいお金持ちやねんで。そやからたくしーかて乗り放題やし、調査旅行にいくときなんかは、その地で一等ええ旅館に泊まるぐらいやねんから。部室の金庫に預金通帳が入っとうから、いっぺん見てみたらどないや」 「ええ? どうして……」  どうしてそう自身の記憶と真反対な状況なのかと、まな美がうなだれていると、 「……な、よかったやろ水野さん。こんど調査旅行いくときは、そういうとこ泊まれるんやで。歴史部も捨てたもんちゃうやろう」  土門くんはせっせと弥生のご機嫌をとっている。 「そのお家」  マサトがいった。 「うん? どのお家や……あーあー、姫がすでに行きはったとかいう、謎の仏像が置いてある家か。それはどこにあんのん?」 「盆栽町《ぼんさいちょう》」  まな美は、ぼそ、と投げやりにいう。 「あっ、知っとうで知っとうで。岩槻《いわつき》の三駅となりやんか。かえで通り、けやき通り、もみじ通りとかがあってやな」 「盆栽公園とか盆栽村とかもあるんでしょう!」  まな美は、記憶にあった土門くんの言葉を奪っていった。 「そ、そんな怒らんかて……」  土門くんはたじろぎながらも、 「そのお家、みんなで行ってみるいうんは、どないや?」  提案をしていう。  マサトが、率先してこくりと首肯《うなず》いた。  それを見てか、弥生も首肯く。 「どうやら、反対者はおらへんみたいやで」  土門くんは嬉しそうに、まな美にいった。 「うーん、だって、行くにしても電話番号までは覚えてないわよ」 「そのお家、けんじょうさんとか、姫いうてはったやんか。どんな字?」 「見るに、お城の城ね」 「そやったら、ためしに一〇四で聞いてみよか」  土門くんはさくさくと事をすすめる。  そして自身の携帯電話で問い合わせると、 「……らっきー、誰か書くもん貸して」  電話番号は登録されてあった。 「ほんじゃ、見城さん家《ち》にかけてみよか」  土門くんはボタンを押しながら、 「そやけど、姫が話した方がええんちゃうかな。ひょっとしたら、先方かて知っとうかもしれへんし」  そういって、携帯電話をまな美に手渡した。  けど、まな美としては、これまでの経緯から考えるに、たぶん自分のことは知らないのよね、そんなこころ構えをしながら、電話を耳にあてがった。  ……老人の声が聞こえてきた。 「あのう、わたしは私立M高校の歴史部の、麻生といいますけれど」  ……はいはい、どのようなご用件で。  案の定だとまな美は思いつつも、どう話せば事がスムーズかと頭を回転させながら、 「大炊御門《おおいみかど》さんからおうかがいしたんですが、そちらのお家に、大炊御門さんから託された、謎の仏像があると思うんですよ」  ……えーえー、ございますが。 「それを拝見させていただけないでしょうか」  ……はいはい、かまいませんですよ。 「でしたら急ですけれど、明日のご都合は」  そんなまな美の声を横で聞いていた土門くんが、ありゃりゃ……慌てたふうに手をバタつかせている。  まな美はおかまいなしに、時間を約束してから、電話を切った。 「……りゃりゃりゃー、姫いっつもそうやんか。自分らの都合なんかぜんぜん考えてへんねやろう」  すねて怒っていう。 「もしかして土門くん、明日はピアノのレッスンだなんて、いうんじゃないでしょうね?」 「うっ」  土門くんが絶句した。 「土門先輩、ピアノを習われているんですか?」  弥生も目を輝かせぎみに開いてくる。 「うっ」  土門くんはふたたび絶句してから、いう。 「姫、なんでそんなこと知っとおんや? 極秘中の極秘事項やったのにー」 「でも明日じゃなくって、日曜日でしょう。ピアノのレッスン日は」 「だ、誰やもらしたんは……どこから話がもれとおんや……おかんから聞いたんか?」  土門くんは、あたりをキョロキョロと見廻す。 「パパ、じゃなかった、おにいさんに唆《そそのか》されたのよね、きっと。巨大な手だからピアノを習いなさい、シューベルトの例もあるからって。そして土門くんがおかあさんに話したら、着付け教室の生徒さんにピアノの先生がいて、坊《ぼん》ちょっと来てみー、どれどれ手え見してー、とかいわれたんでしょう」  まな美が知っているかぎりのことをまくし立てると、土門くんは万歳の手をするや、そのまま真後ろの畳にばたーんと倒れ込んでしまった。  そんな彼の様子を見ていて、まな美は、自身が置かれているこの奇妙な状況も、まんざら捨てたもんじゃないわねと思えてきて、ちょっと楽しい気分になってきた。要は使い方しだいのようだ。  土門くんは這々《ほうほう》の体《てい》で起き上がると、 「ちょ、ちょっとは弾けるようになってから、みんなをあっと驚かしたろ、思《おも》とったのにー」  いかにも恨めしそうにいう。 「姫と水野さんのはーとをつかめる思とったのに」  小声で冗談をつけ加える。 「そんなので、乙女のハートはつかめないわよね」  まな美がいい、 「土門先輩は、ありのままがいいと思いますよ」  弥生もいう。 「くっっそう……」  土門くんはふたたび畳に寝転がってしまった。 「正体不明の、謎の仏像」  マサトがいう。 「あっ、そうやそうや」  土門くんはがばっと起き上がり、 「姫はそれをすでに見とおんやろ、それはいったいけっきょく何やったん?」  早口でたずねる。 「見たけど、それはわからなかったのよ」 「ええー、姫がわからへんかったんやったら、そんなん自分らが見てもわかるはずあらへんで」  マサトと弥生も、同意してうなずいている。 「だって、一度も見たことのないようなお像で、すごく恐い顔をしているんだけど、たれ目で……」  まな美は、覚えているかぎりのことを、あれこれと詳細に説明した。  土門くんは、ひととおり聞き終えてから、 「それはやっぱり、裏神《うらがみ》さんのたぐいちゃうんか」  至極あっさりという。 「なにそれ? うらがみさんって、人の名前?」 「いや、裏にいてはる神さんやから、裏神さん、もしくは裏神さま。これはそもそも姫のねーみんぐやねんで」  土門くんも慣れてきたのか、まな美の頓珍漢《とんちんかん》な問いかけにも懇切ていねいに応じる。 「わたしがあ……」 「そやで、名づけただけちごうて、裏神さんの歴史をぜーんぶ姫が解きはったんや。最澄《さいちょう》が空海《くうかい》と喧嘩して、すねた最澄が、荼吉尼《だきに》なんか使《つこ》たるかーいうて比叡山《ひえいざん》に埋《うず》めてしもたんが、そもそもの発端や」 「その話は聞いたことはあるけど、さらにその先があるの? 歴史っていうぐらいだから」 「あるある、なんてもんちゃうぞう。もう一大絵巻で、姫がその話をしはったときには、三時間ぐらいかかったんやで、なあ天目」  マサトも微笑《ほほえ》みながら、うなずいている。 「それはそれは面白い話で、これまでに姫がした謎解きの中でも、ぴか一といわれてるしろもんや。あの慈覺大師《じかくだいし》や淨山寺のお地蔵さんまでもが、ここの床の間にきはって聞き耳をたてとったぐらいの」 「へえー……」  そうそうべた褒めされても、いっさい知らないまな美としては、へえー、としかいえない。  なんだか、ちょっと悲しくなってきた。土門くんたちが知っている麻生まな美は、自分よりも、はるかに知識があって賢いらしいからだ。いったいどうなっているのかしら。 「おっ! そうや」  土門くんは何かひらめいたようで、 「仏像のえきすぱーとが、ひとりおったやんか」 「誰なの?」 「ほれ、日光にいてはる『恙堂《つつがどう》』のおやっさんや」 「うーん」  まな美は、またもや知らないが。 「芦屋《あしや》に『圓龍庵《えんりゅうあん》』いう店があるんやけど、そこは仏像の売買に関しては日本一といわれとう店な。その日光にある分店が『恙堂』や。そやから日本で一、二を争う目利《めき》きやな。そこでわからへんかったら、もう誰にもわからへんぞう」 「ふーん」  すごい知り合いがいるのねと、まな美はただただ驚いて思う。 「ほな、ちょっと聞いてみよか」  土門くんは、炬燵の天板《テーブル》に置いたままになっている携帯電話に手を伸ばした。かと思うと、 「うぎゃ!」  蛙を踏んだような声をあげ、手を遠ざける。 「どうしたの?」 「ま、まずい……幸《さっ》ちゃんが電話に出たらどないしよう」  濡れねずみのような情けない顔で土門くんはいう。 「誰? どうして?」 「いや、『恙堂』のひとり娘で中学二年やねんけど、通称、お告げ娘なんや」 「どこか、可愛らしそうじゃありませんか」  弥生が笑顔でいう。 「それは水野さん会《お》うてへんからいえるんや。何かにつけて、お告げよ! お告げよ! を連発されて、そのお告げがけっこう当たるもんやから、心臓に悪いんやあ」  さすがのマサトも、炬燵の天板から身をのけぞらせている。  土門くんの携帯電話から今にも、お告げよ! と甲高《かんだか》い声が飛び出してきそうだからだ。 「しゃーあらへんなあ、運を天にたくすしか」 [#改ページ]  5  翌日の正午前ともなってくると、刑事課のデスクには、各方面から情報が集まり出してきていた。  生駒は、少し前にネット回線を通じて送られてきたカラー刷りの顔写真を、依藤に示しながら、 「いかがです? ほとけさんと似てますでしょう」  おうかがいをたてていた。 「うん。たしかに似てるね。どんな人?」 「えっとですね、名前は……」  生駒は、プリントアウトされた別の紙切れに目を落としながら、 「……神鷹彪《かみたかあきら》さん。年齢は二十五歳。現住所は、×××と消されてますから、これは病院だと考えればいいんでしょうかね」 「つまり入院中? 長期にわたって?」 「そういうことです。川越にある私立の精神病院なんですが、金曜日の朝八時、そこの病院から川越署に捜索願いが出されています。つまり朝になって、病室にいないことが、わかったようですね」 「病名は出てる?」 「いえ、それはありません。自分らが想像するようなものでしょうか……でも特記事項に、中学三年のとき、県の空手大会でベスト8、と書かれてます。だから、ちょっと危なかったのかもしれません」 「生駒がさっきかけてた電話は、そこの病院?」 「はい、そうです。ちらっと話を聞いてみたんですが、なんでも、自殺願望が強かったそうです」 「ふーん……自殺願望ねえ」  依藤は、デスクに両肘をついて指を組みながら、思案げにいった。 「それがあったので、病院としては十分にケアをつくしておったのですがー、と弁解めいたことをいってましたけど、脱走されてるぐらいだから、どうせデタラメだったんでしょう」  生駒は、否定的な見解を断定的にいい、 「実は、精神病院ランキングなどというホームページがあって、そこをチラッとのぞいたところによると、この川越のそれは、五段階で最低の『E』と酷評されてました。いわゆる座敷牢だったのかもしれません」 「まあ、それはいいとしても、ご両親は?」 「あっ、それが難しいんですよ。母親は、これは別の病院なんですが、やはり同種の病気らしくって、長期入院中。そして父親は、仕事の関係で、石垣島《いしがきじま》に住んでいるんですよ」 「あらっ……」  依藤は(そのはるかなる南国の孤島に何年か前に家族旅行でいったことがあったので)不謹慎にも、ちょっと吹き出してから、 「だったら、その精神病院の、担当医の先生にでも来てもらうのが、身元確認の近道だな。その結果いかんで、父親に」 「ええ、自分もそれしかないと思いまして、病院まで迎えにあがると伝えておきました」 「生駒が、行ってくれるの?」 「はい、できれば自分が」 「だったら、車ん中で聞いてきてね」 「ええ、あれこれと……」  人当たりのよい生駒は、関係者から話を聞き出すことにおいては、南署きっての名人である。 「ところで、やっぱり、自殺なんでしょうか?」  生駒がおずおずと聞く。 「いや、それがまだ、前嶋《まえじま》先生からの連絡待ちなのよ。催促してんだけど」  検死に時間を食ってるところからいって、死因も単純じゃないだろうなと依藤は思っているが。 「ほとけさんの死に姿からいっても、手に五寸釘をにぎりしめていて、自分の胸に突き刺す。いかにも、自殺、といった感じでしたけどもね」 「だけど、出血は微々たるもんだったろう。シャツに染みがついていた程度の。それに、あんなサビだらけの古い五寸釘、心臓に突き刺さる? 金槌《かなづち》ででも叩きゃ話は別だろうけど」 「それもそうですが、こう……両手でもって、えいやとばかりに」  生駒は、その格好をしながらいう。 「それとも、胸にあてがったまま、地面にバタリ。こっちの方がうまくいきそうかなあ」  ——大変だ!  大変だ大変だ大変だ大変だ大変だ大変だ!  大変だあ——  三階の大部屋じゅうに響きわたる金切り声とともに、鑑識課の岩船係長が、通路を跳びはねるようにこちらに駆けてくるのが見えた。  生駒は、邪魔にならないようにと、依藤のデスクから二、三歩後退する。  そこに滑るように走り込んできた岩船だが、 「よ、よりさん! 大変なことがわかったよ!」  ——顔がいくぶん青ざめている。 「じゃ、自分は病院の方に」  生駒がそそくさと立ち去ろうとするや、 「何いってんだ生駒くん! きみも話を聞いていかなきゃ! 命がいくつあっても足りないよ!」  岩船は、鬼のような形相で、呼び止めていう。 「じ、自分らの命が……危ないんですか?」  そのあまりにも鬼気迫る彼の表情に、ただごとではなさそうだなと、生駒はあらためて驚く。  岩船は日ごろから、大変だ! を連発するくせがあり、今日もまたかと甘くみていたのであったが。 「野村《のむ》さんは?」 「ちょっと外に出てるけど」 「古田《ふる》さんは?」 「うーん、さっきまではいたけどね」  古田は隣の捜査課の係長だが、さらに隣の防犯課もふくめて、大部屋はがらーんとしていて、男子課員は数名しか席についていない。 「じゃ、ふたりにだけ話すけど、この話、徹底させてね!」  岩船は強く念押していってから、手にもっていた大きめの茶封筒の中から、透明ポリ袋(鑑識課の常備品でジッパーつきのジップロック)に入った証拠の品をとり出すと、ふたりに示しながら、 「これなんだけどさ——」 「はい、五寸釘ですよね、例の」 「——よく見ててね」  いうと岩船は、五寸釘の(くの字に曲がった)頭の部分をポリ袋ごしに指でつまむと、ひょい、とねじって本体から離した。 「え? 折れてたの? 外したの? 壊したの?」  依藤は驚いていう。 「——壊した。が正しいな」 「釘を、壊すんですかあ?」  生駒がいかにも怪訝《けげん》そうにいう。 「とりあえず元に戻すよ。——するとさ、もう継ぎ目はわからないだろう?」 「ええ、もう何もわかりませんね」  顔を近づけて見ながら、依藤はいう。 「この状態でいじってたら、釘の頭の部分が左右に動いたのよ。それも微妙なバネ加減で、そのバネは、もう壊れて働かないけど、俺が分解したから」 「ぶ……分解?」 「釘を、分解したんですかあ?」 「つぎは反対側の、とがった先っぽを見てよ。よーく見てくれる」  ふたりの疑問など無視して、岩船は強くうながす。 「うーん……」  ふたりは顔を寄せてまじまじとのぞき見る。 「……あれ、なんか、細い穴が、先端にあいてるように見えますね」  依藤がいった。 「そうなのよ。その穴から、極細の針が、五ミリほど、釘の頭を動かすと、飛び出る仕掛けになってたのよ。その針はちょー危ないから、外して、今は鑑識の金庫の中だけど」 「な! なんですって——」  依藤は、事のしだいがわかってきて、デスクを叩いていった。 「ひょ、ひょっとして、その極細の針からは、毒が出るんですか?」 「もちろんよ!」  岩船は、生駒に噛みつかんばかりにいい、 「極細の注射針なわけさ! たまたま気づいたからいいようなものの、俺が死ぬとこだったんだぞ!」  ——絶叫した声が、大部屋に木霊《こだま》した。  依藤は、背中をつーと冷たい汗が流れていくのがわかった。自分も、あの現場で、へたをすれば釘の先端に触れていた可能性はあったからだ。岩船さんのみならず、警察関係者全員が、まさに九死に一生である。 「その毒は、どうされました?」  依藤はたずねる。 「釘からきれーに抜いて、分析にまわした。もっとも、時間かかるよ。南署《うち》の設備では特殊な毒の分析はできないからね。どっちにしても、ほんの一滴で、人を殺せる猛毒のはずさ」 「なんか、|KGB《カーゲーベー》の、殺人グッズみたいですよね」  そういう生駒の顔も青ざめている。 「なにがKGBよ。これは日本の古い五寸釘よ」 「いや、ボールペンか何かで、プッシュしたら毒針が出るようなのを、見たような、見ないような」  生駒は頼りなげにいう。 「映画ででも見たんじゃないのか。たしかにボールペンだと、人の虚をついて、殺人の道具として使えるかもしれないが、これはサビだらけの五寸釘で、いわゆる骨董品だぞ」 「俺が思うに、これは特殊な人を殺すための、殺人グッズなのよ」 「特殊な人って?」 「だから、こういうのに興味がある人」 「ふむ……」  その岩船の意見は、あながち、て感じも依藤にはする。 「たとえば、頭のへんを指でもったとすると、先の方は、そうとがってるふうには見えないから、痛くはないだろうと思って、手の平なんかに立てたりもするじゃないか。するとチクリとやられて、あの世行きなのさ」  岩船は、手で格好を示しながらいった。 「あっ、なるほど。これを手にもって他人を刺すわけじゃなく、知らない人が手にとって、運悪く死んじゃう。そういう殺人グッズなんですね」  生駒が、遅ればせながらに理解していい、 「すると、あのほとけさんは、どっちだったんでしょうか?」 「どっちって?」  岩船が問う。 「いや、身元がほぼわかりまして、精神病の患者さんらしいんですよ。その彼には、自殺願望があったそうで。そして、あの手の格好でしょう。いかにも自殺っぽいじゃありませんか。すると、この五寸釘が毒殺グッズであることを、彼は知っていたのか知らなかったのか、どっち、て意味ですが?」 「そりゃあ、知ってたんじゃないの? 本人が自殺したがってた、ん、なら」  岩船はたどたどしくいう。 「すると、本件は自殺ということで、殺人事件としては捜査しなくてもよろしいんでしょうか? 自分らとしましては」 「——んな馬鹿な!」  依藤は怒っていい、 「自殺とは、あの状況からは判断できないじゃないか。他人に無理やり、あんな格好をさせられたのかもしれないし!」 「……争ったり、抵抗した痕跡《あと》のようなものは、とくになかったんだけどさ。ほとけさんの衣類にも、洞窟の床や、壁にも。前嶋先生も、その種の傷痕はないといってたし」  岩船は、ぶつくさという。 「かりにだ! 自殺だったとして。こんな特殊な殺人グッズ、誰も見たことのないような、驚愕《きょうがく》のしろものを、彼はどうやって入手したの? 生駒、彼はどれぐらい病院に入ってたの? 現住所が消えてなくなるぐらいだろう」 「えっ、たしか、二十歳《はたち》ぐらいのときから、病院住まいだったようですね。電話で聞いた話によると」 「だろう。だったら入手しようがないじゃないか。通販で売ってるはずもなく。それどころか、ちょーちょーちょー特注品だろう」  デスクを三度叩いて、依藤はいった。 「このちょー特殊な構造。俺、ちょっと思い当たるふしはあるのよ」 「何? 岩船さん」 「あのね、奇術グッズで、似たようなのがあるんだ。とくに継ぎ目の処理ね。見た目にぜんぜんわからなくしちゃうという、特殊技術。一時期|流行《はや》った、コインにタバコを通すってのも、その手ね。あるいは、真っすぐで滑らかな金属棒が、上下が奇妙にねじれたりする。つまり、どっかに継ぎ目があるはずなんだけど、それがまったく見えないのね。こういうのと一緒だろう」  岩船は知識の幅が広く、あれこれと知っている。 「その線で、製造者は割り出せそう?」 「あーん、奇術の業界は狭いんだけど、作ってる業者は、世界中にちらばってるからね。さあ……どうかな」  岩船は首をかしげる。  滔々《とうとう》と語ったくせにと依藤は思いながら、 「たとえばだ、話を置き換えてみるとわかりやすい。犯人が、毒入り缶ジュースを作って、それを店に置いた。そのことを知っていた第三者が、それを買って飲んで自殺した。かりに自殺だったとしてな。ならば、その犯人は何の罪に問える?」 「それですと、不特定他者をねらった、殺人未遂ですよね。最低、その罪には問えます」  生駒が、自信ありげに答えていった。 「だから、その線で捜査する!」 「ちょ、ちょっと待ってよりさん」  岩船は異議があるようで、 「犯人が、店に置いたの? その第三者が、勝手にもち込んで、飲んだのかもしれないよ。よりさんのたとえ話でいくと」 「あっ……つまり、この毒殺グッズの五寸釘は、犯人が洞窟に置いたのか、そうでないのか、てあたりの話ですよね」  生駒が意訳していった。 「この五寸釘は、そもそも洞窟に置かれてあった。その線でいく」  依藤は断定していう。 「ええー、それは鑑識課としては、裏はとれないよ。どっから出た話なの……あ、いいいい、教えてくれなくっても。想像つくから」  岩船は慌ててひっ込める。 「あのあたり、てとこですね」  生駒もぼやかしていう。 「どのあたりだろうが、釘は、洞窟にあったの!」  なおも頑なにいいはる依藤ではあったが、その出所は火鳥先生の妹の見た夢、なんてことは口が裂けてもいえない。——刑事としては。 「自分、いいたとえ話、思いつきましたよ」  生駒が嬉しそうにいう。 「テレビゲームで、よく洞窟の中に入っていくじゃありませんか。すると宝箱が見つかって勇んで開けてみると、ドカーン! それは罠《わな》の宝箱」 「生駒くん偉い。自分もその説が正解だと思う。誰かさんのたとえ話より、よっぽどいい」 「くっ……」 「それに、あの洞窟は、コンビニのような店じゃないよ。フェンスに囲まれてて、洞窟があることすらも、一般人にはわからないんだから」 「いわれてみればそうですね。すると、不特定他者ではなく、特定他者をねらっての犯行ですよね」  生駒も前言を訂正する。 「その特定他者が誰かなんて、今さらいうまでもないだろう、よりさん」 「たっ……」 「なんにせよ!」  岩船は憎々しげな表情で、 「神だか何だか知らないけど、そんな魔物どうしの化《ば》かしあいに、俺は立ち入りたくはない! 自分はふつうの人間なんだから」  ふつう、を強調していう。 「まっ……」  依藤としても、岩船の気持ちはわからないわけではない。以前、御神と対峙《たいじ》したときに心臓が止まるほどの恐怖を体験した彼ではあったので。 「だから最初にいったように、命がいくつあっても足りないよ。この事件を追っかけると、先々どんな罠が待ちかまえてるか!? その後始末をするのは鑑識なんだからさ。俺は迂闊《うかつ》にも、あの黒いマリア像に触れちゃったけど、指紋採取のために、あれだってハイテク爆弾かもしれないよう」 「そっ……」  そこまではないだろうと依藤は思うが。 「だからもう自分はヤ! 断じてヤ! この事件だけはやりたくなあい」  岩船は立ったままで貧乏揺すりをしながら、駄々をこねていう。 「……ふむっ」  さすがの依藤も、仏頂面《ぶっちょうづら》で頭をかかえてしまった。  岩船がいうことには一理も二理もあり、想像していた以上に、やっかいな事件であるからだ。御神がねらわれたのは過去に何度となくあるが、南署が犯人をまともに逮捕できたためしはない。それに呪いや幽霊や何だかんだと、警察の領域ですらもない。触らぬ神に祟《たた》りなし、岩船のいうとおりかもしれない。  けど、依藤が思うに、その神鷹なる青年が、この五寸釘を手ににぎって死んでいなければ、誰か他の人物(火鳥先生か歴史部の誰か)が、罠にかかっていたことになる。  あのような洞窟の中で、ひとり寂しく、丸まって息絶えていた青年ではあったが、壁から抜け出してきた仏の化身だろうか……依藤は柄にもなく、そんな空想が頭をよぎった。 [#改ページ]  6  見城さんとの約束の時間は、午後二時である。  だから十五分前に駅にねと、まな美はいった。  けど土門くんは、そんなの守るつもりはない。  要は、その二時に間にあえばよいのだから。  それに歩いて四、五分とのことではないか。  そやったら五、六分前でじゅうぶんや。  そういうのが土門くんの考え方である。  だからきまって、集合場所には一番最後にあらわれる。今日は(今日も)お気に入りのレイカーズの真っ黄色のスタジャンを着て。 「おう、坊《ぼん》、久しぶりー」  濃茶の和服を粋に着こなしている『恙堂』の主人が手をふって迎えてくれた。本名は鈴木良雄《すずきよしお》だが、その平凡な名で呼ばれることはまずなく、屋号が名前のようなもの。  ところが、その彼の背後から、軍隊緑色のだぼっとした丈長のコートを地面にひきずりそうに着ている小柄な女子が、ぴょこんと顔を出した。 「な! なんで幸ちゃんがおるんや?」 「もちろん——お告げよ!」  顔を合わせるなりさっそく食らってしまった土門くんは、 「な、なにがお告げなんや?」  うろたえていう。 「巌《いわお》にいちゃんがお困りのようだから、わたしが助けに来てあげたのよ」  幸子《さちこ》はしゃきしゃきという。 「そ、そんな助けなんか……」  いらん、とでもいおうものなら、祟《たた》られるわよ! が返ってくるはず。土門くんは身動きがとれず、 「……ありがとう」  と頭《こうべ》をたれるしかない。  なぜか、マサトも一緒になって頭を下げている。 「ほな、ぼちぼち行こか」  恙堂が音頭をとって一行は歩き出した。  幸子は、弥生ともすでに仲良しになったらしく、まな美もふくめて女子三人でぺちゃぺちゃ囀《さえず》りながら先頭を行く。最後尾は土門くんで、 「……くそう、昨日の電話のときには天は味方してくれたのに……」  ぶつくさ文句をいっている。  その電話で概要を話すと、恙堂は(ひらめくところでもあったのか)是が非でも自分が鑑《み》るといい、遠路を来てくれたのだ。——東武鉄道を使って片道二時間はかからないが。  まな美は、自身の記憶では会うのは初めてだが、昨日の土門くんの話ではそこそこに知り合いらしいので、幸子の言葉になんとか歩調をあわせた。  けれど、さっき会った瞬間には怪訝そうな目でニラまれて、 「おねえさん人が変わったわね」  などとドキリとするようなことをいわれ、 「——化粧濃いい」  とつけ加えられた。  そういわれてみれば、自宅のまな美の部屋には、どこを探しても口紅ひとつなく、今日はママのをかすめて、うっすらとつけてきたのであったが。  そのほかにも、部屋には彼女の記憶とちがっているところが少なからずあり、まずもって蔵書が増えていることに驚かされた。それも高価な専門書ばかりで、サンタがプレゼントしてくれたのかしら、と情けなく思えるほどに。  信号のない十字路をいくつかすぎると、塀ごしに薄紅色《うすべにいろ》をした八重の花が数え切れないほどに群れ咲いているのが見えてきた。景色はおなじなので、まな美は少し安堵《あんど》した。 「とってもきれいですよね」  弥生が見惚《みと》れていい、 「これ見たことあるな、冬にときどき切り花に使うんや。たしか、乙女椿《おとめつばき》いうたんちゃうかな」  土門くんが自慢げに説明をし、 「ぴったしの名前よね。わたしたちに」  幸子が威勢よくいった。  まな美は、土門くんのつぎなる言葉を期待したが、ぼてっと落ちるんやで、の悪口は聞こえてこない。幸ちゃんがいったせいね……きっと。  立派な門構えも、見城の表札も、門の扉を開けに出てきたお手伝いさんふうの女性も、煉瓦《れんが》タイルの壁のどっしりとした洋風の二階|家《や》も、そしてとおされた、陽の光が燦々《さんさん》と入ってきている広くて明るい応接間も、その窓一面に見えている乙女椿の花も、まな美の記憶とすんぷん違《たが》わなかった。  ただ、どこかしらがちがうような……  見城老人は、以前と同様に、窓を背にしている長椅子に、赤い毛糸のカーディガンをはおって座っていた。 「わざわざ、よく来ていただきましたね」  にこやかな笑顔でいう。  ……服がちがう。それはそうだけど、長椅子に立てかけてあったステッキがないことに、まな美は気づいた。そういえば、お手伝いさんも案内の途中で、大旦那さまはお体の具合が、だから興奮なさるようなお話しは、なんて注意事項はいわなかった。そう思って見れば、見城老人の顔艶もすこぶるいいようで、とっても元気そうである。まあ、それはそれでよいことではないかと、まな美は思った。  挨拶をおえて一同が応接の椅子に腰をおろすと、土門くんが室内をぐるーと見渡してから、 「やー、さすがにええもん置かれてはりますよね」  案の定、目利きを始めた。 「あの絵付けの大皿はまいせんですよね。横の花瓶は、たぶんせーぶるかな、その下はろいやるこぺんはーげんの花のしりーずですよね」  さらには天井を見上げて、 「おっ、天井にはなんと、がれのしゃんでりあが」  わざとらしくいう。 「土門くん、あれはガレじゃなくって、ドームじゃなかった。たしかサインが入ってるはずよ」  まな美は記憶にあったのでいった。 「なんりゃ」  土門くんは驚いた様子で、目を凝らして見てから、 「あっ……ほんまや。姫ようわかったなあ」 「だって、確率五割なんでしょう。この手のものはガレかドームって」 「う、裏事情よう知ってはるなあ」  そんなふたりのやりとりを尻目に、恙堂が椅子から腰を浮かし、あらためまして、と名刺をさし出したこともあって、 「ほう、これで恙と読むんですか」  見城は彼の相手をする。 「日光東照宮の天辺《てっぺん》にある国宝・唐門《からもん》の屋根の上に、この恙という霊獣が鎮座していて、睨《にら》みを利《き》かしてるんですね。そこから名前をとったんですが、実はうちの店にも、その恙が一匹いるんですよ」  恙堂は実に滑らかな口調で、語る。 「それは、どのような霊獣なんですか?」  その語り口にひき込まれてか、見城も興味津々の顔でたずねる。  さすがにプロだわね、まな美は思う。そのてん坊《ぼん》はまだまだ修行が足らない。  恙堂がしばらく話に花を咲かせていると、お手伝いさんがお茶を運んできた。  お盆にのっているティーカップを見て、まな美は思わず吹き出しそうになった。  無印良品のような白カップではなく、今回は絵柄の入った(しかも金彩まではどこされている)上等そうなそれだったからである。和服姿の大人が混ざっているのが原因だ。  客を値踏みしやがってぇぃ! まな美はこころの中で江戸弁で叫んだ。  どこかから女の子のきゃっきゃいう声が聞こえてきて、聞こえなくなった。 「……二階の和室の方に、沖縄のシーサーなら一匹おるんですがね」 「ほう、なかなかお集めのご様子で」  そんな会話で、霊獣談義は一段落ついたらしく、 「それでは」  と、見城がゆっくりと椅子から立ち上がった。  まな美は、横に座っている土門くんを肘でつっつき、 「な、なんや?」 「坊、お手伝いよ」  壁ぎわの床に置かれてある白布がかぶされている箱を指さしていうと、彼もわかったらしく、 「あっ、なんか、自分がやりますよ」  ゼンマイ仕掛けのようにぴょこんと椅子から立って、そちらの方に歩いていく。  土門くんだけは自由に操れるので、まな美としてはいい気分だ。  左横にいる幸子が、どんぐり目を向けながら、 「お猿さんみたいな顔かしら、星の帽子と」  まな美にささやく。  え? どうして知ってるの……聞いていた以上に不思議な子だわねと、まな美はあらためて思う。  土門くんが、箱を運んできて応接テーブルの上にそうっと置いた。 「では、拝見させていただきます」  恙堂が立ち上がって、箱に手をそえながら前蓋《まえぶた》をすーと上に引き抜いた。そして中を一瞥《いちべつ》するや、台座の厚板に手をかけて、前につーと滑り出させた。  彼は、箱の構造がどうなっているかぐらいは、経験上、熟知しているようであった。  正体不明の謎の仏像は、明るい室内で、四方八方から丸見えの状態となったが、一同から声はない。  それに皆で寄って集《たか》って謎の仏像をとり囲む、わけでもなく、まな美は一度見ているから、椅子にふんぞり返りぎみだし、恙堂もやや遠目に、腕組みをしながら凝視《みつ》めている。弥生は、こんな恐いもの見たくないとばかりに斜《しゃ》にかまえているし、マサトは末席で、落ち着きはらって、ゆったりと椅子に腰かけている。  首を亀のように伸ばして見ているのは、土門くんで、その横には子亀の顔が、幸子もテーブルに身を乗り出させて、熱心に見ている。  考えれば、ふたりとも骨董屋の跡取り(坊と嬢)で、子供のころから親についていって、こんなふうに勉強するんだわね、まな美は思う。 「いかがですか?」  しばらくしてから、見城が問いかけてきた。  だが恙堂からは返答がないので、それならばと、 「えー、自分には正体は皆目ですが、時代は十分にありますね」  土門くんがお愛想ぎみにいう。 「どのぐらい、あると思いますか?」 「江戸時代なんか問題じゃなくって、まあ最低でも、室町はあるでしょうね」  まな美は、その彼の言葉を聞きながら、どうして土門くんって、こうもすんぷん違わず記憶のパターンから逸脱しないのかしらと、あきれて思う。 「いや、最低でも平安末はあるな。じゃすと一千年ぐらいは優《ゆう》に経《た》っていそうですよ」  恙堂が、訂正を出していった。 「ほう……一千年は優に」  時の重みを感じさせるような口調で、見城はいう。 「もっとも、西暦八六〇年よりは溯《さかのぼ》れません。それはいえますね」  恙堂は何を根拠にか、断定的にいう。それにわかりやすいようにと(骨董屋が素人を誑《たぶら》かすときのような)和暦や天皇名は使わない。 「それは貞觀《じょうがん》二年ですね」  土門くんが、ふだんとは逆に換算していい、 「そやったら奇《く》しくも、淨山寺のお地蔵さんといっしょやんか。つまりあのへんってことか……」  何やら思いあたるふしでもあったのか、つぶやいてからうなずく。 「すると、もう、おわかりになったので?」  見城が少し驚いた表情でいった。 「ええ、たぶんあれ[#「あれ」に傍点]で間違いないと思うんですが」  恙堂は瞬間、考えるような仕草をしてから、 「ここはひとつ、念のために、大御所《おおごしょ》の意見も聞いてみませんと」  ——真剣な表情でいう。 「大御所、といいますと?」 「いや、自分の親父ですよ。もう八十年近くこんなことをやってますからね、眼力だけじゃなくって、体の方も国宝級なんですが」  恙堂はそんな軽口をいってから、 「えー、写真を撮らせていただいても、かまいませんでしょうか?」 「はいはい、かまいませんですよ」  恙堂は、和服の袂《たもと》から蜜柑《みかん》色の携帯電話をとり出すと、ぱかっとフタをひらいた。 「あー、かめらつきー」  土門くんがいうと、ハイテク機器もかたなしだ。 「これ使い勝手ええんやで坊……仕事はかどるはかどる……」  そういいながら恙堂は、像を斜め正面からねらってカシャと一枚だけ撮ると、即座に送信し始めた。 「何分かしたら、答えが返ってきますので」 「恙堂さん、自分ふと思《おも》たんやけど」  土門くんが何やらいい出した。 「このお像、ひょっとしたら、摩多羅神《またらじん》ちゃうのん?」 「おっ、さすがは坊やな。かすった」 「か、かすったあ……」  土門くんはどっと崩れ落ちながら、 「そんなんかすっても嬉しないわ」  捨てぜりふを小声でいう。 「あ、思い出したぞう。こないだの文化祭で、坊が摩多羅神を貸せとか、電話かけてきたろう。そんなもんあるわけがないじゃないか」 「いや、それはもしやと思て。恙堂さんとこは何でももってはるから」  土門くんはおべんちゃらをいって、ごまかす。 「限度がある。うちの本店は百数十年の歴史があるんですけどもね」  恙堂は見城に話しかける。 「その摩多羅神というのは、過去に一度っきりしか扱ったことがないんですよ。それも、明治維新の廃仏毀釈《はいぶつきしゃく》のさいに出たものですからね。そんなもの、かりに店にあったとしても、高校生には貸し出せませんよね」  見城は、もっとももっとも、とうなずきながらも、仏像の種類を問わず、文化祭に貸す貸さないとは、話それ自体が度をすぎていると思う。 「恙堂さん。そやったら、これは泰山府君《たいざんふくん》あたりですか?」  土門くんは、再ちゃれんじをしていう。 「たしかに、唐人服《とうじんふく》っぽいのは着てるけど、それも、ちょっと外れだな」 「うーん、どっちにしても裏神さんですよね?」 「ああ、坊たちが使う言葉でいえばな」 「そやったら、赤山禅院《せきざんぜんいん》。——ちごた、これは建物《たてもん》の名前やから、赤山明神《せきざんみょうじん》!」  土門くんはいい直していう。 「おしい! かすりまくり……」  そんな当て物ゲームみたいなことをやってるうちに、リリリーン、リリリーン、と恙堂の携帯電話が鳴った。ひと昔前の黒電話のような着信音である。  恙堂は、では失礼をば、と顔を横に向けると、口元を手でおおい隠しながら、 「……はい、ぼくですが……ええええ、あー、やっぱりね、思ったとおりでした……はい、図録に出てた写真ですよね……へー、そこまで似てるとは……いや、それはどうでしょうか……そういった話はまだひと言も……はい? かまわないわけですか……ええええ、わかりました、ねばってみます」  ささやき声で一、二分話して電話を切ると、一同に顔を向けなおしてから、 「これはね、新羅明神《しんらみょうじん》なんですよ」  至極あっさりと恙堂はいった。 「しもたっ、後ろの方からいうてたら、当たってたのにー」  土門くんは悔しがっていう。 「後ろの方からって?」 「いや、恙堂さんが八六〇年という年代をいいはったから、てっきり慈覺大師の方やと思てしもたんですよ」 「いやさ、円珍《えんちん》が新羅明神を勧請《かんじょう》したのも、やはりその年代なんですよ。もっとも、これは三井寺《みいでら》の言い分なんで、ちょっとクエッションですけどもね」  恙堂は声をひそめぎみにしていう。 「でしょう。これが、裏神さんの歴史の最後やねんから。そもそもは最澄と空海の喧嘩が発端で……」  土門くんは昨日マサトの家でした話を語り、 「……でしょーことなく、円仁《えんにん》・慈覺大師が摩多羅神を作りはった。そやけど円珍派が比叡山から割って出て、その円珍派は、円仁由来の摩多羅神なんか使《つこ》たるかーいうて、またもや作ったんが、新羅明神、いうわけですよね」 「なるほど、そういう流れではね。ですが、この新羅明神は、摩多羅神のような使われ方は、つまり密教寺院の裏で祀られている荼吉尼天のような、そういった使われ方は、あまりされなかったみたい。どちらかというと、さっき名前が出た、赤山禅院にある赤山明神、これの対抗馬だと考えた方が、近いだろうと思いますけどもね」 「そやけど、赤山禅院は円仁の遺言で建っとって、仁和《にんな》四年——八八八年のこと。そやから新羅明神がこれよりも古いいう話が、やはりくえっしょん。それに赤山明神はけっきょくは泰山府君で、つまり摩多羅神とおんなじもんでしょう?」 「まあ、そういってしまうと、みんな一緒になってしまうじゃないか」 「いや、みんな一緒こたにしてしまおーいうんが、慈覺大師の深謀遠慮《しんぼうえんりょ》、ふかーい作戦があって」  と、そこまでべらべらーとしゃべりまくってから土門くんは、 「こういうんは、ぜんぶ姫が教えてくれはったんやで」  まな美の耳元でささやいた。ふだんの彼女なら話に割り込んでくるはずなのに沈黙している姫を気づかって。 「そうしますと、このお像は、三井寺ゆかりのもの、ということですか?」  見城が確認するようにたずねる。 「ええ、そういうことです。三井寺の北に少し離れて、別院がありまして、そこに新羅善神堂《しんらぜんしんどう》という古い社殿が建っています。そこに祀られています。もっとも、絶対秘仏ですから、見られはしませんが。通称、新羅三郎義光《しんらさぶろうよしみつ》って、聞いたことございませんか?」 「それは……たしか源氏の」 「ええ、源《みなもとの》義光は、その新羅善神堂の前で元服の儀式をやった、そんな逸話になってます。墓も近くにあるんですね。その義光の兄貴が、通称、八幡太郎義家《はちまんたろうよしいえ》です」 「あっ、そちらは鶴岡八幡宮《つるがおかはちまんぐう》の」 「そうですね。ですから、ふたりの父親——頼義《よりよし》が、信心深かったんでしょうね。だからこんな渾名《あだな》が息子たちに、おそらくは」 「頼朝《よりとも》や義経《よしつね》は、八幡太郎義家の血筋ですよね。で頼朝は、摩多羅神を信仰してはったでしょう?」 「そうそう、東照宮に行けば置き換わっているので、すぐにわかるよね。けど、源氏の中で、どっちにつくのかと喧嘩していたわけじゃ、ないとは思いますけどね」 「でも山門派《さんもんは》と寺門派《じもんは》の戦いって、すさまじかったんでしょう。たがいに火をつけあったりして」  まな美がひさびさに声を出していった。 「たしかに、喧嘩のレベルじゃないよね。その戦いのときに、寺門派の三井寺は、この新羅明神をかついで矢面に立て、かたや比叡山は、赤山明神もしくは摩多羅神をかついで、ちゃんちゃんやってたわけですね」  恙堂は、二本の人さし指で格好をしながらいう。 「そういわれてみれば、矢が刺さったあとが……」  土門くんは冗談をいう。  矢面というのは、あくまでも比喩《ひゆ》である。 「けど、仏教ですよね。それなのに、神さまを立てて戦争するんですか?」  弥生がいった。 「もっともな疑問だよね。でも仏教の仏たちって、あまり強そうじゃないでしょう。こういった、いかにも恐い神の方が、戦争に勝てそうだし」 「……それもそうですね」  弥生は納得したようだった。 「そうしますと、この新羅明神のお像は、その戦いのときなどに作られたものなのでしょうか?」  見城がたずねる。 「あっ、その種のお話しは、これから本格的に」  恙堂はあらたまった口調でいい、 「先の電話で大御所もいってたんですが、たとえば、再々話に出てくる摩多羅神。これも大珍品ですが、それが置かれている寺の名は、十ヵ所ぐらいはすぐに出てくるんですよ。比叡山の延暦寺《えんりゃくじ》はもちろんのこと、日光の輪王寺《りんのうじ》や、太秦《うずまさ》の広隆寺《こうりゅうじ》、平泉《ひらいずみ》の毛越寺《もうつうじ》、茨城《いばらき》の楽法寺《らくほうじ》……などなどですね。ところが、この新羅明神となりますと、本家の三井寺以外で所在がたしかな寺は、ちょっとねえ」  恙堂は大仰に首をかしげる。 「ほう、それほどまでに稀《めずら》しい?」 「ええ、もう稀しい、といった程度を超えてますね。こうやって、われわれが目の当たりにしている、のは奇跡ですね」 「うわっ、そこまでいわれると、恐い顔しとってやねんやけど、よう見とこうかー……いう気にはなるなあ」  土門くんはいいながら、ふたたび顔を近づける。骨董屋の血がそうさせるようだ。 「だから、よほど三井寺さんと縁があるお寺から、出たものなんでしょうね」  恙堂はいってから、ふたたび首をかしげる。 「ひょっとしたら、これは三井寺の、その何とか堂から、誰かがぱくってきたんとちゃうやろか」  土門くんは半分真顔でいう。 「あそこのは国宝だぞ。防犯ベルが鳴りまくるよ」  国宝には防犯設備が義務づけられていることは、骨董屋にとっては常識だ。 「そやかて、絶対秘仏やねんから、誰も見られへんのでしょう。盗《と》られとってもわからへんですよ」 「それは理屈だけど。それに三井寺の新羅明神像は、寸法《サイズ》がこれよりも大きいのね。八十センチぐらいだと、大御所がいってた。ですが、姿形は非常によく似ていて、まるで親と子、同時期に作られたことはほぼ間違いないと、そんな説明でした」  恙堂は見城に伝えていった。 「そうしますと、その大御所さんは、実物をごらんになったことが……」 「いえいえ、専門の図録に白黒《ものくろ》の写真が一枚だけ、ちらっと載ってはいるんですよ。おそらく、国宝指定を受けたときに撮られた写真が、流れたんでしょうかね」  またどこからか、きゃっきゃと女の子のはしゃぐ声が聞こえてきて、それを叱るような女性の声もし、そして聞こえなくなった。  恙堂は、しゃんと居住まいを正すや、 「まことに不躾《ぶしつけ》なお話ですが、こちらのお像を、ご処分されるようなおつもりは、ございませんでしょうか?」  いよいよ本題を切り出していった。  彼が大御所からの電話を受けていたとき、その声が聞こえていた人には、みえみえの話ではあったが。  それに土門くんに至っては、恙堂が鑑《み》に行く、といった瞬間に、察知してはいたが。 「いえいえ、今のところそのような予定は……」  見城は、やや慌てぎみに否定する。 「ですがね、こちらのお宅では、このお像をどのように祀られておられますか?」 「いえ、祀るもなにも、正体が皆目でしたから、この何年間かずーと、押入れの中に仕舞われておったままで」 「でしょう。こういったこわおもての神ですから、それ相応に祀らないと、やはり祟《たた》りますからねえ」  恙堂は、まるで幸子のようなことをいい、 「まあ、それは冗談としましても、これを床の間に置いて鑑賞する。そんなことができるお像では、ないですよね」 「ええ、それはもうおっしゃるとおりで」  見城は目をつむって、うなだれる。 「ですから、しかるべきところで、ねんごろに。そのお手伝いをさせていただければと、思うんですけれどもね」 「はあ、そう申されましても……」  見城は困りきった顔で、 「そもそも、これが、わたしどものものであるかどうか、そのへんすら曖昧《あいまい》でございまして」  まな美はふっと思い出して、 「そうそう、大炊御門の会長さんはですね、このお像のことなんか、きれいさっぱり忘れてらっしゃいましたですよ。わたしが聞いたら、見城さんのお宅にあることを思い出すまで、いえいえ、そういったお像があったことを思い出すまでに、三十分ぐらいはかかりましたから」 「あらら……」 「ですから、お気兼ねなく、処分されちゃうのがいいと思いますよ」  恙堂が、強力な援護ありがとう! 目で語ってから、 「こういった特殊なお品ですから、やはり、それなりの好事家《こうずか》に、好いてもっていてくれる人のところに収まる、それが品物にとっても、人にとっても、一番いいことだと、自分は思うんですけどもね」  さも哲学めいたことをいい、 「それに、わたしどものような業者にとりましても、これほどまでのお品は、生涯に一度、出会えるか出会えないかほどでして、そのチャンスを是が非でも、この『恙堂』に授けていただければと思いまして」  などと情にうったえ、 「さきほど大御所とも話したんですが、お値段に関しましては、もう四の五のいいません。ひとつ見城さんの言い値で、ずばり、買いとらせていただきたいと思います」  そういい切ってから、恙堂は深々と頭を下げる。 「い、言い値といわれましても……」  見城は見城で、顔を下げて頭をかかえてしまう。  まさに高みの見物の土門くんが、にたーと笑いながら、まな美をつっついて極小の声でささやく。 「……恙堂の作戦勝ちやな。それにやな、歴史部は仲介の手数料もらえるぞう」  と、そのときであった。  応接間の窓の外を、乱舞している乙女椿の梢《こずえ》の間から、頭に花簪《はなかんざし》をつけた幼子《おさなご》がすすっとこちらに走り出てきて、そして窓のガラスにぺちゃっと鼻先をくっつけた。  ——キャッ! 「ゆ、幽霊——」  まな美は悲鳴をあげて、その幼子を指さしながら思わず叫んでしまった。  一同、何事かと窓の方を見やる。  幼子は、悪いことでもしたと思ったのか、ぴゅーと一目散に走り逃げていった。 「な、何をおっしゃるんですか、滅相もない!」  見城はお怒りの声でいう。 「あの子は、わたしの孫ですよ。今日は遊びに来てるんですから」  ……孫?  親戚の娘とかいってなかったっけ?  どっちにしても、今回は生きてたのね。  前に見たのは幽霊だったけど。  すると、見城さんがステッキが必要で、お体の具合がどうのといったお手伝いさんの話は、孫を亡くされた心労からだったのか。  などと、頭を超高速回転させて考えること約三秒。  まな美は、ある結論に達していう。 「わたしには、——未来が見えるんです」 「すると、あの子が死ぬとでも、縁起でもない!」  見城はさらに激怒する。 「いえいえ、このまま手をこまねいていて何もなさらないと、現実にそうなります——」  まな美は、負けじと語気を強めていい、 「けど、信じてもらえないと思うので、証拠をお見せしましょう」  まな美は、室内をざっと見渡してから、斜め後ろの台にのっている、色とりどりのステンドグラスが傘にちりばめられたランプを指さして、 「土門くん、あなたが目利きするに、これは何?」 「ああっ……」  突然ふられた土門くんは、うろたえながらも、 「えーこれはやな、この部屋に入った瞬間に目についたもんやねんけど、たぶんていふぁにーの」  といったきり——黙る。 「そうです。これはティファニーの真っ赤なニセモノですよね!」  まな美は言葉をついでいい、 「見城さんが、これをお買いになったころの状況が、見えてきましたわよ」  目をつむって、感慨深げにいう。 「……そう。たしか二十年ほど前ですよね。見城さんが、こういった骨董《こっとう》趣味を始められた最初のころに買われたランプで、もちろん本物だと思って買い、ところがニセモノだということに後で気づき、その戒《いまし》めの意味も込めて、このように目立つところに、置かれているんですよね、見城さん!」 「はっ……まあ、そうですけれど」  見城は驚いていう。 「それだけじゃありませんわよねえ」  まな美は、いかにも妖しい目つきでもって彼の顔をねめつけながら、 「ランプが、このように部屋の真ん中にある小さな台に置かれてある、そのわけは! ここに訪ねてきた客人が、粗相《そそう》をして倒してくれるのを期待して、するとランプは床に落ちてこなごなに壊れ、客人は高価のものを壊したと真っ青。そこでネタばらしをして笑い話にしちゃう。そんな幼稚なことを考えてるんでしょう!」 「たっ……たしかに……」  見城は、驚きから恐怖へと変化したのか、声が震えている。 「わたしには、その気になれば、このように人のこころだって見通すことができるんです! そのわたしがいう未来なんだから、間違いありません!」  まな美は大見得をきって独断的にいうと、何を思ったか、人さし指をティーカップの中につけ、その濡れた指でもって、応接テーブルの表面に線を引きはじめた。 「……ここが見城さんのお家だとすると、十字路があって、つぎの十字路です!」  まな美はそのクロスの中心を指さしながら、 「車はそう通らない道ですが、ここで交通事故に遭うんです! 彼女はまだ、たしか四歳ですよね。親御さんに手を引かれて歩いているときに、車がつっ込んでくるんです。わたしには——」  ふたたび目をつむって、 「そのときの様子がありありと浮かんできます! それは避けられない事故なんです。どう親御さんが注意をなさっていても——です! だから、この十字路だけは、決して、決して、歩いて通ってはいけません!」  見城は、おっかなびっくりの様子だったが、それなりに真剣な顔つきで、まな美の説明に聞き入っていたことからしても、彼女がうった大芝居の懇願《こんがん》は、うけ入れてもらえそうではあった。  けれども、大迷惑をこうむったのは恙堂である。今まさに商談がまとまりかけていた矢先だったのに、木《こ》っ端《ぱ》みじんにご破算《わさん》である。 「先の件は、また後日あらためまして」  その恙堂が音頭をとって、一同は席を立った。  そこはプロの商売人。ここは退散するにかぎると判断したからだ。深追いしてなおのこと気分を害されるよりは再挑戦にかけた方が、可能性はまだしもあるというもの……さ。  その落胆ぶりや不貞腐れは誰の目にも明らかで、怒りをぶつけられる相手がいないこともあってか、見城の家から出ると、恙堂はひとりでとっとととぼとぼと歩いて行く。  しかし、まな美は、誰から何を思われようが、自身のとった行動は断じて正しいという信念のもとに、晴れやかな気分で見城の家をあとにした。  土門くんが、まな美の横に並びかけてきて、不満たらたら小声でつぶやく。 「仲介手数料、もらい損ねたやんか」 「いくらぐらいぶんどるつもりだったの?」 「ふつう利益の二、三割やけど、高額やから十《てん》ぱーにまけたろ、思とったんや」 「そもそも、あのお像はどれぐらいするの?」 「たぶん買値はこれぐらいで」  土門くんは、手を大きくひらいて出し、 「売値は、じゃすとこれかな」  人さし指を一本だけ立てて出した。 「ふーん、五百万で買って、一千万で売るのね」 「なにいうてんのん姫」  土門くんは完全にすねたらしく、そっぽを向く。 「ええー?」  ……五十万で買って百万で売る? それはちょっとせこいわよね。すると、ま……まさか。 「五千万で買って一億で売るの?」  土門くんはそっぽを向いたままで答えない。 「じゃ、歴史部の手数料は?」  ……五百万! 土門くんがいうように十パーにまけてやってもだ。まな美もさすがにこころが揺らいだが、幼子の命はお金などには替えられないわ、とそう自身にいいきかせる。 「けど、言い値で買うんでしょう。見城さんが二億だといえば、損しちゃうじゃない?」 「そんなこといわへんもんなんや」  土門くんは、まな美に顔を向けなおしながら、 「ちょっとでも売る気があるんやったら、まともな値段いうてしまうの。それも相場より低いぐらいの。それが商売人とはちがう常識人の悲しいとこ」 「それが、恙堂さんの作戦?」 「そう。高額なもん買いつけるときの作戦や。けど今回のあれは国宝級やから、何億やいわれても買うやろうな。圓龍庵がばっくについとうから、売り先は見つけよるし、損はせえへんはず。要するに青天井ってこと」 「へえー、すごい商談が進行してたのね」  まな美は実際、今になって驚いた。 「それをつぶしてしもたんは、誰あろう……」  歩道の先に、問題の十字路が見えてきた。 「あそこを渡った塀の角にね、花束や、お菓子や、ぬいぐるみなんかが置かれてあったのよ。そして帰りしなに、土門くんとふたりで手を合わせてお祈りをしたの」 「ふーん、自分は知らへんけど、それはそれで、りあるな話やなあ」  土門くんも神妙な顔でいった。  先んじて歩いている恙堂が、その信号のない十字路の横断歩道に足をかけるか、かけないか、のときであった。  十字路の左手側から、ぐぅおぉぉーん、という大爆音が地響きをともなって聞こえてきた。 「——みんな! ——動かないで!」  あたりを切り裂いて、男子の声が飛んだ。  それは誰がいったのか、瞬間、まな美にはわからなかった。そんな鋭い声を、あの華奢な天目マサトくんが発しようとは、彼女の想像外だったからだ。  恙堂が大慌てで、後ずさりをする。  ぐぅおぉぉーん、その爆音はさらに勢いを増して、左の道から、灰色をした大型のトラックが、十字路をめがけて突進してくるのが見えた。 「その場で、——動かないで!」  マサトが再度いった。  彼の声の届いたところは、人の動きだけではなく時間までもが、何もかもが止まっているかのように、まな美には感じられた。  そんな奇妙な静寂感の中へ、大型トラックだけが、猛スピードで近づいてくる。  ところが、どうしたことか、そのマサトくんが、ひとりだけでつーと横断歩道を渡りきって、向こう側の角に立つや、誰かを挑発でもするかのように、両手を挙げて大きくふった。  その瞬間、大型トラックが、彼の姿をなぎ倒していった。  キャアー——!  まな美は両手で顔を押さえて、腰が抜けて歩道にうずくまってしまった。  彼女の悲鳴は、トラックの爆音とそして街路樹の一本がなぎ倒された音に、かき消された。 「なんちゅう運転しやがるんや!」  土門くんが激怒している声がする。 「ば、ばっかやろー!」  恙堂の罵声《ばせい》も聞こえる。  トラックの爆音はすぐに小さくなって、消えた。  まな美の背中を、ツンツン、誰かの指先がたたいた。  かすかに目をあけると、すぐかたわらで、幸子が立っていた。 「大丈夫よ」  彼女はいう。 「あそこ——」  指さされた先を見ると、天目マサトくんが、歩道のこちら側で、土門くんや恙堂さんや水野さんらと一緒に、立っているのが見えた。 「さっき、おねえさんには見えたのね?」  幸子はいう。 「わたしにもちょっと見えたのね。でも、みんなにはいっちゃダメよ」 「…………」 「わたしが今日来たのはね、ほんとうのお告げはね、おねえさんがお困りのようだったから、助けに来てあげたのよ」  まな美は、目にいっぱい涙があふれてきた。 「……ありがとう」 [#改ページ] 第二章「娼婦」  7  桑名|竜生《りゅうせい》は、森にあるアマノメの屋敷の住人のひとりで、最近とびっきりの秘密をかかえている。  何部屋あるかわからないほどの森の屋敷だが、実際に寝泊まりをしているのはわずかに四人で、にしては、まったくといっていいほど彼の影は薄い。  竜生は、名前に竜が入っていることからもわかるように、桑名の本家筋の次男坊で、御歳は三十三歳、十月初旬にあった、アマノメの御神《おんかみ》さまのお披露目《ひろめ》の宴以来、この屋敷に住むようになったのだ。  本家筋の次男が代々、御神に仕《つか》える側用人《そばようにん》になる。そんな定めがあり、つまり竜生は、竜蔵の後釜なのである。それに竜蔵は七十をすぎているから、早急に後継者として育つ必要がある。  実際、学ぶことは山ほどあって、ひと口に側用人とはいっても、その役割は多岐にわたっているからだ。  御神の日々の身の廻りの世話などはもちろんのことだが、次男にのみ口伝《くでん》されるという〈アマノメの秘密の儀〉の数々を、その真の意味を理解して実践できなければならない。さらには、御神の言葉を氏子《うじこ》にとりつぐ、いわゆる審神者《さにわ》のお役があって、これもそうおいそれと習得できるものではない。  御神は、見えた絵を直截に伝えてくるのみだ。  ときにはまったく見えない場合もあるようだし、逆に、氏子が知られたくはない暗部が見えてしまう場合も往々にしてある。それらを臨機応変に取捨選択・配慮し、氏子が感得して、さすがはアマノメの御神さま……とひれ伏す物語に意訳できるかどうかは、それこそ審神者の腕・口先ひとつだからである。  ある種、アマノメの側用人は、絶大なる権力を有することにもなる。  かたや本家の方は、氏子と金を一手に掌握しているから、その権力は拮抗《きっこう》する。  両者がたがいに急所を握りあっているから、仲たがいや分裂をすることもなく、うまくやってこられたのだ。これも神代《かみよ》の時代から永々と生きながらえている知恵であろうか。  ——けれど、  竜生は、当屋敷に住んで二ヵ月にもなろうというのに、ほぼ何ひとつとして教わっていない。  竜蔵と陰《かげ》たちの密談の場にも、彼の姿はなく、ところで竜生はどうしているんだ、などと話の端々《はしばし》にすらも出てこない。まったく疎《うと》んじられている存在なのだ。  それには双方に理由がある。  竜生は、旧家の次男坊にありがちなおっとりした性格で、兄の竜磨《りゅうま》からは、のろま! 抜け作! と始終バカにされていた弟でもあり、それが絶大なる権力を誇るアマノメの側用人になれようとは、とうてい思えない器《うつわ》なのだ。そのことは桑名の関係者の全員が感じていることでもある。  が、定めを盾にとって、父親の竜作《りゅうさく》(次代の桑名本家の家長)が、継がせろと、竜生を圧《お》しつけてきたのだ。  かりに彼がすべてを習得できたとしても、竜作の傀儡《かいらい》になるのは目に見えている。いや、のみならず、次男にのみ口伝する〈アマノメの秘密の儀〉が筒抜けになってしまう恐れも十二分にあり——  その秘密の儀には、いかにすれば人にアマノメの神が降りるのか、その竜はどうすれば封印できるのか、神には何が見えて何が見えないのか、などなど数多くの奥義が含まれる。  ——すると、権力の拮抗が失われ、よくできた仕組みも崩壊してしまう。  それより何より、竜蔵は(竜生はさておき)竜作のことが嫌いなのである。いかにも尾張《おわり》の商売人のような狡猾《こうかつ》なところが、肌にあわないのだ。  竜蔵は、いわゆる趣味人で、ひまさえあれば裏庭でガーデニングに精を出す、それで満足できる人である。  けれど、いかに嫌いであろうとも、アマノメの秘密さえしっかと握っていれば、たがいに尊重しあって共存していける。だからますます、竜生には何も教えるわけにはいかない。  ならば、後継者はどうするのか?  竜蔵には、もちろんそれなりの腹案がある。  その候補者は、たまさか名前に竜の文字が入ってはいるが、桑名とは縁《えん》も縁《ゆかり》もない男なので、氏子の中でももっとも由緒正しき家柄から妻を娶《めと》らせ(そこは天皇を多く輩出している名家)、さらには大学教授に特進させ(氏子の力で簡単にできる)、諸々《もろもろ》の外部環境をしっかと整えておいてから、定め破りを声高に叫んでやろう、などと青写真をひいている。  その彼には、アマノメの秘密などは教えるまでもなく、いや、それ以上のことを理解していそうで、これほどふさわしい男はいないと竜蔵が考えるのも無理はない。なおかつ彼は、かつては演劇青年で、芝居もできれば手品もお手のもの。そしてピアノはプロ級なのだから、まさに二十一世紀の御神の側用人としては、かくあるべき逸材か。  もっとも、その当人は、そういったことは露ぞ知らない。  さあて、竜生であるが——  そのような特殊な変人と比較されると、さすがに可哀想でもあるが、ともあれ、彼が日々やっていることといえば、毎夜、八時をすぎると、相談事のある氏子たちが続々と屋敷に車でやって来るので、そのさいの応対の様子を、襖《ふすま》の陰から、そっとのぞき見ていることぐらいであろうか。  それが竜蔵から命じられた、ほぼ唯一の仕事なのである。  屋敷の離れの書院座敷は六十畳ほどの広さだが、そこの襖をすべて閉じて小部屋に区切り、そして順ぐりに、氏子を奥の間へと通していくわけだ。  氏子たちは、たがいに氏素姓は知っているが、相談事に出向いてきたと知られたくない場合が多いらしく、事前に時間もうちあわせてあるし、できるだけ顔をあわさぬよう配慮されている。その種の誘導は陰の男たちの仕事で、どうぞこちらへ……程度の囁《ささや》き声だけで、そつなくこなされていく。  そしてこのときばかりは、氏子たちに陰も多数で、屋敷内は人でふくれあがっているはずだが、依然としてしーんと静まり返っている。  で、ときおり、たわけが! 御神さまにこのような些細な……などと竜蔵の怒鳴り声がかすかに聞こえてきたりもする。すると順番を待っている氏子は、ま、まずい、変なことは聞くまいと肝《きも》に銘じるのだ。よくできた仕組みである。  一番奥の間には、床の間を背にして、いわゆるひな壇が設《しつら》えてある。見かけは豪華だが、簡単な組み立て式で、木の台座を三つ並べ、金糸銀糸で彩られた紋入りの布をかぶせているだけだ。紋は竜と菊で、布の色は紫、緑、赤など何色かある。  ひな壇には半分ほど簾《すだれ》がかかっていて、その陰に御神が鎮座している。氏子からは彼の姿は、うっすらとしたシルエットぐらいにしか見えない。  が、襖の隙間から竜生がのぞき見るに、御神は、けっこうくだけた様子で座っており、正座も胡座《あぐら》も苦手らしく、ときには体育座りなんぞもしている。それに服装もまちまちで、さすがにパジャマ姿はないが、近いジャージの上下はあり、学生服姿のときもよくある。  うって変わって、竜蔵は威風堂々の和服姿である。茶系が多いようだ。  そして竜蔵が氏子をつぎつぎと見事に手玉にとっていく様子が観察できる。けど、御神の声はいっさい聞こえないので、竜蔵が実際は何をやっているのか、竜生にはわかろうはずもない。  つまり、この程度は裏を見せても害はないだろうと、竜蔵がそう判断しているわけだ。  だが竜生は、そうやって襖の隙間から熱心に見ていることが、まずは審神者への登竜門《とうりゅうもん》だろうと、なかば信じている。  一件に要する時間は長くてもせいぜい三十分で、十分ぐらいの場合が多い。そして相談を終えた氏子は廊下へと出され(そこは裏庭に面している縁側で夏には歴史部の遊び場だが)帰っていくのだ。  母屋《おもや》の方にいちおう、喋りたい人のための簡単な酒の席も準備されてあるが、立ち寄っていく氏子はそうそういない。氏子たちは皆いそがしく、ここに酒を飲みにきているわけではないからだ。  けれど、たまにはいるので、そういった氏子の話し相手をつとめるのも、竜生の役目である。 「竜生さま。そろそろ、お慣れになりましたか」  などと氏子から声をかけられる。  その氏子が社会的にいかに地位の高い人であろうと(そんな人が大半だが)、ここ神の屋敷においては、竜生は、氏子の頂点に立ついわゆる宗家《そうけ》の人間だから、さまづけで呼ばれるのだ。  だが竜生は、人柄は悪くなくって、威張った態度はとらない。というよりも何かにつけて自信がないので、かえって恐縮をし、つたなく酒の相手をつとめてしまう。  なおこういった場所には、屋敷のもうひとりの住人である西園寺|希美佳《きみか》は、いっさい顔は出さない。  彼女は御神のお后《きさき》候補だから隠す、それもあるが、酒の席の給仕などをするのも、やはり陰の男たちの仕事である。  御神マサトはもちろんだが、仕える側用人も本家での仕事も、そして日々の行事においてすらも、女気はまったくなく、アマノメの組織は完璧に男性社会なのである。  その男性社会からはじき出された女性がひとり、女だけで組織をかためて、牙をむいて復讐を誓ってもいるが、これも身から出たサビであろうか。 「竜生さま。本日のご相談料は、いかほどお包みすればよろしいんで……」  あるときそう問われて、竜生は戸惑ったことがある。そういった金銭に関しては、ここ神の屋敷ではいっさい話に出ないはずだからだ。 「いえね、御神さまからお言葉をちょうだいするのは、十何年ぶりでしょう。我が家も先代が亡くなりまして、いかほどの相場なのかわからなくなって」  事情は理解できたが、相場などはあってなきがごとしで、竜生は答えられようもなく、 「えー、そういったのは、本家にお問い合わせを」  そうたどたどしくいうしかない。  まあ、竜生の知るところによると、相談料は一件につき最低でも、ん百万である。それは相談事の大小に応じ、および御神からの答えの的中度《ありがたさ》も加味し、氏子みずからが判断して、相応の金額を本家の口座に振り込む、そういったやり方なのである。  これはきわめてスマートで、よくできた仕組みだなと竜生も思う。それゆえ、御神が優秀であればあるほど、相談料もハネあがっていくことになる。  それとは別に年会費に相当するのが、ん百万からん千万だ。それは氏子の財力によって幅はかなりあるらしく、けど氏子の数もそう多くはないようで、千はないが百はこえているか、どっちにせよ、年間ん十億が本家の金庫におさまる計算だ。  ぐらいのことしか竜生は知らない。  にしても、莫大な金額である。  御神ひとりが(十七歳の高校生が)それを稼ぎ出しているのだ。可能たらしめるように見事に組織作られているのである。  もっとも、宗教法人として登録している、なんて話は竜生は耳にしたことはない。国税庁の査察にびびっている様子も、本家には微塵《みじん》もない。  桑名の本家は、表向きは地元の大地主で、名古屋の繁華街にもビルを何棟か所有しており、賃料などで生計をたてていることになっている。それなりの株式会社も複数作っているようで、陰たちの給料はそちらから支払われているのではないかと、竜生は想像したりもしているが。  こちらに来る二ヵ月前までは、竜生は地元の郵便局に勤めていた(マサトの竜の封印が十数年間解けず遊ばしておくわけにはいかないから、ほうり込まれたのであった)。大学は経済学部卒である。なのでそういったことをついつい考えてしまう。  兄貴の竜磨は(親に反抗して)なんと獣医学科の卒なので、兄貴が竜の世話をし、自分が本家を継いだ方がうまくおさまるのに、と内心思ってもいる。  だが、定めには逆らえない。  それも二千年の——三千年の——といわれると、自分の人生などは、それこそ芥子粒《けしつぶ》のようなもので、アマノメの歴史のひとコマにすらも語り継がれることはないんだろうな、と少し悲しくも思えてくる。  ひと月ほど前のことだったが、そんな母屋の酒の席で、紳士然とした初老の氏子のひとりから、 「竜生さま。こちらの方には、ご不自由されておられませんか?」  などと、小指を立てて話しかけられたことがあった。  意味は一目瞭然だ。  それに、アマノメの側用人は生涯独身、そんな定めがあることを、その氏子も知ってのことであろう。 「いえ、そちらの方は、とんと……」  竜生が照れ笑いをしていると、 「東京にこられたばかりですと、右も左もわかりませんよね。変なとこにつかまっちゃうよりはと思いましてね」  その初老の紳士は屈託のない笑顔で、そして部屋のすみっこにいる陰の男に聞こえないように小声で、 「ご紹介できますよ。とっても上品なクラブです。そこは口がかたくって安心です。この名刺を使っていただくと、フリーパスですので」  一枚の名刺がテーブルにそっとさし出された。  淡い柿渋色をした和紙の名刺である。  そうなめらかにやられると竜生としても、それを手の中におさめてポケットに仕舞わざるをえない。 「いやあ、美味《おい》しい日本酒で」 「どういたしまして……」  ふたりは顔を見合わせて笑った。  いかに神の屋敷内であろうと、男たちの内緒話なんて所詮そんなものである。  竜生は、母屋にある自室にこもってから、その上等そうな和紙の名刺をとり出して見てみた。  ——くらぶ葵。  そう簡素に印字されてあり、〇三からはじまる都内の電話番号だけが、そして裏には、ローマ字のAにつづいて三桁の番号が、こちらもスタンプなどではなく、きちんと印字されてあった。  いかにも、て感じからは上にズレているようだが、やはり淫靡《いんび》な名刺にはちがいない。  竜生は、何日かほっておいたのだが、昼間は何もすることがなく時間をもてあましていたので、ものはためしにと、そこに電話を入れてみた。屋敷のはマズいので自身の携帯電話を使って。 「……はい、くらぶ葵でございますが」  男のていねいな声が応対に出た。 「えー、番号をいえばいいのかな?」 「さようでございます。名刺のお裏にあります記号と、そして番号を」  竜生は、Aにつづいてその番号を告げた。 「はい、おうかがいしてございます」  男はいっそうニコやかな声でいい、 「当くらぶは、特別なお客さまだけに、よりすぐった女性をご紹介いたします。何なりと、お申しつけください」  その何なりとは、どの程度何なりなのか(無茶な希望がかなえられるのか)竜生は気にはなったが、 「で、どこに行けばいいんですか?」  さしあたっての疑問点をたずねる。 「はい、都内のホテルをご利用していただきますと、そちらに女性をさし向けますので。あるいは、ご自宅でもけっこうでございますが」 「いや……」  自宅(屋敷)はまずい。  それに、都内のホテルといわれても、竜生は実際、右も左もわからない。屋敷は埼玉県の春日部《かすかべ》市にあり、近くの駅から電車に乗れば、東京のどこかにはたどりつけそうな、そんな程度である。  が、あいつの知恵を借りようと竜生はひらめき、 「じゃ、ホテルが決まってから、あらためて電話した方がいいんですね」 「さようですが、おおよその時間をいっていただけますと、お客さまのロスが少のうございます。それと、ご希望の女性のタイプもあわせまして」  竜生はちょっと考えてから、 「じゃ、一時間後か、一時間半後ぐらいですかね」  幅をもたせていい、そして希望のタイプについては、アイドルのように若くて可愛い娘《こ》を……などと考えつくかぎりのずーずーしいことをいった。御神が屋敷によく連れてくる歴史部の女子のことなどを、ちらっと頭に思い浮かべながら。 「はい、承《うけたまわ》りました。お待ち申しております」  あいつとは、竜生にほぼ専属でついてくれている、おもに車の運転手などをする陰の男で、桑名|良樹《よしき》、二十代なかばの独身だし、それに一年以上もこちらにいるから、この手のことは知っていそうである。  竜生は、携帯電話でさっそく呼び出してみた。  陰は、大半が近くにマンションを借りて住んでいる。屋敷の敷地中には、警護のための別棟があって、そこにも何人か常駐してはいるが、その良樹がどこにいるかはわからない。もっとも、彼は御神の警護班ではないので、屋敷の近くにいるはずなのだ。  案の定、一、二分で車をご用意できまーす。との返答があり、竜生は、ややこしい話は車の中ですることにした。  その良樹がいうには、 「うーん、そういうことでしたら、シティホテルはさけた方がいいでしょうね。高いだけで使い勝手悪いし、それに万一、氏子さんと顔をあわせたりしてしまうと」 「た、たしかに……」 「やっぱり専用のホテルがいいでしょうね。あちこちにあるんですけど、鶯谷《うぐいすだに》は比較的近いんですが、雰囲気悪いし、池袋は分散してて数もありませんし、新宿はそこそこなんですが、道が混みますからね。遠いですけど、やっぱり渋谷の道玄坂《どうげんざか》がいいでしょうかね。お洒落《しゃれ》なのもけっこうありますし」  竜生がひらめいたとおりの、知恵者だった。  その道玄坂のラブホテル街で車を止め、降ろしてもらった。名古屋にも似たような街はあるし、もちろん竜生も、こういった場所は初めてではない。  けど、細い道が入り組んでいて迷子になりそうな街である。竜生は、四、五分歩き廻ってから、新しそうで洒落た外観のホテルを選んで入った。  そして、あらためて『くらぶ葵』に電話すると、店の事務所も比較的近いとのことで、十五分ほど待たされ、女性が部屋にやって来た。  その彼女を見て、へえー、と竜生は驚いた。  完璧に希望どおりというわけではなかったけど、はい、承りました、とふたつ返事しただけのことはあり、若くて可愛らしい女性であった。ありがちなケバケバしさもなく、大学のキャンパスでも歩いていそうな、ふつうの娘さんだ。実際、英文科の大学生であると彼女はいい、ごていねいにも顔写真入りの学生証を見せてくれて、本名を名乗った。そうするのが、この店の決まりらしい。さらに十分ほど世間話をしてから、ふたりでバスルームに入っていちゃいちゃし、そして小一時間……情事を楽しんだ。 「えーと、いくらぐらい払えばいいのかな?」  彼女はその種のことは何もいい出さなかったので、ベッドから出てすっかり服を着終えてから、竜生が聞くと、 「いえいえ」  彼女は手をふって、もらえませんと意思表示をする。 「あっ……」  そのときになって初めて、この『くらぶ葵』がどんな店なのか竜生にわかった。  つまり接待をするときに使われる店なのである。  あの名刺は、おそらく一枚一枚発行されていて、その記号番号に応じて、誰が誰を接待しているのか、店は承知しているのであろう。  竜生はホテルから出て道端で良樹の車を待ちながら、だったら、いい店だけど使いづらいよなあ、と思った。あの名刺を使って電話をすると、ツケがすべて氏子(初老の紳士)の方にまわってしまうからだ。つまり、ある種の賄賂《わいろ》である。けれど、見合うだけの便宜をはかれる立場には、竜生はない。  それに、親父にこんなことがもしバレてしまうと、勘当ものである。それに、兄貴も一緒になってこけおろすにちがいなく、この色魔が! 色ボケが! 頭に声が聞こえてくる。  そんな理由《わけ》もあって、この淫靡でささやかな冒険は、竜生は一回だけでやめてしまったのであった。      ※  ところが、数日前のことであったが、その『くらぶ葵』から、昼すぎに、竜生の携帯に電話がかかってきたのだ。  とくに番号を非通知にはしていないので、先方に記録でも残っていたのだろうか。 「今お話をしても、よろしいでしょうか?」  気の遣いようはさすがだなと竜生は思いつつも、 「ええ、まあ……」  いぶかしげに言葉を返した。 「今日お電話をいたしましたのは、ほかでもございません。お客さまが、お好みのタイプであるとおっしゃっておられた、ぴったりの女性が、本日、入店いたしましたものですから、そのご案内をと」  なんだ、店からのお薦めの電話であったのだ。 「いや、こないだの女の子でも、すごく可愛いかったですよ」  竜生は断るつもりでいった。 「それはそれは、ありがとう存じます」  電話口で、さも頭を下げているかのようにいい、 「ですが、いっちゃなんですけれど、本日入店しました女性は、比べようがないほどに、もうまったく、ものがちがいます」  露骨だがはっきりといい、 「それは一度ごらんになっていただければ、ご期待を絶対に裏切らないと、お約束できます。それに、まだ誰にもついておりません、真っさらの新人ですので、まずは、お客さまにご案内をと」  それは男としては、ぐらぐら、と心が揺らぐ話であったが、そこまでいい話をふってくれるのは、あの氏子の配慮にちがいないと竜生は思いつつ、 「えーと、その支払いの件なんですけど、ぼくが払うっていうのも可能なんでしょうか?」 「あっ、えー……それはお客さまが、そちらの方がよいとのご希望でございましたら、そのようにも」  だったら! 「じゃ、一時間後ぐらいに」  ふたつ返事で竜生はいった。  良樹が一、二分で車を用意してくれた。 「あっ、前のところですね。がってんです」  竜生の嬉しそうな顔を見てか、彼は時代劇のように陽気にいった。  車はひた走って、渋谷のホテル街に着いた。  竜生は、前にも増して、いっとう洒落たホテルを選んで入った。が、そこの電光パネルは凝《こ》っていて、映画の題名がふってある。エーゲ海に捧ぐ、ローマの休日、裏窓、タイタニック、アパートの鍵貸します……それらは明かりが消えていて、竜生は迷った末、E.T.よりはと、エマニエル夫人を選択《チョイス》した。  そこは、赤茶色の籐《とう》家具で統一されて天井には羽根が廻っている、アジアの高級別荘を思わせるような造りであった。あの誰もが知っている椅子は置かれてなく、まあ、くつろげる部屋にはちがいない。  そして、待つこと約十五分。  ……コンコン。  ごくひかえめにドアをノックする音がした。 「はあい」  竜生が待ちわびたようにドアを開けると、女性はツバの広い帽子を目深《まぶか》にかぶって立っていた。 「どうぞ……」  竜生は中へと招き入れた。  彼女は戸口のところで濃茶のブーツを脱いで、床のスリッパに足をとおした。  ……身長は百六十センチ弱ぐらいであろうか。竜生もそう高くないので小柄な女性の方が好みだ。  彼女は、ボアのついた茶色のコートをするりっと落とすように優雅に脱いで、ハンガーにかけた。  ……後ろ姿だが、細身で素晴らしくスタイルはいい。  彼女は帽子をとって、それもハンガーにかけてから、そして顔をこちらに向けると、 「よろしくお願いします」  そう囁くようにいって、こくりとうなずいた。  ……うわあ。  息を呑《の》むほどに、竜生は驚いた。  非のうちどころのない奇麗《きれい》な顔立ちである。  それに何より、全身から独特のオーラが出ているような、そんな雰囲気がする。もちろん、その種のプロの女性が発するような淫靡なそれではなく。 「まあ、どうぞ」  竜生はなかば夢|現《うつ》つで、籐の椅子をすすめた。 「わたし、御厨屋《みくりや》……玲子《れいこ》といいます」  あらためて自己紹介をしてから、彼女は椅子に腰をおろした。  ……稀《めず》らしい名前である。  どんな字なのか竜生は頭に浮かばないが、店の決まりからいって、それが本名なのだろうと思う。  だが、彼女はとくに身分をあらわすようなものは示さなかった。それに年齢も、それは聞くまでもなく、二十歳《はたち》そこそこなのだろう。 「あのう、タバコを吸ってもよろしいでしょうか」  ちょっと意外なことを玲子はいった。 「あっ、いいですよ」  ……竜生は吸わないが。  もとより、神の屋敷や御神のおられる前では全面禁煙である。いや、ひとりだけ例外がいて、ちょくちょく訪ねてきては晩飯を食っていく大学の先生は、なぜか許されて堂々と吸っているが。 「ちょっと、緊張しちゃって」  玲子は照れたようにいった。  その言葉に嘘《うそ》はないらしく、茶色革のバッグから喫煙具をとり出す手が、ちょっとぎこちない。  白地に緑のマールボロ・ライトで、ライターは小さな銀のジッポーである。兄貴がコレクションしているから、竜生にもそれはわかる。鉄製《スチール》とちがって、開け閉めのさいの音が柔らかなのだそうだ。  けど、ひたとびタバコに火をつけると、彼女の姿は実にさまになっていて、あたかも映画のワンシーンのようで、竜生は思わず見惚《みと》れてしまう。  玲子は、ひと口かふた口吸っただけで、タバコをこぎれいにもみ消した。  竜生は、何を話していいのかわからない。  前回の大学生のときは気さくに会話できたが、目の前にいる彼女は、まさにものがちがっていて、ふつうの娘さん、などではとうていないからだ。  端正にととのった顔立ちでスタイルも申し分なく、それに着ている柔らかそうな薄茶色のワンピースは、体の線をいっそう奇麗に見せている。肩にかかるかかからないかぐらいの髪はかすかに染めているようだが、まるで黒髪のように艶やかだ。爪先もきれいに整えていて、光沢だけの透明のマニキュアが塗られている。化粧はごくひかえめで、香水の匂いなどもさせていない。持ち物や着ている服や、そして体のすみずみにまで気が配られていて洗練されている。そんな感じが竜生にはした。 「どんなお仕事を、なさってるんですか」  玲子の方から話しかけてきた。 「うーん、うまく説明できなくって」  ……実際そうであるが。 「こんなこと聞いちゃいけないんですよね。わたしよく知らなくって」  玲子は、わびるような目をしていった。 「いや、ぼくもよく知らなくって」  玲子は少し笑みをもらしてから、 「じゃ、どうすればいいのかしら……お風呂にお湯をためればいいの?」  見つめながら聞いてくる。 「た……たぶん」  竜生の方がどぎまぎしていった。 「じゃ、準備をしてきますね」  玲子は椅子から立った。  そしてバスルームの方にお湯を入れに行き、バスタオルの用意などをする彼女の姿を、その少し覚束《おぼつか》なさそうな、それでいて優雅な身のこなしを、竜生は夢まぼろしのごとくに見ていただけであった。  その後も、竜生は緊張しまくってしまい、彼女はそれなりに精一杯に尽くしてはくれたようだったけど、竜生はあたかも童貞男《チェリーボーイ》のように、つたなくベッドの相手をつとめてしまった。  良樹が運転する帰りの車の中で、竜生は悔しさが込みあげてきた。どうしてこうぼくは、ここぞというときに実力[#「実力」に傍点]が発揮できないんだろう……などと。  その手の実力は、もとより竜生にはそなわってはいないのだろうが。  けど翌日になると、その悔しさは復讐心(チャレンジ精神)に変化した。もっとこう流れるようにスマートに、あの場面ではああやってこうやって、そしてあのときには男らしく堂々と……などと。  竜生ならずとも、男はそういった空想をよく頭に思い描くものである。未熟者であればあるほどに。  そして昼をすぎるころになると、竜生はその想いがつのってきて、ついつい『くらぶ葵』の電話番号を押していた。すると今日も、彼女はスタンバイの状態だというではないか(自宅で待機している、そんなニュアンスの言い廻しだったが)。 「だったら、一時間後に」 「あっ、今日もですかあ」  ちょっとあきれた顔で良樹はいって、渋谷の道玄坂まで車を走らせてくれた。  竜生は昨日とおなじホテルに入った。  が、よさそうな部屋は相変わらず明かりが消えていて、平日のこんな時間帯だというのに、あんがい混んでいるのである。昼下がりの情事……ぴったしの部屋は空いていたが、室内の様子が想像つかない。竜生はまたも迷った末、E.T.よりはと、アラビアのロレンスを選択した。その映画は竜生は観た記憶がないが、その美しい語呂《ごろ》につられたのである。  そこは、ベッドの上に白布の天蓋《てんがい》がかかっていて壁にはラクダの絵が描かれ、砂漠に立っているテントをイメージしたような造りであった。椅子も、映画監督が使うような布張りのそれで、それになぜか、すみに古ぼけたオートバイが立てて飾られている。  うーん、出だしからしくじったかと竜生は思う。  そして、やはり十五分ほどで彼女はやって来た。  今日も、玲子は帽子を目深にかぶっていて、室内に入ってからそれをとった。 「また呼んでいただいて、ありがとうございます」  小さくうなずきながらいった。  顔は美しく微笑《ほほえ》んでいるけど、どこか愁いをおびていて悲しい笑顔である。そんなふうにも竜生には感じられた。  玲子はボアのついたコートはおなじだったが、中はちがっていて、臙脂《えんじ》のドレスふうのワンピースを着ていた。昨日よりもゴージャスである。だが着こなしが巧《うま》いせいか、過度に媚《こ》びている感じはせず、実にさりげない。  玲子は、その布張りの椅子に腰を落ち着けると、室内を眺めながら、 「ここって、アラビアのロレンスなんですね」  すこし華《はや》やいだ声でいった。  彼女は号室を頼りに来ているから、ホテル入口の電光パネルなどは見ていないのである。 「これだけでわかるんですか? 砂漠ですけど」  竜生は、わざとらしくあたりを見渡した。 「だって、あそこに古い単車があるでしょう」  玲子は指さしていう。 「じゃ、あれに乗って、砂漠を走ったんですか? そのアラビアのロレンスさんは」 「うーんと、たしか、イギリスの田舎道じゃなかったかしら、目にゴーグルをつけて……そして、つっ走っていて事故で死んじゃうんですね」 「えっ……」 「けど、それは映画の最初のシーンだったか、最後のシーンだったか」  玲子は小首をかしげてから、 「どっちにしても、その単車に乗っているシーンが、砂漠でラクダにまたがっている姿と、かぶさっていくんですよ」 「へえ……」 「そうそう、オマー・シャリフが」  玲子は、目を美しく輝かせていい、 「イギリス人の将校のロレンスが、砂漠の井戸で水を飲んでいたら、蜃気楼《しんきろう》のかなたから……ゆらゆらゆらゆらしたところから、ラクダに乗って現れるんですよ。それも黒いアラブの衣装をまとって、いかにも悪役って感じで。でもふたりは親友になるんですけれどね。たしかロレンスは……ローレンス・オリビエが演《や》っていたというのは、ちょっとできすぎですよね? たぶんピーター・オトゥールかしら、典型的な青い目の、背の高い」  竜生は、そのオマーもローレンスもピーターも何となく名前を知っている程度で顔は浮かばないが、愛想してその都度うなずく。 「それに、アンソニー・クインも出ていたはずです。ちょっと野蛮な族長の役で、あの人ってそんな役ばかりでしょう」  玲子は映画の話を楽しそうに語った。  竜生は、意外なことがウケたなと内心こおどりしながら、 「えっと、ぼくは桑名竜生っていうんですよ。昨日は名前いいませんでしたけど」  あらたまって本名を名乗った。 「名古屋の近くに実家があって、もう何千年つづいてるって、ホラを吹きまくっている家で。けどぼくは、ちょっと前までは地元で郵便局員をやってたんですよ。窓口に立ったりもして。その局内では、お札を手で数えるのが一番早かったんですよ」  竜生はどうでもいい自慢話をする。  それは昨日、どんなお仕事を……と彼女から問われての、竜生なりの答えであったのだが。 「へー、そうなんですか」  玲子は、なぜか驚いたような顔をしてから、 「わたしの実家は、小田原で旅館をしているんです。というより、してた、ていうのが正しいですね」  身の上話を語りはじめた。 「わたしは御厨屋《みくりや》って名前ですけど、これは厨房《ちゅうぼう》の厨って字なんですよ」  いいながら、玲子は指でテーブルの上になぞった。 「あっ、それでそういうふうに読むんですか」 「だから、江戸時代から旅籠《はたご》をしていたようで、小田原でも老舗《しにせ》の旅館だったんですね」  そんなところのお嬢さんが、どうしてまた?  竜生はこころではいったが、口には出さなかった。  でも顔には出たはずだろう。 「けど、父は、わたしが小学生のころに死んじゃって、でも母は、まだ若かったから再婚をして。けど旅館ですからね、女将《おかみ》でもっているわけで、ほんとは夫なんかどうでもいいんですけどね」  玲子は、少し早口でいい、 「それに亡くなった父も婿養子だったから、おなじなんですけれどね。でも、その義父が、何かにつけて頼りない人で……わたしとソリがあわなかったというより、わたしが小馬鹿にしていたというのが、ほんとうのところかしら」  竜生は、ぐさりと胸につき刺さるものもあったが、 「それで、東京に出てきたわけですか?」 「それもあったし……また別の理由もあったし」  玲子はそのあたりは言葉をにごしてから、 「高校を卒業してから、こちらに出てきたんですね。で自分なりには、頑張っていたつもりなんですけど、実家からは、いっさい仕送りなんかはもらわずに。そうしていたら、ひと月ほど前なんですけど、地元の小田原の銀行の人がふたり、わたしのアパートに訪ねてきて、義父の連帯保証人になっているから、借金を返してくれっていうんですよ」 「えっ? いきなり?」 「そう。もう突然訪ねてきて、そして書面を見せられて、ほら、ここにあなたのサインと判子が押されてるでしょう……ていわれて」 「そんなの、した覚えないんでしょう?」 「もちろんですよ」  玲子は少し口をとがらせていい、 「その場で母に電話を入れると、母も泣いているだけで、実家の方も、ほぼ同時におなじような状況になっていて、義父は、その二日前に、商店街の泊まりの会合だとかいって、家から姿をくらましたらしく、連絡がとれなくなったというんですよ」 「ちょっと待って……すると、旅館は担保にとられちゃって、その上に、あなたが連帯保証をかぶったというわけですか?」  竜生は、知識柄、専門的にたずねる。 「そうなんです……て」  玲子は、さも他人事《ひとごと》のようにいい、 「土地の値段が、ひところに比べると半分ぐらいに下がっているらしいんですね。それが原因で、担保割れ、ていうんですか?」 「ええ」  竜生は首肯《うなず》いてから、 「けど、そういった場合は、追加融資なんてしませんよ。銀行は、絶対に」  ここぞとばかりに自信をもっていった。 「らしいですよね。でも、その借金は、じわじわと担保割れをしていったらしく、それを形を変えて別の書面にあらわしたもの。というのが銀行の言い分なんですよ」 「ふーん、それもないことはないでしょうけど」  一転、竜生は自信なさそうにいう。 「それに旅館の方も、経営が思わしくないのは、うすうす知ってはいたんですけど、でも突然、そんなことをいわれちゃっても……」  玲子は遠くを見るような目で、そして頬杖をついた。 「その書面の判子だけど、サインはどっちにしろ、それはあなたの印鑑なの?」  竜生は、助かる道があるかとも思って聞いてみる。 「わたしの実印が押されてあったんですよ」 「あっ、実家に置かれてたんですか?」 「まさか」  玲子は少しすねたようにいってから、 「その印鑑は、わたしが成人になった記念にと、誕生日の日に、母が買ってくれたものなんですね」 「あっ、じゃあ印鑑登録も……」 「そうなんですよ。プレゼントしてもらった翌日に、嬉しかったから、役所へ行って」 「うわあ……」  だったら逃げ道は皆無だなと竜生も思う。いかに別人がサインをしようとも、判子が実印ならばすべてに優先する。それが日本国の法律だからである。  それに、竜生は無性に悲しくなってきた。そんな成人の記念にもらったものを悪用されるなんて。 「よくよく考えてみれば、思いあたることはあるんですよ」  玲子はいう。 「半年ほど前ですけど、その義父が、東京のわたしのアパートに訪ねてきたんですね。近くまで来たものだから寄ったとかいって。それも手土産までもって。小田原の蒲鉾《かまぼこ》を」 「はあ……有名ですもんね」 「そんなことをされると娘としては、いくら義理の父であっても、その蒲鉾を切って、別のおつまみも作って、ビールの相手ぐらいはするでしょう」  玲子は、ことさらにはしゃいでいった。 「ええ、しますよね」  竜生は思わず涙が出そうになって、うつむきながらいった。 「だから、そのときしかもう考えられないんです。実印は、不用心にも、誰にでもわかるような机の引き出しに入れてあったし。それに台所が別にあるような、立派なアパートに住んでいたので」  玲子は冗談めかしていってから、 「ごめんなさい。こんな個人的な話をしちゃって」  顔を伏せている竜生を気遣ってか、いった。 「つかぬことを聞くけど、その連帯保証の額は、いかほどなの?」  竜生は顔を上げていった。もう彼は泣いていない。何事か意を決したような顔つきである。 「うーん……三千万」  玲子は、ためらいながらもいった。 「うわあ」  竜生は、ふたたび頭をかかえるしかない。  自由になる小遣いはそこそこにあり、郵便局勤め時代の貯金も多少はある竜生ではあったが、それは右から左という額ではないからだ。 「つてを頼って、弁護士にも相談してみたんですね。すると、もうふたつにひとつだといわれて」  玲子はそれ以上は話さなかったが、竜生としては聞くまでもない。  自己破産をするか、借金を返済するか、選択肢はそれしかないからだ。つまり彼女は、後者を選んだわけなのだろう。  それに相手は銀行だから、そう乱暴で無茶な取り立てはしないはず……かといっても、やはりそれなりの圧力《プレッシャー》はかけてくるはず。 「草の根をわけてでも、義父を探してやろうかとも考えたんですけど、でも現実にはねえ」  それこそ、御神ならば一発だが、氏子以外の頼み事をもちこむのはほぼ不可能に近い。竜生は、そういった便宜をはかれる立場にはないし、よほどの策でも用いないかぎり無理だろう。  それに、頭の中ではなおもあれこれと考えてしまう。  この『くらぶ葵』の料金は一回につき五万円である。時間は約三時間とけっこう長いので、けっして法外に高い値段というわけではないのだ。そして、たぶん七割ぐらいが女性の手取りなのだろう。かりに一日にふたりの客だったとして……とそんなふうに頭で算盤《そろばん》をはじいていくと、彼女が借金を完済するまでには、約二年かかってしまう計算になる。 「はあ……」  竜生は、あらためて嘆息《ためいき》をついた。 「再々いいますけれど、ごめんなさい。そんな真剣に考えないでくださいね。桑名さんに助けてください、て話じゃないですから」  玲子は明るくそういった。  お客さん、ではなく、桑名さん、と名前で呼ばれたことに、竜生は一瞬こころがときめいた。  が、その日はけっきょく、竜生は、彼女とはベッドをともにすることもなくホテルを後にした。そんな気持ちにはとうていなれなかったからである。彼女は何度となく、その後もごめんなさいをいった。  ……世の中って残酷だよなあ。  何不自由なく暮らしている自分と比較して、竜生はつくづくそう思った。  それに彼女は、まったく本当のことを話しているのだろう、とも竜生には思えた。  けど、そう考えれば考えるほどに、悲しくてせつなくなってくるのだった。  うーん、自分にできることは……それも、きわめてかぎられている。借金を肩代わりしてあげて二号にしちゃう? それは額からいって不可能。いっそのこと妻にしてしまう? ますます不可能。  竜蔵さんは若いころ、この手のことはどうしていたんだろう? 聞いてみたくも思ったが、竜生にはそんな勇気はない。鬼の師匠なのだから。竜蔵さんが父(竜作)とソリがあわないのは竜生も知っている。だから自分につらくあたっているのだろう、ぐらいのことは容易に想像がつく。それに竜蔵さんが、大学の先生のことを異様に買っていることは、こちらにいる桑名の者はほぼ全員が知っている。おそらく本家だって、誰かがチクって、知っているにちがいない。政臣さん率いるところの陰も、本家と側用人の両方に忠誠を尽くしているから、それはある程度やむをえないのだ。定めを破ろうとしているのは、ほかならぬ竜蔵さんなんだから。  けど、御神の側用人は、その大学の先生がやればいい、とすら竜生は思っている。  彼はぜんぜん悪い人じゃないし、野心や下心が見え隠れするような人でもない。屋敷で出される小鉢料理がたくさん並んだ晩飯の食卓《テーブル》を見て、至上の幸せ、そんな顔をする人である。それに、持ち物や服や、そして喋ることのひとつひとつに筋がとおっていて、多芸多才で、つまり趣味人だ。そのてん竜蔵さんとウマがあうのもよくわかる。——趣味人というのは(竜生の定義づけによると)、一見、無益だとわかっているような事柄においても、徹頭徹尾、努力を惜しまずにできる人のことをいう。御神の側用人は、そういった人こそがふさわしい。金銭的などろどろとした部分は切り離して、本家が管轄する。だからこそウマくいくのだろうと竜生なりに思ってもいる。  それに、あんなややこしい側用人の仕事を切り盛りしてやっていける自信は、竜生にはない。そんな重責は負いたくもない。それこそ、神代の時代から永々と存続してきたアマノメの歴史に終止符《ピリオド》を打った男、なんてひとコマは飾りたくはないのだ。逆説的だが、それが偽《いつわ》らざる竜生の本心でもある。  また、竜生はこうも思う。いわゆるオタクと趣味人の差は、オタクは興味があるのは一点のみで、他はてんでだらしがない。自分は、どちらかというとオタクかなあ、と思ったりもしてしまう。  とまあ、そういった諸々《もろもろ》を根底として踏まえながら、竜生は、目の前の課題を考える。  そして悶々《もんもん》と、ひと晩ほぼ寝ずにして考えた竜生は、翌日の昼すぎに、またもや『くらぶ葵』に電話を入れた。 「あのう、少々お聞きしたいんですけど、女性をひとり、一日借り切っちゃおうとする場合、いかほどの値段なんですか?」  つまり自身の財力のつづく限り彼女に貢《みつ》いでやろう、とそう竜生は考えたわけであった。  それは、こころ根のやさしい男が、思いつきそうなことでもある。 「その場合は、ふたつ分でけっこうでございます」  店からは、意外と良心的な答えが返ってきた。 「といいますのも、当くらぶは、女性ひとりにつき、最大でも、一日にふたりまでのお客さましかつけない、そのような方針でやっておりますので」  それは嘘か本当かわからないけど、超優良の顧客を相手に、優雅に運営している店にはちがいなさそうだ。それにその方が、女性の方も初々しさを保てるのだろう、とそんな裏事情を竜生は察しながら、 「だったら、一時間後に、そして今日は一日じゅう貸し切りで」 「えっ、またもやですかあ。大丈夫ですかあ」  良樹はあきれたというより、心配そうな顔をする。 「なんていったかなあ……あの有名な話」  良樹はハンドルを握りながら考え考えしてから、 「そうだそうだ。耳なし芳一《ほういち》ですよ。幽霊の女にたぶらかされて、命を落としそうになる話。耳のところだけ経文を書き忘れちゃうやつ」 「そ、そんなのとはちがうよ」 「ですが、お顔の色が悪いですよう」  それは竜生がちゃんと寝ていなかったからだが。 「そうそう、きみもこれで遊んでおいでよ」  竜生は、一万円札を何枚か握らせた。口止め料もかねて。 「わっ、ごっつあんでーす」  一転、良樹は嬉しそうにいった。  竜生はおなじホテルに入った。  が、土曜日ということもあってか、あのE.T.すらも消えており、ふた部屋しか空いていない。それもなんと、羊たちの沈黙、と、踊るマハラジャ、である。竜生は迷わず、後者を選んだ。もう片方は、どんな部屋なのか誰にだって想像がつくからだ。  そして、彼女がやって来た。  部屋に入って帽子をとりながら、彼女はくすくすと笑っている。それは室内があまりにも奇抜だからで、極彩色のシルク地のクッションがところせましと置かれ、踊った格好のインドの仏像(ヒンズー教の神々の像)が何個も立っているからだ。 「マハラジャの王宮へようこそ」  竜生もおどけていった。 「今日も、ありがとうございます」  玲子は、ていねいに頭を下げる。 「いやね、今日は時間は無制限なんで、ゆっくりしてってください」  貸し切り、などという野暮な言葉は、竜生もさすがにいわない。 「あまり無理をなさらないでくださいね」  玲子は、見つめながらいった。  けど、そんなことをいわれちゃうと、男としては余計に無理をしたくなるものなのであったが。  それに時間無制限とはいっても、竜生の方に限界があり、夕食どきまでには、いや、最大でも、御神の日々の仕事が始まる午後八時までには、埼玉の屋敷に戻らねばならない。  彼女と、映画の話に花を咲かせたりしていると、時間がたつのはあっ……という間である。  竜生は帰りの車の中で、ちょっとした、恋人ができたような気分にひたっていた。たとえ金で束縛しているにせよ、さらなる赤の他人に抱かれるよりは、彼女にとっても、その方が幸せにちがいない。そんな自分勝手なことを考えながら。  そして六時ごろに屋敷に着くと、どこか騒然としていた。陰のひとりをつかまえて聞いてみると、またしても御神が、危ない目にあったそうである。  竜生も、アマノメの一員として、抜きさしならない現実の世界にひき戻されてしまった。 [#改ページ]  8  黒いマリア像からは、指紋がいくつか採取されていた。  そのひとつが、警察の指紋照合システムで該当者ありと出た。大宮《おおみや》市に在住の二十八歳の女性である。十年ほど前に大麻《たいま》所持で逮捕歴があり、未成年で初犯でもあったことから不起訴処分になっていたが、そのさいの指紋が警察のコンピューターに保存されていたのだ。その後には逮捕歴などはない。  南署から早速、刑事たちが事情聴取に向かった。だが、洞窟の事件とどの程度のかかわりがあるかわからず、生駒と野村、軟派と硬派を代表する両刑事が出向いた。  その女性は、既婚で小さな子供もいたようだが、アパートの戸口から迷惑そうに顔を出した。  生駒が、単刀直入に黒いマリア像の写真を見せてたずねると、しばらく考えてから彼女は答えた。  ——たぶんあれよね。教会で一度見た。  どちらの教会ですか?  ——たしか、駅の西口から、十分ほど歩いたところにあった教会。  今でも行かれてるんですか?  ——いいえ。行ったのは一度きりよ。友達に誘われて、一年ぐらい前だったかしら。その教会の名前すらも覚えてないわ。  背景に写っている場所については、何かこころあたりは?  ——これは岩場? どこかしらね、ここは知らないわ。わたしが見たのは、何度もいうけど教会でよ。地下室を改造したような部屋があって、そこの祭壇に置かれてあったわ。  じゃ、そのときに触って?  ——ええ。ご利益《りやく》があるって友達がいうものだから、神父さんの目を盗んで、べたべたなぜたのね。わたし、何か悪いことした?  その事情聴取の間《かん》、野村が仏頂面《ぶっちょうづら》をして終始二ラみつけてはいたが、彼女はとくに脅《おび》えた様子も、嘘《うそ》をついているふうでもなかった。  両刑事は、その足で教会に向かった。  彼女がうろ覚えながらに覚えていた場所の、駅前の商店街を抜けきった路地の一角に、たしかに、それらしき建物はあった。壁一面が風格あるレンガ造りで、アーチ状をした小窓が並んでいる。だが、すべてに白いカーテンがおろされていて、中はのぞき見れない。それに、入口の両開きの木の扉には鉄鎖《チェーン》が二重三重に巻かれてあり、大きな南京錠《なんきんじょう》で閉じられていた。さらには、そのレンガ造りの建物と、くの字にくっついている住居部らしき家屋の方も、窓にはすべて雨戸がおりていた。そこそこの庭もあったが草|茫々《ぼうぼう》である。  両刑事は、近隣の何軒かの家に聞いてみた。  ——はいはい、最近、使ってないみたいですね。いつだったかしら、去年の冬でしょうか、こちらの牧師さんがお亡くなりになったようで、それで閉めたみたいですね。  ——ええええ、ご夫婦で住まわれてたんですが、先に、奥さんの方が亡くなられたようですよ。土曜と日曜にはオルガンの音が聞こえてきたんですが、それを弾かれていたようですね。たしか、遠藤《えんどう》さんというお名前でしたっけ。  ——まあ、ふつうの教会じゃなかったんですか。これといって変な噂は聞きませんでしたが。でも近所にあるからといって、拝《おが》みに行くわけじゃありませんからね。  などと、そこそこの話しか聞けなかった。  両刑事は、つぎに登記簿を調べてみた。  教会の建物や土地は、地場にある某不動産会社の所有で、去年の十二月に名義変更がなされていた。以前の所有者は個人で、遠藤|定次郎《さだじろう》、となっていた。  一方で、その遠藤定次郎は、今年の二月に死亡届が出されていた。八十一歳で没、とくに不審なてんはなく、病死のようである。  また、現在の所有者である某不動産会社の話によると、建物は近々とり壊し、区画を三つ四つにわけて建て売り住宅として販売する予定、とのことだ。  南署はとり急ぎ、建物や敷地内を捜査する許諾をえた。  が、火曜日の昼すぎに執《と》り行われた捜査はものものしく、従事した署員全員が、フルフェイスのヘルメットにジュラルミンの盾《たて》、さらには防弾チョッキにプラスチック製の手袋着用、といった考えられるかぎりの重装備であった。      ※ 「というのもですね、あの岩船さんが、罠《わな》だ罠だと大騒ぎしたもんですから」  生駒はいう。 「それに爆弾処理班まで呼んだんですよ。南署《うち》にはいませんからね、わざわざ来てもらったんです」 「で、爆弾はあったの?」  竜介は、あくまでも興味本位でたずねる。 「いや、そんなのがもしあったら、テレビのトップニュースになってますよ」  生駒は厭味《いやみ》っぽくいってから、 「そのときに撮った写真が、これなんですよ。昨日の捜査は、先生に立ち会ってもらおうって話もあったんですが、危ない危ないっていうもんで……」  それらの写真を、応接テーブルの上に並べ始めた。  生駒はかなりの量をもってきたらしく、茶封筒に小分けしてあり、鳩血色《ルビーレッド》のソファの座面にどさっと置いている。 「何かお気づきの箇所などがあったら、いってくださいね」  竜介も、回転椅子《デスクチェアー》から身を乗り出させながら、 「その前に、前段の生駒さんの話で気になった箇所があるんだけど、神父さん、牧師さん、両方出てきたよね。正しくはどっち?」 「あっ、現在、教会の信者さんが芋づる式にわかってきていることもあって、そちらの話では、神父さん、が正解です」 「じゃ、カトリックの方だな。それとさ、その神父の遠藤さんは、亡くなる二ヵ月ほど前に、教会を処分してるんだろう。そのあたりって?」 「それには、ちょっと驚愕《きょうがく》の話がありまして」  生駒は(驚愕のわりには)しょぼくれていい、 「駅から近い一等地にあって、百五十坪ぐらいの敷地ですから、当然、億を超える金額だったんですね。買った不動産会社は、それを指定された遠藤さんの口座に振り込んだ。なので、その口座を調べてみましたところ、即日、全額が別の銀行に送金されてたんですよ」 「どこの銀行に?」 「なんとまあ、某スイス銀行へ」 「ええ?」 「南署《うち》にも英語に堪能なやつがいますから、問い合わせの電話をかけさせたんですね。最初は応対してくれてたんだけど、途中から突然、敵がドイツ語に変えやがって、もうけんもほろろ!」  生駒は、まさに雉《きじ》が鳴くようにいう。 「送金先はわからずか」 「ええ、いわゆる匿名《とくめい》口座らしくって、どこに筋をとおしたら調べられるのか……すらもわからない」  生駒は、警察のくせに弱気なことをいい、 「それに宗教法人登録もされてたんですが、やはり教主は、その遠藤さん。何もかもが、表向きはすべて遠藤さんなんですね。もっとも、裏には黒幕がいますので、そのへんの話はおいおいと」  生駒は、期待をもたせるようなことをいってから、あらためてテーブルの写真に向きなおった。  竜介も、そちらに着目する。 「これが、扉から入ったところの全体の雰囲気です。礼拝室っていうんですか。自分は教会はよく知りませんけど、こざっぱりとした、どこにでもありそうな感じですよね」 「ふーん、白い壁に、木の長椅子だもんな。それに奥の方に、白いマリア像が見えてるけど、これは置きっぱなしだったの?」 「ええ、人の背丈ほどはあったので、忘れ物ってわけじゃないですよね。でこれを見るなり」  生駒は、その白いマリア像が大写しに撮られている写真をテーブルに置きながら、 「この中にこそ爆弾が! と岩船が騒ぎ始めまして。でいったん全員退去。そして処理班が、そうっと持ち上げたらしく、すると意外に軽かったようで、後から自分も見たんですが、中は空洞でしたね」  それがわかる写真を示しながら、生駒はいう。 「なんだこれは! ぺらんぺらんじゃないか! と処理班は怒って帰りました」 「ぺらんぺらん……て?」 「あのですね、外見はよくできてるんですが、型に流し込んで作るような合成樹脂製だったんですよ。ほぼ純白ですけど、微妙な陰影がついてますでしょう。これはね、色を塗ってあるんですって。たぶんスプレーを巧みに吹きつけて。そしてご丁寧にも、マリアさんのお御足《みあし》の裏には、メイド・イン・フィリピンと入ってました」 「フィリピン製か……」  竜介も、生駒の語り口があまりにも面白いので、思わず笑った。 「だから捨て置いてもいいような、ある種の大量生産品じゃないかって、そんな話です。なんですが、洞窟にあった黒いマリア像の方は、黒い大理石でできていて、表面がけっこう摩耗《まもう》していましたから、かなりの年代物じゃないかって、これは岩船さんの見立てですが」 「すると、そちらは本格的なんだな」 「さらにですね、こちらも中に何かあるんじゃないかと、専門の技師にお願いしたんですよ。非破壊検査とかいうやつを」 「それも、岩船さんが騒いで?」 「そうですそうです!」  生駒は力強く首をふってから、 「そうしますと、ちょうど心臓のあたりに、二センチぐらいの小さくて丸っこい、別のものが入ってるのが判ったんですよ。もっとも、爆弾とかではないみたいで。……で、底を見てみますと、くり抜かれたあとがあって、同種の石できれーに埋め戻してはあったんですがね」 「へえー、仏像ではそういったことをするけど、あちらさんもやるとは知らなかったな。それも大理石の像で」  竜介も、実際、驚いていった。 「非破壊検査技師の見立てによりますと、その心臓の部分は、鉄分の多い、金属っぽい何かだろう、てそんな話でした」 「鉄分の多い……」  竜介は少し考えてから、 「それは、ひょっとしたら隕石《いんせき》かもしれないな」 「あの、空から降ってくるやつですか?」  生駒は、窓に見える冬の青空を指さす。 「そうそう。隕石には鉄分が多いのよ。隕鉄っていうぐらいで。……というのもさ、黒いマリア像の原型のひとつである、アルテミスというギリシャ神話の女神は、その最初のころの信仰は、黒い隕石を拝んでたんだ。そんな歴史もあるのでね」 「だったら、ますます本格的ですよね」 「そのアルテミスというのは、太陽神アポロンの双子の妹で、つまり月の女神さ。だから空から落っこちてくる、そんなイメージもあったんだろう。さらには、手に弓矢をもっていて、その矢の先には、人を突然死させる猛毒の病原菌が塗ってあったという伝説。つまり冥界《めいかい》の神でもあるんだ」 「あちゃ……」  生駒は、横を向いて顔をしかめる。聞きたくない話を聞いてしまったかのように。 「そうそう!」  顔を向けなおして、生駒は真剣な表情でいう。 「あの五寸釘に入っていた毒が判明しましたよ」 「何だったの?」  竜介も、その件については依藤警部から数日前にあった電話で概要を聞かされている。だから五寸釘は絶対にお貸しできないといった話とともに。 「それこそ、大変だ大変だ! と岩船が血相を変えただけのことはありまして、たとえば、リシンという毒、お聞きになったことあります?」 「いや、ちょっと知らないなあ」 「これはロシアの|KGB《カーゲーベー》の話なんですが、一・五ミリの金属製の球体に……一・五ミリって、こんなもんですよう」  生駒は、自身の顔の前で、親指と人さし指で隙間《すきま》を作って見せながら、 「そんな球体に極小の穴をあけ、そこにリシンを入れて、特殊なロウで封をするんです。それをコウモリ傘の先にセットして、プシュ、と人につき刺すんですよ。すると体内でロウが溶け出して」 「あっ、その話だったら聞いたことある」 「KGBの、知る人ぞ知る殺人グッズですよね。それに使われていたのが、リシン。植物から採《と》られた毒だそうです。ところが、五寸釘に入っていたのは、さらに数段上の」  そこまでいうと、生駒は背広のポケットから紙切れをとり出して、それを見ながら、 「——ゲルセミシン、という毒です。これはゲルセミウム・エレガンスというツル性の植物から採られ、あのトリカブトや青酸カリや、そしてリシンなどをはるかに凌《しの》ぐ、地球上に存在する最強の、植物毒だそうです!」 「あら……」  竜介は、苦笑しながら頭をかかえた。もう想像の度を超えていたから、笑うしかない。 「ところがですね、このゲルセミウム・エレガンスという聞きなれない名前の植物は、意外にも、日本となじみが深くって、あの正倉院《しょうそういん》の中に、御物《ぎょぶつ》として秘蔵されてるそうなんですよ」 「あーん?」  竜介としては、ますます想像を超えている話だ。 「どう読むのかわからないんですけど、こんな字を書くんですよ」  生駒が紙切れを見せてくれた。  ——冶葛。  律義な字でそう記されてあったが、竜介にも読み方はさだかではない。 「だからまあ、葛《くず》に似た植物なんでしょうね。もっとも、日本には生えてなくって、インドやタイあたりが原産だそうです。だから、あのシルクロードで運ばれて来たんでしょうかね」  生駒は、さもロマンのあるようなことをいい、 「そして奈良時代の日本の法律に、この葛は猛毒だから、むやみに人に使用してはならない。そんな一文があるらしいです。そして正倉院御物のお品書きには、奈良時代には十何キロあった、と数量が記されてるんですね。ところが、現在は、たったの数百グラムしか残ってないそうです」 「つ! 使ってたのか、誰かが……」 「だからですね、まさか正倉院から盗み出したとは思えませんけれど」  生駒は真顔になって、声をひそめぎみにしていう。 「これほどの、ある意味、由緒正しき毒を使っているのには、リシンでも何でも微量で十分なわけでしてね、それなりの独特のポリシーが敵にあるような、そんな感じがする、と依藤はいってました」 「うん、同感だな」  竜介も静かにうなずいた。  まさに、日本に古来から生きているアマノメの神を殺すにふさわしい毒であろうか。 「やはり、洞窟で亡くなっておられたほとけさんも、体内からゲルセミシンが検出されました。だから、この毒が死因です」 「警部さんも電話でおっしゃってたけど、われわれの身代わりとなってくれたわけだよな」 「結果、そういうことですよね」  ふたりで、しみじみと顔を見合わせてから、 「その彼の本籍地が、現場から百メーターほどしか、離れてないんですよ。だから、洞窟のことを知っていた可能性が高いですよね。それに、精神病院の担当医の話によると」  生駒は何を思い出したのか、顔をしかめ、 「始終へらへら笑ってた、いいかげんな先生でして、聞けた有意義な話は、唯一一点だけ。それはこんな話で、彼が口ぐせのようにいっていたことがあり、自分は、この世とあの世とをつなぐカギのありかを知っている。それを使ってあの世へと行き、まっとうな自分に生まれ変わるんだ……てそんな話です」 「ふーん」  竜介はしばし考えた。  その彼の病状を察するに身につまされる話だが、かといって、具体的にそれが何を意味しているのかわからない。けれど、妹(まな美)が置かれている奇妙な現状と、何かしらの強い関連がありそうなことぐらいはわかる。 「すると、そのカギというのが、五寸釘ってことだろうか?」 「そう考えるのが近道でしょうね。けど、どっちにせよ、毒入りとすり替えられちゃってたわけで」 「その、すり替えというのは、確定事項なの?」 「それは別の話から、ほぼ裏づけられるんですよ。時効になっている竜眼寺《りゅうがんじ》の捜査資料が残ってまして、それを漁《あさ》っていたら、見つけたんですが」  生駒は、やはり紙切れに目を落としながら、 「これは檀家《だんか》さんから聞いた話で、つまり、老人の住職が語っていたわけですね。寺の秘宝と、秘密のご本尊は、幸いなことに焼失をまぬがれていたから、寺の再建も可能でありましょう……といったようなことを」 「なるほどね」  竜介も、納得してうなずいた。 「ですから、寺の秘宝が五寸釘だとすると、それがハイテクの殺人グッズだった、なんてことはありえませんからね」 「もっとも……」  竜介は、その竜眼寺の秘宝である本物の方の五寸釘は、今は誰の手元にあるのか、おおよそのことがわかってきた。 「では、話を戻しまして、これが、地下室の方なんですよ。建物の裏にまわったところに別の扉がありまして、そこから降りていくんですけれど」  生駒は別の茶封筒から写真をとり出して、テーブルに並べていく。 「先生が依藤におっしゃったとかいう、地下聖堂、そんなじめじめした、ものものしい雰囲気はないですよね」 「たしかにね。ここも白い壁で、さっきの礼拝室と大差ないよな」 「で、この小ぶりの祭壇の上に、あの黒いマリア像が置かれてあったそうです。もっとも、不動産会社に売却された時点で、それはなかったそうですが。だから、洞窟の方に引っ越したんでしょうかね」 「……ふん」  竜介は、首をかしげながらうなずいた。 「あのですね、やっぱりこれも変な話なんですよ」 「というのは?」 「教会の信者さんは、二十名ほどは判明してるんですが、その半数ぐらいは、地下にあった黒いマリア像を見て知ってるんですよ。ところが、誰ひとりとして、洞窟に引っ越したことは知らないんです。けれども、あの洞窟の方の祭壇は」  生駒は、また別の茶封筒から写真を出しながら、 「こんなふうに、黒いマリア像のまわりは、ロウソクの燃えかすがあふれてましたでしょう。いかにも、祈りの場として使っていた感じです。ならば、いったい誰が?」 「たしかにね……」 「ロウソクも何もかも、すべてが作為的なしろもので、罠である。岩船は強固に主張していますが」 「いや、この場合、罠っていうのはおかしいんじゃないか」  さすがに竜介も笑ってから、 「だって、黒いマリア像が、洞窟に置かれてあったせいで、警察《みなさん》にたどられちゃったわけだろう。教会まで」 「ええ、だから依藤の説はちがってまして、あの黒いマリア像は、おれがやってるんだぞ! といった敵の意思表示として置かれてあった。つまり犯行声明文的なしろもの」 「うーん」  竜介は腕組みをしてうなってから、 「けれど、隕石の話がもし正しかったとすると、それほどまでに由緒のあるマリア像を、みすみす警察の手に渡したりするだろうか?」 「いわれてみればね。けど、自分はふたりの説とはちがうんですよ」 「どんなの?」 「単純に、ミステイク、そんな感じがするんですよ。というのも、あのちょーハイテクの殺人グッズと、こうもあっさりと教会までたどりつけた証拠の残しようは、ギャップが激しすぎるんですね。だから何かのはずみで、それは何だかわかりませんが、敵の側にミスが生じたんじゃないかと」 「ふーん」  竜介も、その生駒の説はあながち、て感じはしたが、 「それとさ、毒入り五寸釘の件と、黒いマリア像が置かれてあったことは、同一の組織のしわざ、そう確定していいの?」 「ええ、これもほぼ確定してるんですよ。そのことを先生にお教えしとかなきゃー……」  嬉《うれ》しそうに生駒は、またしても別の茶封筒から、 「あのですね、信者さんのひとりが写真をもっていて、それを借りてきたんですが。この教会のオープン式典が、十年ほど前にあって、そのときに撮られた写真なんですよ。ちょっとピンボケなんですが、この後ろに写っている人物——」  生駒が指さしたそれは、教会の扉口あたりで誰かと話しているらしき黒のツメえり服に身をかためたブラウンの髪に三角定規のような鼻筋の、明らかに白人の横顔であった。 「こいつが、地下の礼拝室をおもに仕切っていた男です。——つまり! 黒幕ですね。信者たちからは、トマスさま、そう呼ばれていたそうです」 「なるほどね」  竜介は、ことさら抑揚のない声でいった。 「先生、ぜんぜん驚きませんね。依藤もおなじく無反応だったんですが、この写真は、自分が足を棒にして見つけてきたんですよ」  生駒は、ちょっとすねてから、 「ですから、確定してますでしょう?」 「うん! たしかにね」  竜介は、大袈裟《おおげさ》にうなずいた。 「もっとも、トマスという呼び名以外は、信者たちはいっさい知らない。どこに住んでいるのかなど、男の素性《すじょう》はまったく不明です。これも案の定だと、依藤からはいわれましたが」 「いやいや、ここまで迫れただけでも、めっけものよ。この顔写真があるんだからさ、全国指名手配にかけれるじゃない」 「いえいえ、それは無謀ですよ先生」  生駒は怒った顔でいい、 「こいつが本ボシであることは百パーセントまちがいありませんが、今のところ、何ひとつ証拠はないんですから」 「あの、毒入り五寸釘は?」 「あれにトマスの指紋なんてついてませんよ。たぶん。ですからね、こいつを逮捕できるチャンスは、自宅なりに毒のゲルセミシンをもっていて、それを押収して微量分析にかけ、五寸釘に入っていたそれと同一であると判定結果が出た場合。ぐらいが唯一でしょうかね。もっとも、その自宅すらもわからないんですが」 「だったら、むずかしいな」  竜介は、現実との格差をあらためて思い知り、あきらめたようにいった。 「ですが、このトマスって男は、どうしてそう御神《おんかみ》を、ひつこくつけねらうんですか? 妹さんが呪われた事件も、そして日光の事件にも、こいつがからんでたんでしょう?」 「日光の呪術《じゅじゅつ》そのものは、十年ほど前のもので、別人のトマスの仕業《しわざ》さ。トマスは複数いるのね。どっちにせよ、もう宿命としかいえないな」 「宿命……?」  生駒は、羊が鳴くようにいう。 「あちらさんは、約二千年前からずーと神々を殺しつづけてきて、トマスと名乗っている男は、それを本業にしているわけ。だからもう理屈はとおらなくて、個人的な恨みでもないのよ。それに文明国にいた神々は、すでに九十九パーセント殺し終えているのね。だからこの国にいるアマノメの神が、やつらにとっては、現存するほぼ唯一の標的《ターゲット》さ」 「けど、神とはいっても、要するに超能力者なんでしょう。そんなの、けっこういるじゃありませんか。テレビにもちょくちょく出てるし」 「はっ、はは……」  竜介は鼻で笑ってから、 「その巷《ちまた》の超能力者って、死んだらそれで終わりじゃないか。わざわざトマスが手にかけるまでもなく。だがアマノメは、こちらも、それこそ二千年の時をこえて生きつづけてきた、相応の技能と知識を有している、歴《れっき》とした神だからさ」 「あっ、二千年対二千年の戦いなわけですね」 「アマノメの御神の側は、うちは三千年だといってるけど」  生駒も鼻で笑いながら、 「もう大差ないと思いま……す」 「そこでひとつ、提案があるんですよ」  生駒が、奇妙に顔をほころばしていう。 「うん?」 「これは依藤からのたってのお願いなんですが」  手の平をすりあわせながら生駒はいう。 「警部さんからの?」 「毒のことよりも、まずもって、トマスの居場所をつきとめるのが先決でしょう」 「それ今さっき、わからないっていったくせに」 「ですからね、そのへんも含めまして、ここはひとつ、その御神さまに見ていただくというのは」 「そ、そんなあ」  竜介は、椅子の背もたれにのけぞってから、 「御神さんはね、今は隠遁《いんとん》中——」 [#改ページ]  9  ——三日前の話であるが。  森の屋敷の中庭に面する母屋《おもや》の八畳間《こべや》に、重々しい胴間声《どうまごえ》が響いていた。 「昨日《さくじつ》のような蛮行《ばんこう》は、陰《かげ》がいくら数おりましょうとも、とうてい防ぎきれるものではございませぬ」  おもに喋っているのは、その陰の頭領の桑名|政臣《まさおみ》である。 「それに政嗣。聞いたところによると、車三台ともピクリとも動かんかったそうじゃないか。命を投げ捨ててでも、御神《おんかみ》さまをお護《まも》りするのが我らの役目じゃ。それを忘れおったか」 「いえ……」  政嗣は頭《こうべ》をたれながらも何かいいたげであったが、政臣が容赦《ようしゃ》なく言葉をつづける。 「おぬしに御神さまの日々の警護を任せて、かれこれ一年たつが、陰たちへの教示を怠《おこた》っておるのではあるまいか」 「いえ、自分なりには……」  政嗣は顔を伏せたままでいう。 「おぬしが垂範《すいはん》を示さぬから、陰たちも怠《なま》けておるのではあるまいか」 「…………」 「それにじゃ、車の一台はおぬし自身がハンドルを握っておったそうじゃないか。走り来るトラックを見て、身がすくみよったか」 「まあまあ、それぐらいでよいではないか」  竜蔵が助け舟を出していった。  竜蔵ひとりだけが電気|炬燵《ごたつ》の中に足を投じていて、政臣と政嗣は座布団も敷かずに正座である。 「政嗣、動けんかったんじゃなく、動かんかったんじゃないのか、そのへんはどうじゃ?」  竜蔵が穏《おだ》やかな声でたずねる。 「……はい。動くなという声が、聞こえたような気がいたしまして」  政嗣は小声だが、しっかりとした口調でいう。 「それは自分だけではなく、あの場にいた陰たちほぼ全員が聞こえたらしく、そのことを後で、皆がささやきあっておりましたが」 「さようか」  竜蔵は晴れやかにいい、 「だったら、政臣、そう責められまいて。御神さまからの直《じか》のお声なんだから」 「ですが、あのマユミさまですら、それがおできになったのは、お隠れになる直前ぐらいで」 「それは神それぞれじゃ。それに今のアマノメは、もう先代を超えておろうぞ」 「こ、こんな短期間にでございまするか」  政臣は当惑ぎみにいう。 「封印が長かったので、却《かえ》って、それが幸いしたのかもしれんな。それにいい友達もできたようだし」  そういって、竜蔵はにこにこと笑う。 「いい友達、と申されますと」  政臣が遠慮がちにたずねる。 「まあ、それはいわぬがはなじゃって。それに昨日《きのう》は、まな美さまの言葉が、ずいぶんと助けになったようじゃ。だから探りを飛ばしておったので、かなり前からわかっており、御神さまとしては、余裕があったと申しておった。まっこと、不思議な話ではあるがのう……」 「ですが、そういつもいつも」  政臣は強い口調でいった。 「もっともじゃ。昨日は運がよかった。だから外出は控えるよう、わしからも強く申しておこう」 「はっ——」  政臣は深々と頭をたれる。  政嗣も同様だ。  ところで、竜生は……などといった話は、もちろん影も形もなく。 [#改ページ]  10 「隠遁中……て、どこかに雲隠れでも?」  生駒はきょろきょろ顔を動かして、スチール書棚の裏にでも隠れているかのようにいう。  ここは書棚だらけの『情報科』の資料室である。その名に恥じず、多方面からさまざまな情報がもち込まれてくる。それをひとりで交通整理しているのが竜介だが、御用聞きと化している自分を最近は呪っている。だから言葉には覇気《はき》がない。 「学校にはかよってるさ。歴史部の放課後のうろうろを自粛《じしゅく》ちゅう、実際はその程度かな。生駒さんも聞いてるよね? 土曜日に危機一髪だった件」 「ええ、南署《うち》の交通課が、暴走トラックはあっさり見つけましたよ。たしか、現場から十キロほど北にあがった、東北自動車道のガード下の道で。もっとも、運転席はもぬけの殻《から》。指紋もちゃんと採ったんですが、これといって該当者は出ず」  生駒はてきぱきと報告する。 「どこのトラックだったの?」 「中堅の運送会社のそれでして、前日に、盗難届が出されてました。ちょっと遠いんですが、山梨県のどこかのパーキングで、蕎麦《そば》を食ってる間に、乗り逃げされたそうです」 「乗り逃げっていうのは、つまり鍵《キー》さしたまま?」 「そういうことです。帰りの空荷《からに》だったから油断してた、とのことでしたが、鍵さしたままにするトラックの運転手って、意外と多いんですよ。だからその気になってねらってれば、盗《と》れちゃうんですね」  生駒は、さも悪ガキのようにいう。 「じゃ、トラックの方には、裏はなしか」 「いや、実はそうでもないんですよ」  生駒は真顔になって、 「その運送会社の親会社、親会社、親会社……とたどっていきますと、なんと、あの洞窟の地権者にいきあたるんですよ」  竜介は、ええー、とそれなりに驚いてから、 「生駒さん、会社名を何だかいってたよね?」  聞いたような聞かないような。 「御門興産《みかどこうさん》といって、御《おん》、門《もん》、と書くんですが、漢字もさることながら、発音すると仰々しいでしょう。というか、天皇が、降参する、そんな意味にもとれますから、自分が何とか興産ってぼかしていったのは、そのせいです。それに古びた感じもしますけど、どうしてどうして、聞くところによりますと、傘下に数百の会社を有している、不動産や土建関連の親玉で、いわゆる黒幕《フィクサー》の会社です。港区に、どでかい本社ビルが立ってるそうです」 「へえー……」  竜介はひとしきり驚いてから、天皇が降参、にはとくに驚いてから、 「そんな黒幕の大会社が、あんな田舎の土地をもってたの?」 「あっ、土地は、この御門興産に集約させているようです。東京の十分の一をもってるといった噂もあるぐらいで。ともかく、そういったつながりがあったんですよ。ですが、関連会社があまりにも多いので、単なる、偶然だったのかもしれませんが」 「ふーん、世の中、偶然なんてことはないのよね」  竜介は独り言のようにつぶやいてから、 「その盗んだトラックを暴走させてきた男だけど、その後、追跡できたのね」 「誰がですか?」 「もちろん、御神がさ」 「え? そんなことできるんですか?」  生駒は驚いた口ぶりでいう。 「できるともさ。一度つかまえちゃえば、たとえ地球の裏側に逃げようとも、御神からは、そうそう隠れられないよ」 「え! そんなにすごいんですか!」 「生駒さん。口でいってるわりには信じてないでしょう。そんな目をしてる」  生駒は、ばれたかあ、と頭をかきながら、 「岩船さんだったら一も二もなく信じるでしょうが、自分はねえ」 「だったら、その証拠をお見せしましょうか」  いうと竜介は、仕事机《デスク》の引き出しを開けて一枚の紙をとり出した。 「証拠といいますと?」 「あのね、その男を月曜日までは追跡できたらしいんだ。ところがとある場所で、ブスリ」 「え! 殺されたってことですか?」 「そう。百パーセント死んだって」 「そ、その死体は? は、犯人は?」  生駒はあわてふためいていう。 「まず死体の方だけどさ……」  竜介は、ことさらゆっくりといい、 「とあるおーきな湖の底」 「先生、今手にもってんのは地図なんでしょう」  生駒が急《せ》いていう。 「これ渡してもいいんだけど、埼玉県じゃないのよ。どうします?」 「ど、どうするといわれたって……自分は殺人課の刑事ですからね。ほっとけませんよ。そんなの!」  生駒は顔をつき出させていう。 「けどね、御神の側がいうには、もうどちらでもいいって。湖の底から死体を捜し出せたとしても、目ぼしい証拠はないだろうって」 「そ、そんなあ……」  生駒は当惑したようにいい、 「だったら、犯人の方は!」  ふたたび顔をつき出す。 「もちろん見えたそうだけど、これも他府県にあって、雑居ビルの一室に金看板をかかげている、いわゆる、典型的なやくざさんだって」 「じゃ、その事務所で殺されたってわけですか?」 「そう。現場には、複数の人間がいたみたいだね。その金看板の文字がはっきりと見えたそうだから、そこを捜査できれば、床に血のあとぐらいは残っているかも」 「あちゃ……」  生駒は両手で頭をかかえた。  その彼の仕草からいっても、捜査はまずできないだろうなと竜介は思う。  生駒が、顔をあげていう。 「素朴な疑問を聞きますけど、御神をねらった、そもそもの、その男の動機は何なんですか?」 「単純に、お金」  竜介はそっけなくいう。 「あっ、金での請け負いかあ」 「もっとも、これはぼくの推理なんだけどね。それに男は薬《やく》をやってたらしく、絵がぐちゃぐちゃしていたから、見るのに疲れたと御神は申しておった」  竜介も疲れたふうにいい、 「たぶん、その男はお金をもらいに行って、殺されたんだと思うよ」 「ええ? ああ?」  生駒は二度疑問符をいってから、 「だって、請け負った仕事は成功してないじゃないですか。それなのに、のこのこと暴力団事務所にお金をもらいに行くなんて、それこそ、殺されに行くようなもんですよ?」 「だから、殺されたの」 「先生、理屈にあってなーい!」  生駒が怒り出した。 「だから、御神を仕留めたと、その男が勘違いするように、御神が手品をやったわけさ」 「手品?」 「彼にとっては、そんな気持ちだったようだ。ためしてみたらうまくいった。ざまあみろう! と家に帰ってから大喜びしてたそうだから。そのへんは歳《とし》相応なのね」 「先生! いったい何のことなんですか?」  生駒はじれて怒る。 「じゃ、ごく単純化して教えるけど、彼は、他人に幽霊を見せることができるのね。その幽霊を身代わりとしてトラックに轢《ひ》かせたわけさ」 「そ、そんなあ……」  生駒はソファからずり落ちそうになる。 「ほうら」  竜介は指さしながら、 「いっても信じられないだろう。だから話しても仕方ないのよ」 「だ、だって、トラックに幽霊を轢かすなんて、そんなの誰が信じますか」 「あ、そうそう」  竜介は思い出して、 「鎌倉《かまくら》の事件で、生駒さん、真浦会《まうらかい》の女ボスを追っかけただろう」 「ええ、たしかに追っかけたんですが、信じられないほどに逃げ足の早い女で、自分、今でも十二秒台で走れるんですよ。長距離も自信あるんですが」  生駒は、学生時代はボクシング部である。 「だから、それが幽霊だったのよ。生駒さんは、幽霊を追いかけていたわけ。そんなの追いつきっこないでしょう。雰囲気的に」 「えー!」  生駒は大音響でがなってから、 「だったら、それも御神のしわざ?」 「いや、それはちがう」  竜介は手をふって否定し、 「そのころは、彼はまだできなかったはず。ちょうどおなじ時期に、チベットの高僧がひとり、日本に来ていたのね。事件と直接の関係はなかったから警部さんには話さなかったけど、たぶん、その彼あたりじゃないかな」 「そんなことができるんですか?」 「できる——」  竜介は首をふりおろして断定的にいい、 「こと幽霊映像を作って他人に見せることに関しては、最高の熟達者《エキスパート》なんだ。その来ていたチベットの高僧がね。そういった幽霊のことを幻《まぼろし》の身《み》と書いて、幻身《げんしん》。チベットの言葉では、ギュルという」 「へえー……」 「ほら、こういった専門用語でいうと、ちょっとは信じる気持ちになってきたでしょう」 「まあ、そういわれれば……」 「要するに、言葉にだまされるなってこと」  竜介は反面教師的な矛盾することをいってから、 「そのチベットの高僧と、御神が、友達になったらしいのね。もっとも、直には会ってないんだけど。そのさいに、幻身のコツを教えてもらったか、会得《えとく》したらしいんだな。それでちょくちょく練習していたらしいのよ」 「れ、練習をですかあ。そんなのどこで? 誰を相手に?」 「いい質問だなあ。ぼくもまったくおなじことを彼に聞いたの。すると笑って答えないのさ」  竜介は、ことのほか嬉しそうに、 「だからぼくが想像するに、学校で、クラスメイトや先生らを練習台にして」 「そんなあ」 「これ一等やりやすいのよ。理屈からいって。その彼らの頭ん中には、御神の映像がしっかと入ってるから、脳をちょこちょこっとくすぐったぐらいで、その絵が出てきてしまうわけさあ」  生駒も笑いながら、 「それ雰囲気わかりますけど、もうむちゃくちゃですよう、信じる信じないをこえて……」 「窓のところにでも座って、外を歩いている先生の目の前に、幽霊を……」  そんな見てきたような例を竜介が語って、ふたりはひとしきり笑ってから、生駒がいう。 「そうしますとですね、あの鎌倉の件は、馬の前に人参《にんじん》をつるして走らせるのとおなじですか? 馬は絶対に人参は食えないわけだけど」 「生駒さん、たとえ話うまいなあ」 「くそお……」 「さらにいうとね、その馬の場合は、人参は本物なわけさ。けど生駒さんの場合、その人参すらも」 「……絶句!」  コンコン。  内扉をノックする音がして、いつものように静香がお茶を運んできた。よくできた女性で、深刻な話をしているときには、まず顔は出さず、こういった馬鹿騒ぎ状態のときを見計らって。  生駒は、ソファで居住まいを正して畏《かしこ》まっている。土門くんもそうだが、男はたいていそうだ。  竜介が思うに、ふたりはほぼ同い歳ぐらいでは。 「生駒さん、もう三十路《みそじ》になったの?」 「自分は遅生まれでして、来年の三月で、のってしまいます」 「あら……」  静香がちょっと悲しそうな声を出して、 「わたしが追いついてしまいますわね。一月で」 「すると、一学年下ですね」  生駒が顔をほころばせぎみにいった。  静香が隣の研究室に去っていってから、 「しかし先生のまわりって、どうしてこう奇麗《きれい》な女性ばかりいるんですか」  やっかみ半分で羨《うらや》ましそうに生駒はいう。 「うん? ひとりだけだけど」 「いや、歴史部にふたり」 「高校生もいれるとか……」 「自分は鎌倉で初めて見たんですけど、びっくりしましたからね。その日の鎌倉はすごい人出でして、けど、そこを歴史部の四人組がつーと歩くと、まわりの人たちがいっせいにつぎつぎとふり返っていくんですよ」 「うわっ、たしかに目立ちそうだよなあ」  竜介も、その情景を頭に思い浮かべて、納得する。 「その四人組の中で、唯一目立たない男子が、神さまだというんだから、もう狂ってるとしか」 「たしかにね……」  竜介はひとしきり苦笑してから、 「うん? あれは教えといた方がいいのかなあ」 「といいますと?」 「うん! やっぱり教えといた方が」  竜介は、みずからで判断してから、 「妹ではない、もうひとりの女子の方だけど、彼女は、御神の護衛なのよ」 「ええ?」  生駒は頓狂な声を出して驚く。 「あまりにも外をうろうろするもんだから、身近《みぢか》に常にいられるようにと、最近つけたのね。よその学校から転入までさせて。なんでも『天神心影流《てんしんしんかげりゅう》』とかいう武道の、道場主の娘さん。あの歳で、師範代だそうだ」 「あ! 自分それ聞いたことありますよ」 「生駒さん知ってるの」 「自分も昔格闘系やってましたから、もちろんタイプはちがってますけど。そこは知る人ぞ知る道場で、素手で闘って、勝てる相手は地球上にいない! と噂されているぐらいの」 「そっ、そんなに強いのか」  竜介は逆に驚く。 「もう伝説になってるクラスですよ。よくもまあ、そんなとこの娘さんが」  生駒は顔をふってあきれる。 「ところで、その歴史部さんですが、老人の住職が語っていた秘密のご本尊を、見に行かれたとか?」 「うん、危機一髪の日にね。仏像の目利《めき》きが同行してたから、一発でわかったそうよ。目利き一発!」  竜介が珍しく駄洒落《だじゃれ》をいう。疲れているせいだろうか。  生駒は愛想笑いをしてから、 「何か、事件に関連がありそうなことは、出てきました?」 「まだ何ともいえないんだけど、竜眼寺が、どんな寺だったかはだいたいわかった。宗教法人の登録上は、たしか浄土宗《じょうどしゅう》だったよね」 「ええ」 「だったら、たぶん江戸時代の初期あたりで、変わったんだろうな。それはよくある話なのでね。元来はね、ここは天台宗《てんだいしゅう》の寺門派《じもんは》の寺で、琵琶湖《びわこ》の横にある三井寺《みいでら》が総本山ね。しかも、その三井寺に非常に近しい寺。それは竜眼寺という名称からいっても、まさにそのとおりだったわけさ」 「名前から、わかるんですか?」 「わかるわかる。それは三井寺の方に、とっても有名な伝承があるから」  竜介は強調していってから、生駒の顔を見る。 「うーん、たぶん自分は知らないですねえ」 「いや、生駒さんも、これは聞いたら知ってるって。それはこんな伝承さ——」  ——昔、琵琶湖のほとりに住んでいた若い男が、子供たちにいじめられていた蛇を助けて、湖にはなしてやった。すると、何日かして、見目麗《みめうるわ》しき娘が彼の家に訪ねてきた。やがてふたりは夫婦になって、身ごもった娘は、けっして見ないでくださいね、そういい残して産屋《うぶや》に入った。けれど、心配のあまりに男が中をのぞいてみると、全身の鱗《うろこ》を青光りさせた大蛇がとぐろを巻いているではないか。  娘は竜の化身だったのだ。  彼女は、自分の目玉をくり抜くと、赤ん坊の手に握らせて湖に去っていった。赤ん坊は、それさえ吸わせておえば機嫌よく、すくすくと育った。でも生の目玉がそうもつものではない。ふたたび彼女があらわれて、もう片方の目玉も与えてしまった。  わたしは盲目となり、あなたたちの居場所がわかりません。どうか三井寺の鐘を鳴らして、ふたりが無事であることを知らせてください。  以来、朝と夕に、男は子供をおぶって、鐘を鳴らしつづけたとさ。 「知ってまーす」  生駒が手をあげていう。 「その最後の物悲しいところだけ、知ってます。目玉を与えたから盲目になり、だから鐘の音で知らせる、といった因果関係は、なぜかすっぽりと覚えてません」 「いや、意外とそういう人、多いんじゃないかな」  竜介はくすくすと笑う。 「ですが、まさしく竜眼寺、ぴったしの名前でしたね」 「だろう。……ところが、この伝承は、生駒さんも覚えているという物悲しさを強調したいがために、原型《オリジナル》からは改変されちゃってるんだ。たぶんね」 「どんなふうにですか?」 「まずもって、その子供、子供には竜の血が入ってるだろう」 「ええ、半分は竜ですよね」 「するとやがては、その子供にも、竜の力があらわれ出そうじゃないか。だから自身の目玉を与えるというのは、母から子供への、竜の力の委譲《いじょう》を意味する、そう考えた方がいいと思うんだな。おしゃぶりや食べ物や栄養素ではなくって。それに神の話にからんで、目玉ひとつをくり抜くというのは、世界中に類例がたくさんあるのよ」 「なるほど、本来はひとつでいいのに、鐘をつかせたいがために、ふたつともあげちゃう、そう脚色されたわけですね」 「そういうこと。でもそう脚色しないと、琵琶湖の物語にはならないことも、また事実なんだけどね」  ……琵琶湖にいた竜は元来ひとつ目で、そのひとつの目玉を与えたから盲目になった、そんな原型もありだなと竜介は内心思ってはいるが。 「ともあれ、秘密のご本尊は、そんなところね。けど寺の秘宝の方は、つまり五寸釘は、こういった知られた伝承には出てこないんだなあ」  竜介は首をかしげる。  生駒も一緒になって思案げな顔をしてから、 「ところでですね、まだ教会の方の写真がいくつか残ってるんですよ。そちらを見ていただければと」  別の茶封筒に手をかける。 「もう、きりないよね」  竜介はうんざりした顔でいう。 「まあ、そうおっしゃらずに、あと二、三枚ですから……まずこれですね。一番最初に見せるべきだったんですが、庭の写真に入ってましたので」  いいながら、生駒がそれを手渡す。 「あっ、教会の看板か」 『聖マリア・アドベンチスト教会』  木の看板が草むらの中に転がっている。 「こんな教会名、ありうるわけないじゃないか! デタラメだ!」  見るなり竜介は怒鳴っていう。 「え? 宗教法人登録も、その名前だったんですけど?」 「だからもうトマスの大嘘なの。真実は何ひとつとしてないのよ」 「それほどまでに、デタラメな名前なんですか?」 「そうよ。アドベンチストというのは、再臨《さいりん》という意味だけど、イエスがふたたびこの世にあらわれて、千年ほど神の王国がつづき、そして終末を迎える、そんな話ね。この再臨派の教会はけっこうあるのよ。何とかアドベンチストと名前がついている教会も、実際にある。けれど、これらはすべて、プロテスタントの運動なわけさ」 「あっ、神父さんだったから、ちがうわけですね」 「さらに、プロテスタントは、そもそも聖マリアなどは信仰していない!」 「あらら……」 「それに、マリアが再臨してきて何の意味があるんだ? ふたたびイエスを生むのか? そんな二重|手間《でま》な!」 「にっ……二重手間」  生駒は、その言葉の強烈さに、あきれてしまう。 「先生、じゃつぎはこれなんですけどね」  生駒は別の写真をおずおずとさし出す。 「うーん?」  竜介は怒鳴り疲れたのか、眠たそうな声で、 「草むらに、白い棒切れが何本かころがってるだけじゃないか」 「ええ、それね、何だか最初わからなかったんですが、信者さんからもらった写真で判明しました。だからこちらを見てください」  生駒は、さらに一枚の写真を手渡しながら、 「こんな形で屋根に立ってたわけですね。それが壊されて、庭に捨ててあったわけですよ」 「何——」  竜介は目を大きく見開いて、俄然《がぜん》、真剣な表情で見る。 「自分は見たことはありませんけど、当然、十字架の一種ですよね。アンテナか、傘みたいな形をしてますが、横木が三本で」 「これまさか合成写真じゃないよね」  竜介は、そんな冗談めいたことをつぶやいてから、 「これは、教皇十字《きょうこうじゅうじ》といわれているもの」  明瞭な口調でいった。 「特別なものなんですか?」 「ある意味、バチカンの三種《さんしゅ》の神器《じんぎ》のひとつかな。上のふたつよりはちょい落ちるけどさ。どんなときに使う十字架かというと、たとえば、ローマ法王が道を歩いたりすると、その先頭の従者が、これを手にかかげもって、群衆に示しながら行くわけさ」 「あ、水戸黄門《みとこうもん》の印籠《いんろう》みたいにですか、ひかえおろう、て感じで?」 「まさにそのとおり。あるいは、ローマ法王みずからが、これを手にもってひざまずき、特別な祭礼で、バチカンの聖なる扉を開けたりもする、そんなときに使う十字架さ」 「うわあ……」  生駒は驚く。 「ほら、またそうやって言葉にだまされる。バチカンの聖なる扉、に何の意味があるの? そこには神などは実在しない、所詮、虚飾《きょしょく》の宮殿なんだから」 「ありゃありゃ」 「ともあれ、これは一般的には使えない十字架のはず。バチカンから遠く離れた異国の地なので、かまわないのかもしれないけど」 「へえー、使えない十字架を、勝手に使ってたわけですね」 「けど、トマスだからなあ」  竜介は腕組みをして思案げに、 「これを原名のトマス・アクィナスだとすると、ある意味、ローマ法王なんかより上だからさ」 「法王の上がいるんですか?」 「そりゃ生きている中ではトップだけど、死ねば歴代ローマ法王のひとりにしかすぎないよ。そのてんトマスは、フィレンツェにある有名な修道院の壁画などに、大勢の聖人たちを従えて金色《こんじき》の玉座に君臨している、それがトマスなんだから」 「もちろん、それは死んでる人ですよね?」  竜介はうなずいてから、 「十三世紀に生きていた人だけど、自分はそのトマスであると名乗っているわけさ。あの写真の男は。だから、教会の名称はあきらかにジョークだが、この十字架の方は、マジで使っていた可能性もあるな。庭に捨てたのは、不動産会社?」 「いえ、鍵をかけた以外は何もしてないといってましたので、たぶん出るときにでも壊したんでしょう。それと自分が思うにですね、トマスって、バチカンのKGBみたいなものじゃないんですか?」 「まあ、それもひとつの考え方」  竜介は半分肯定してから、 「逆に、すべての罪をバチカンになすりつけようと画策している、たとえば、古いグノーシス系の一派である可能性もある。そこはかつてバチカンに滅ぼされた恨みがあるからね。四、五世紀ぐらいまでに九十九パーセント滅んだんだけど」 「そんなに古いのが、生き残ってるんですか? それとも、生き返ったんですか?」 「だから、これは万が一の話ね。というのも、あの黒いマリア像を、トマスがどう扱っていたかによる。黒い像を、トマスが真剣に拝んでいたんだとすると、バチカンってことはありえない。バチカンは白い方だからさ」 「黒い方は、マグダラのマリアっていうそうですね。娼婦だ娼婦だと、依藤は盛んにいってましたけど。岩船が罠だ罠だという、お返しに」 「変なやりとり……」  竜介はうんざりした声でいい、 「その娼婦だというのが、そもそも間違ってるんだけど。聖書にはそんなこと一行も書かれてないんだけど。彼女は石を投げられたりもしないんだけど」 「え? 自分も、そのシーンは映画で見たことありますよ」 「そう。皆見てるはず。でもそれが間違いなのよ」 「たしか、ハリウッドの大作でしたよ。題名までは覚えてませんけど」 「そーいったキリスト教系の大作映画を作るときは、さる筋から莫大な資金が出るのね。その見返りに、脚本に注文がつくわけ。ここはこう描いてくれないと断じて困る——と。つまりスポンサーのご意向だから逆らえないのね。それは間違いだと知っていても。いかなる名だたる大監督といえども」 「えっ」  生駒は何やらひらめいた顔で、 「それはいわゆる大衆への意識操作ってやつですか。映画をとおしての洗脳《せんのう》みたいなもの?」 「そう。そのとおり」 「どうしてまた、そんな間違ったふうに?」 「それはキリスト教の根幹にかかわるからで、根の深い深い話さ。そんなしちめんどくさいの、生駒さん聞きたい?」 「聞きたい、……です」  生駒は手をあげて、きらきらと目を輝かせていう。 「自分最近ここによくおうかがいするでしょう。伝達係で。すると先生からいろんな話を教えてもらえて、それがぜんぜん知らない話ばかりなんで、面白くってえ」  三十路近くになって向学心に芽生えたようだ。 「じゃ、ごくごく簡単に」  竜介は仕方なさそうに説明を始める。 「マグダラのマリアは、マグダラという土地の王族の血をひく娘さん。それがなぜ娼婦にされるかというと、新約聖書の、マグダラのマリアの話の近くに、名なしの娼婦の話が語られているから、それを精一杯うがって考えれば、同一人物だとこじつけられないこともない……といった程度さ」 「そうこじつけるのが、意識操作ってわけですね」 「なぜそうする必要があるのか? それはマグダラのマリアが、聖書の本文中、もっとも重要なシーンを担《にな》っているからで、けどバチカンとしては、映画などには登場してもらいたくはないわけね。でも聖書に書かれちゃってる手前仕方なく、やむをえず、娼婦にしちゃうわけさ。それは、こんなシーンね。十字架で磔《はりつけ》になって死んだイエスは、石棺に入れられて埋められた。早朝、マグダラのマリアがその墓に行ってみると——」  竜介は講談口調でいう。 「輝ける純白の衣装を身にまとったイエスその人が、そこに立っているではないか!」 「あっ、復活の現場を見たのが、彼女なんですね」  竜介はなおも講談口調でいう。 「そういった娼婦のような最下層の卑《いや》しき女性の前にも、いや、そういった人だからこそ、救いの神イエスはお姿をあらわしてお声をかけてくださった! そんなありがちな話でまとめられるだろう」 「あー、いわれてみれば[#「いわれてみれば」に傍点]」  生駒も大喜びして、きばっていう。 「だが実際は娼婦ではない。だからありがちな話でもない。ならば、彼女の正体は何か?」  竜介は、以前誰かに話したような気もしつつ、 「たしか『ルカの福音書《ふくいんしょ》』に、イエスに、七つの悪霊《あくりょう》を追い出してもらったマグダラの女ことマリア、そのほか多くの女たちがイエスのお供をし、彼女らは自分の財産を出して奉仕した……なんてことが書かれてあったはずさ」 「悪霊が七つもついてたんですか。ちょっと変わった女性ですよね」 「これ諸説あるんだけど、今の日本でも巷にあふれている、いわゆる霊能力者だと考えれば、話は簡単だな」 「あっ、霊能力者って、だいたいが女性ですもんね。その話は以前、先生からお聞きしました」  生駒は思い出していい、 「そうすると、彼女が墓で見たイエスさんというのは、つまり幽霊ってことですよね」 「ぼくらだったらそう考える。だがキリスト教は別の考え方をする。イエスは一度死んでから復活した。なぜそのような奇跡が可能なのか? それは彼が神の子だったからにほかならない! これがキリスト教の教義の根幹なんだ」 「なるほど、彼女が幽霊を見た、じゃマズいわけですね」 「そう。両者はまったく似て非なるものなんだ。だからマグダラのマリアは、バチカンにとっては最大の弱点となる。彼女のことを真剣に考えられちゃうと、ボロが出ちゃうから、なので娼婦! といった印象度《インパクト》の強い別種のベールにくるんで、話をそらしているわけさ」 「はっはーん……」  生駒は、理解したように大きくうなずいてから、 「そうしますと、信者さんの話によりますと、地下に置かれてあった黒いマリア像を、こちらはマグダラのマリアさまです、そうトマスは説明していたそうですから、やっぱりバチカンのKGBっていうのも、おかしいかもしれませんね」 「あっ、彼は明言してたのか。だったら変だな。バチカンの恥部をさらしてるようなものだもんね」 「ち……恥部ですかあ、自分はそこまではいいませんけど」  生駒はちょっと咎《とが》めるようにいう。 「けど、マグダラのマリアは、イエスの復活の現場に立ち会ったこともあって、その後、熱烈な信仰の対象になるわけさ。それがおもにグノーシス……隠された知恵、秘密の教え、といった意味で、霊的なものを重んじる一派ね。さらには、マグダラのマリアはイエスの妻であった、といった説も流布《るふ》される。これはかなり信憑性《しんぴょうせい》の高い話なんだけどね。そしてイエスの子を生んでいて、その子孫がどこそこの王家の血へと……とここまでくると多分にあやしいが。二、三世紀には、そんなマグダラのマリアを中心にすえた福音書が多数作られたのね。でも禁書にされ、バチカンが一冊残らず燃やしてしまった」  竜介はニヤリと笑って、 「はずだったんだが、一九四五年にエジプトの洞窟から一部が発見された。『ナグ・ハマディ写本』と呼ばれるのがそれね」 「へえー、イエスさんの妻だったんですか?」  生駒は、その箇所にとくに興味をひかれたようだが。 「それはいくつかの点でいえるのね。まずユダヤ教の宣教師《ラビ》は、妻帯が義務づけられていたんだ。もちろんイエスもユダヤ教の宣教師で、それに三十をすぎていたからね。そしてカナの婚礼といった、有名なシーンが聖書にあるんだけど、足らなくなったワインをイエスが、ぱっ、と空中から出す話ね」 「あっ、なんとなく知ってますね……」  生駒は、ぱっ、につられたかのようにいう。 「ところが、その婚礼の新郎新婦については、誰なのかいっさい触れられてないのよ。イエスは何の関係で列席していたのかも語られていない。そんなイエスが、足らなくなったワインを、ぱっ、と出すというのは変な話だろう?」 「あっ、いわれてみれば……」 「だから、これは自身の、つまりイエスとマグダラのマリアの結婚式ではなかったのか、と研究者の多くが語っている。そしてイエスの磔の丘、十二使徒《じゅうにしと》なんかはどこかへぱーと消えちゃうんだけど、それを最後まで見届けるのが、やはりマグダラのマリアなのね。そして墓にも、イエスの亡骸《なきがら》に香油を塗ろうと思って、真っ先に行くし」 「ほんとだ。もう妻以外にはありえませんね。どっちにしても、とってもけなげな女性ですよね」 「そう。当時実際に生きていた生の女性が描かれているわけさ。かたや白いマリアの方は、つまりいわゆるマリアさんだが、彼女はイエスとまともな会話ひとつかわしてないのね。イエスは、けっこう冷たく接していたようなんだ。とそのように、後世の福音書の作家は描いているわけだけど」 「つまり、母親に冷たくですか?」 「そう。イエスは、つまりマリアの私生児だろう。当時の社会環境においては、今でも大差ないだろうが、まわりから徹底的に白い目で見られるわけさ」 「だから……白いマリアさま」  生駒は小声で冗談をいう。 「けど、バチカンはそちらを採用したのね。処女でイエスを生んだ汚れなき女性だ、と崇《あが》め奉《たてまつ》って。でも実像とはかけ離れていたから、大衆からはそっぽを向かれ、まったく支持されなかったのね」 「え? 支持されなかったんですか」 「そうよ。バチカンがひつこく強要しつづけてきたので、ようやく様になってきたのが、せいぜい十九世紀、てとこかな。それ以前は、生きた女性像の、マグダラのマリアが圧倒的に信仰されていたわけさ」 「じゃ、わりと最近までなんですね」 「まあ、日本でいうと、ちょうど江戸時代までは、といった話だよね。だから、ようやく消せたマグダラ信仰なんだから、復活して欲しくはないよな。バチカンにとってみれば」 「たしかにそうですね。するとますます、トマスはバチカンの敵って感じにも、なりますよね」 「けれど——」  竜介は語気を強めていい、 「トマスのことをあれこれ詮索《せんさく》しても意味はない。その大半がデタラメで、所詮ケムに巻くためにやってんだから。誰かにこうやって詮索させて、頭を悩ませている図でも想像しながら、今ごろどっかで高笑いしているにちがいない。ぼくは高笑いされるのは嫌いだ!」  竜介は、やけくそな宣戦布告をする。 「そこでひとつご提案が……」  生駒はいう。 「うん?」 「ですから、とりあえずトマスの居場所だけでも、御神に探していただくというのを?」  以前の話題をぶり返していう。 「いや、それができないんだ。現実問題として」 「え? だって、トラックの運転手に関しては、先生のお話によると、事細かく見えたそうじゃありませんか? でしたら、トマスだって可能かと?」 「もちろん、やろうと思えばできないこともないが、それこそ、トマスがどんな罠をはりめぐらしているか、わかったもんじゃない。この場合の罠というのは、能力者の脳にダメージを与えるやつね。御神は以前、やられたことがあるのよ。日光の事件でね。そのときは事なきをえたけど、それはそれは複雑巧妙な呪術で、トマスはその種のプロなわけよ。そうやって神々を殺してきたんだから、約二千年の長きにわたって。だから迂闊《うかつ》に近づくと、返り討ちにあっちゃうの」 「あっ、そういう理由《わけ》だったんですか……」  生駒は、神妙な顔と声でいう。 「だから、トマス本体には絶対に近づかない。それが御神の側の統一見解なの」  そういったことを助言し、強く主張しているのは、ほかならぬ竜介であったようだが。 「なので、心理戦はできないから、物理的にやっつけるしかない。つまり、警察さんにお縄にしていただきたい、というのが御神の側からの強い希望!」  力を込めて竜介がいうと、 「はあん、ご希望にそえられりゃいいけど……」  生駒は、頼りなげに弱々しくヤジロベエのように、首をふるのであった。 [#改ページ]  11  そのころトマスは、竜介らが想像だにしなかった場所にいた。  山手線《やまのてせん》の五反田《ごたんだ》駅からほど近いところにあって、高い白塀と常緑の木々に隠されていて外部からはうかがい知ることはできず、近所の人たちからは(場所柄そう多くは住んでいないが)、さる皇族のお住まいよ、そんな噂すら囁《ささや》かれているぐらいの、優に一千坪はあろうかと思えるほどの敷地に立っている、とある白亜の洋館の一室である。  室内は、淡い色調のヨーロッパふうの家具で統一されていて贅《ぜい》を尽くしてはいるが、どこか宝塚少女趣味的な装いでもある。 「いやあ、真浦さまは、いつ見てもお美しい」  そんな世辞をいいながら、トマスは手の指先で何やらもてあそんでいる。 「あなたこそ、ちっぽけな教会の神父をさせておくには、もったいないぐらいの外人よね」  真浦は、口さがなくいった。  彼女は宗教法人『真浦会』の若き教祖だが、大炊御門の血が入った天目マサトの腹ちがいの姉である。M高校での女生徒誘拐事件や、鎌倉で歴史部の一行に悪漢をさし向けてきた張本人でもある。  ——敵の敵は、味方といったところだろうか。 「それ手にもってんの、何?」  つっ慳貪《けんどん》に真浦が問うた。 「これはですね、おそらく江戸初期の古い五寸釘で、一説には、竜を封印できると、そんな伝承にまつわる宝物です」 「あらそう、わたしも竜なんだけど」  いうと真浦は、みずからの胸を前につき出させて、挑発するような仕草をする。  彼女は純白のシルクの高級夜具《ナイトガウン》をはおり、長椅子にしゃなりと腰かけていて、あたかもベッドにでも誘っているかのような艶姿《あですがた》だ。 「さあ、どうでしょうかねえ。この種の伝承には虚実がいり乱れてまして、それを生かすも殺すも、わたしの腕ひとつですから」  トマスは、五寸釘の先をダーツの矢のように向け、彼女の艶《つや》っぽい胸を的《まと》にして刺す仕草をする。けれど、不思議なほどに爽やかな笑顔だから、この場のそれは冗談であろうか。  彼は百八十センチほどの長身を薄茶色のコーデュロイのスーツにくるみ、深紅のネクタイをきりりと締めて、一分のスキもない装いで椅子に座っている。見た目には、青い目をしたハンサムな中年外人だ。 「けど、その釘の仕掛けは、失敗したんでしょう」  真浦は虚勢をはりぎみにいった。 「さすがは真浦さま、よくお見通しで」  トマスは、ふっ、と五寸釘を手の中に隠しながら、 「あれはかなり前々から準備しておった、とっときの仕掛けだったんですが、けどどうしたことか、邪魔が入ったらしく」  そういうわりには彼は悔しがっているふうではなく、まったくの笑顔である。 「わたし最近よく見えるのよ。もうアマノメの小僧なんて、目じゃないわ」 「それはそれは、お頼もしい……」  トマスは笑顔のままで大きくうなずく。 「だから、あの子の行き場所は、だいたいわかるのよ。けど、わたしが見えているときには、あの子にも見えてるようなので、それは注意しとかないとね。あなたの姿だって、見られたかもしれないわよ」 「ふん、ふふふふ……」  トマスは三角定規の鼻で笑ってから、 「たとえ見えたところで、どうできるものでもなく。それにかえって好都合の場合すら」  不敵に嘯《うそぶ》いていう。 「けど、妙な術を使うみたいだから、気をつけた方がいいわよ」 「はい、あのトラックの件ですなあ……」  トマスも、それには少し不機嫌そうな顔をする。 「あれはあなたの方で用意した運転手でしょう。頼りないの使うからよ」  真浦は吐き捨てるようにいった。 「はあ……あれも、それなりに準備をしておった男なんですがねえ。前々から、たっぷりと薬やら鼻薬をかがせて」 「あなたがゲームを楽しむのは勝手だけど、早く始末をつけてちょうだいね。わたしにも、先々の予定が決まってるんだから」 「はい——」  トマスは明瞭な声でふたつ返事し、 「真浦さまがアマノメの神におなりになる、そのお手伝いができれば、わたしとしましても、望外の幸せですから」  ——慇懃《いんぎん》に頭《こうべ》をたれる。 「それって、本心でいってらっしゃるの?」 「もちろんでございますとも」 「たしか、女の呪術師は生かしておくな。そんな言葉が聖書にあったんじゃなかったかしら?」 「よくご存じで。それは『出エジプト記』ですが、その女呪術師というのは、毒殺者という意味のヘブライ語の誤訳なんですよ」 「あら、そうだったの」  真浦は頬をひきつらせぎみに笑う。 「もっと強烈な文言《もんごん》もありますよ。男であれ女であれ、口寄せや霊媒《れいばい》はかならず死刑に処すべし。これは『レビ記』でしたがね」 「まあ、おそろしや……」  真浦は両手で胸をかばう。さも少女のように。 「所詮、古ぼけた話ですよ」  トマスは苦笑ぎみにいってから、 「ところで、つかぬことをおたずねしますが、わたしの別の宝物がひとつ、行方知れずなんですけれど、もしや、何かご存じありませんか?」 「それ何のこと?」  真浦はぶっきら棒にいう。 「いえね、真っ黒い大理石の小さな女神像なんですが、そんじょそこらにはない値打ちものでして、倉庫に大切に仕舞っておいたはずなんですが、いつの間にか、忽然《こつぜん》と消えてしまったらしく」 「あらそう。そんな大切なものだったら、枕元にでも置いとくべきよね。今ごろは、アンティーク屋の店先にでも並んでんじゃないの」  真浦は饒舌《じょうぜつ》にいった。 「はてさて、どこへ消えたんでしょうかねえ」  トマスは大仰に首をかしげてから、 「今度おひまがあるときにでも、真浦さまのお力で探していただければと」 「そう、考えとくわ」  ——ふたりは、それほど仲睦《なかむつま》じいというわけでもなさそうだが。 「それはそうと、もうひとつの策はうまくいってるの?」 「はい、ちゃくちゃくと」  トマスは、ふたたび手品のように五寸釘を手の平に出すと…… 「あれ無理いって、パパから貸してもらったんだからさ。けっして安くないのよ」 「はい、それはそれは素晴らしい玉《たま》で」  ……またもや、指先でもてあそんでいる。 「今度こそ、無駄にしないでちょうだいね」 「ご希望にそえるよう」  ——真浦がいうパパとは、誰のことなのやら。 [#改ページ] 第三章「傀儡《くぐつ》の恋人たち」  12  竜生は、その後も、渋谷のホテルがよいをつづけていたのである。  たしかに、御神《おんかみ》が危機一髪だった日、竜生は一瞬目が覚めたようでもあったが、竜蔵から彼へは、何ひとつとして公式発表めいたものはなく、無論、陰《かげ》たちとの密談にも参加させてはもらえず、それならばと、竜生なりに反発しての、悪事であったのだ。  というより、その反発を理由にしての、遊戯、いや、もはや恋愛といった方がいいのかもしれないけれど。  そして今日(木曜日)も、良樹に小遣いを握らせてから、いつもの洒落《しゃれ》たホテルのドアをくぐった。  あのE.T.が空いている。が、今まで一度も空いていたことのないグラン・ブルーの明かりが点《つ》いていた。それは竜生も以前に観たことがあり好きになった映画のひとつだから、迷わずそこを選択した。  ところが、天井も床も壁もベッドのシーツや枕にいたるまで青色《ブルー》で、イルカの絵が天井や壁を泳いでいるだけだ。それに室内がせまい。そう思って浴室を見てみると、そこはプールに近く、やたらと深くて大きいのである。しかも浴槽が透明ではないか。  うわっ……嫌われちゃいそうな造りである。  それでも、いつもどおりに彼女はやって来た。  玲子は、やはり目深《まぶか》に帽子をかぶってきて、室内に入ってから、竜生に顔を見せた。  ——店の車が彼女の自宅アパートまで迎えに行って、そしてホテルの真ん前で降ろしてもらっているそうだが、つまりホテルの入口から部屋までのわずかな間ですら、彼女は顔を他人には見られたくはないのである。  のほほんとしている竜生ではあったが、もちろん、そういったことには気づいている。  自分にだけ奇麗《きれい》な顔を見せるんだ。竜生は都合のいいように考えたりもしているが。 「ありがとうございます」  玲子は微笑《ほほえ》みながらいって、うなずいた。  今日も、とか、いつも、とか、無理をしないでくださいね、そういった言葉は、もう彼女はいわなくなった。  さらには、ありがとうございます、その言葉さえなければ恋人なんだけど、竜生は内心勝手に思う。 「このホテルにしては、部屋がせまいですよね」  玲子は、小学校で使うような木の椅子に腰かけながらいった。  椅子とテーブルはニス塗りの粗末な木製で、つまり海辺の小屋がイメージされているのである。 「それには、ちょっとした秘密が……」  竜生はとぼけていう。 「あら、どんなかしら」  玲子は、見つめながら聞いてくる。  そのように真っすぐに、奇麗な顔と目で見つめられると、竜生は今でもどぎまぎする。 「いや、これはぼくがグラン・ブルーにだまされて、つい選んじゃったんですよ」  早口で言い訳めいたことをいってから、 「そうそう、アラビアのロレンス観ましたよ。すごくよかったですよ」  竜生は話をそらす。 「玲子さんがいわれていた、砂漠の蜃気楼《しんきろう》のかなたから、ゆらゆらーと現れるシーンは、最高でしたね。自分の部屋のテレビは小《ち》っちゃいので、そこだけリビングのでかいやつで見直したぐらいの」 「あら……」  玲子は、心底、嬉しそうな表情をする。 「それにロレンスが単車でつっ走ってるシーンは、映画の最初でしたね」  けど、厳密にいうと、それはラクダに乗っているシーンにはかぶさってはいなかった。でも竜生は、彼女の思い出はこわすまいと、そのことは話さない。 「それにロレンスは、ピーター・オトゥールが演《えん》じてました」 「あっ、やっぱり……」 「それにほんと、青い目で背が高く、髪は……金色か銀色で、典型的なハンサムな外人ですよね。もうちょっと信じられないぐらいの」 「ほんとですよね。どうしてあそこまで美形の顔に生まれるのかしら、不思議なぐらいですよね」  いえいえ、あなたもですよ。  と、竜生は精一杯に目で語りかけてから、 「そのロレンスですけど、最初のころはどこか頼りなさそうな、詩人で、本が好きで、といった感じの英国の趣味人の将校が、それで弁がたつもんだから、ばらばらのアラブの族長たちを、たくみにまとめあげていって、トルコとの戦いに勝たしていくわけですね。つまり英雄の物語ですよね。ところが、これは三時間をこえてる長い映画なんですけど、ラスト三十分ぐらいになると、がらりと雰囲気が変わって、恐い話になっちゃうんですよ」  彼女は覚えているかな、と思っていってみた。 「どんなふうにですか?」 「えー、でもこれ話すと、あなたの夢をこわしちゃうかもしれない……」 「いえいえ、そんなこと大丈夫ですよ」  玲子は、手をふって笑顔でいう。 「じゃ、遠慮せずに話しますけど、そのロレンスが、いわゆるカリスマになっちゃうんですよ。もう神々しいばかりに、神がかってきちゃって。そして、あのオマー・シャリフが、彼も族長のひとりなんですけど、いわれたように、出だしはすっごい恐い男ですよね。あの井戸のシーンでは、ロレンスの案内人を、あっさり撃ち殺しちゃうぐらいの。でも、やがては親友になり、そして最後には、そのロレンスのことを、そこまで敵を殺さなくてもいいじゃないか、とひきつった顔で非難し、もうアッラーの神をこえていると、おそれおののいちゃうぐらいまでに。そして最後の戦いにもロレンスは勝利し、けど、するとお払い箱とばかりに、任を解かれてしまうんですね。それで映画は、ジ・エンドなんですよ。だから、そこから冒頭の単車のシーンへとつながっていき、こう……エンドレスの輪のように」  手をぐるぐるさせながら、竜生はいった。 「へー、そんな最後だったんですか」  玲子は感慨深そうにいった。  人は、えてして、物語のいいところしか覚えていないものなのかもしれない。  竜生はそんなことも考えながら、 「で自分が思うにですけど、たとえ英雄の物語ではあっても、戦争にはちがいないから、狂気の側面も監督は描きたかったんでしょうね。だから最後の方にだけ、やや唐突ぎみに、そういったシーンをつけ加えた。そんな感じがしましたね」  いっぱしの映画評論家みたいなことをいって、まとめとした。  実は、ここ最近はヒマさえあれば、レンタル店から借りてきて、竜生は映画ばかり観ているのである。  それはもちろん、古い映画のことをよく知っている彼女と、話をあわそうと思ってのことだが。彼も、それなりの地道な努力はしているのである。  けど、一日で観られるのはせいぜい三本だ。ところが、このホテルの部屋数は二十をこえていて、さしあたってそれが優先し、ようやっと、それらの観ていなかった映画(もしくは記憶の不確かなの)を、ひととおり終えた程度である。それもあって、せっかくだから、このホテルのすべての部屋を使い切ってやろう、と竜生は目論《もくろ》んでもいる。 「じゃ……」  彼女が椅子から立ち上がった。いつものように準備をしようと思ってか。 「いや、玲子さん。今日はどこか、外へと出てみませんか?」  竜生は聞いてみる。  透明風呂を見られるのが気恥ずかしいこともあったし、それに前々から(せいぜい二、三日前だが)、一度外へと誘ってみようと竜生は考えてもいたのだ。店に確認したところ、それはお客さまの自由だともいわれたので。 「帽子はかぶったままでいいですよ」  さらに竜生は、彼女を気遣って条件をしめす。 「あれは、この近くだけですから……」 「じゃ、いいんですか?」 「ええ」  玲子はにこやかにうなずいた。 「やったー。とはいっても、ぼくは東京はぜんぜん知らないんですよ。このホテルぐらいしか」  いってから、竜生は自身で笑い、 「……だからね、玲子さんが行きたいところがあったら、いってくれたらどこにでも行きますから」 「すると、タクシーでですか?」 「いや、車はあるから、道に詳しい運転手がついてくれているので」 「えっ?」  玲子は、たいそう驚いた顔をする。  前にも驚かれたことを竜生は思い出した。  たしか、自分が以前は郵便局員だったといったときだ。それがおかかえ運転手つきなんだから、やっぱり驚くよなあ、と竜生は納得する。 「どこがいいです? 下北沢《しもきたざわ》なんてのは?」  それはあの大学の先生が住んでいる街でよく話題に出、うろうろ散策するにはよさそうな場所である。 「あるいは、青山? 骨董通《こっとうどう》りとかがあるそうですけどね」  それは玲子が、興味のなさそうな顔をする。 「あとは、表参道? 原宿? 銀座?」  竜生も地名ぐらいは知っているのだが。 「うーんと……」  玲子はしばらく考えてからいう。 「じゃあ、銀座に連れていってください」 「大人の街ですよね。こう……恋人同士が腕を組んで歩くには、ちょうどいいぐらいの」  といってから、竜生は照れたように彼女の顔を見る。 「それは……」  玲子は、うふふ、と微苦笑を返した。  ああやってこうやってもっとスマートに、などのベッドマナーよりも、腕を組んで歩く、そういったさりげないことに竜生の空想は移りつつあった。  それは逆だ。ふつうの恋人たちがたどる道とは逆である。でも逆でもいいじゃないかと竜生は思う。 「じゃ、車を呼びますねえ」  竜生は上着のポケットから携帯電話をとり出した。  が、アンテナが立たない。 「やっぱり海の底だなあ」  竜生は人生で一番のジョークを飛ばしてから、その海の一部である木戸を開いて、そして窓を開けた。するとそこにも、一面に青色《ブルー》の冬の空が広がっている。 「うわっ、ちょうどいい天気ですよ」  竜生は上機嫌にはしゃいでいった。  良樹は、まさにおかかえ運転手然とした態度で、無口で銀座まで運んでくれた。そして一番の目抜き通りの角(ガラス面の筒状のビル・三愛《さんあい》の前)で、ふたりは車から降りた。  そこは、銀座四丁目交差点、というそうである。  車道も混んでいるが、歩道もかなりの人波だ。  竜生は、へー……とあたりを見渡してから、 「あれが有名な和光《わこう》ですよね。でも時計台って、あんな色だったんですね」 「ええ、わたしも最初来たときにそう思いました。淡いグリーンですよね。たしか、夜になるとあの色に光ったかしら」  信号が変わったので、ふたりは、そちらへと横断歩道を渡りはじめた。  竜生は歩きながら、ビルの上の大看板につい目がいってしまう。三越の隣は黄金色のキリンである。さらに右にふり返りつつ見ると、青色のJCBにつづいてその子の白顔が微笑んでいる。その大通りの奥の方には、赤いトウガラシらしき看板もあった。  ふたりは、そのまま和光の風格ある石壁にそって歩きながら、 「この三越って、こんなのなんですか?」  大通りをはさんで反対側にある縦線だけの建物を指さして、竜生はげせないふうにいう。 「あ、それはね桑名さん」  玲子は気づいて、 「本店と勘違いをなさってるんですよ。古めかしい方は日本橋にあって、たしか、この道を真っすぐに歩いていくと行けたかしら。ずいぶんと先だけど」 「あっ、別にあるのか。ふつうこれが本店だと思うよねえ」  多数のお上りさんが竜生同様、そう勘違いする。  和光の先には、家村木、の達筆な金字の看板をあげた小さな店があって、 「あ! 和風小物を売ってると思いきや、パン屋さんじゃないか」  それも多数の人が、一瞬そう思う。  その先は山野楽器だが、玲子はなぜか、そこだけ早足でとおりすぎようとする。につづいてミキモトの建物で、真珠玉でくるまれた大きなベルが吊るされてある。そして時節柄、銀座の街は、すっかりとクリスマス色でいろどられているのだ。  イブは彼女とすごそう、ふたりで真っ白な雪を見ながら……竜生は空想する。  ミキモトもそうだが、さらに何軒かおきに宝石を扱う店が並んでいて、つぎの横断歩道を渡ると、角には高級宝飾店のカルティエがあった。けど彼女は、とくにのぞいてみたいといった素ぶりは見せない。  そのあたりで、玲子は帽子をとって、ざっくりとした茶色革のバッグに仕舞った。  それは品があって、実にさりげないバッグだが、たぶん有名ブランドではないだろうと竜生は思う。彼女が今日着ているコートも、初日や二日目とおなじで、ボアのついた茶色のコートである。持ち物や服は厳選しているけど、やはり数はそう多くもっていそうにはない。それに貴金属類も、彼女はいっさいつけてきたことはない。 「あっ、あれかなあ……」  竜生は、それらしき噂の店を見つけて、いそいそと反対側の歩道へと渡る。  正面は製薬会社・三共の本社ビルだが、その並びの建物へと、彼女を誘った。  TIFFANY&CO.である。 「昔きれいなランプを作ってた、ティファニー、てのがいるんだけど?」 「聞いたことありますね」 「そいつは、ここの創設者のどら息子」  竜生はそういったことは知っている。  桑名の本家には、おそらく本物のティファニーがあるのだろう。  その宝飾店ティファニーの、半裸の男性像が時計をかかげもっている下の、ガラス扉をくぐりながら、 「では、ここはひとつ、オードリー・ヘプバーンになったつもりで」  竜生は、玲子にうながしていう。 「でも彼女は、ショーウィンドウから中をのぞいていただけなんですよ」 「なんか買わなかった? あの……相手のハンサムな男が」  それは自分だといわんばかりに竜生はいう。 「それはたしか、景品《おもちゃ》の指輪に、無理をいって刻印してもらうんですよ」 「そうだったっけ……」  その映画はホテルの部屋にはなかったので、竜生はうろ覚えなのである。  そして店内の一階のフロアをぐるーと一周したが、これは玲子さんに似合いそうですよ、と竜生が再々すすめても、きれいですね、と彼女はそういうだけで、ねだるような素ぶりは見せなかった。  竜生は少し気落ちしながら、そのティファニーを後にした。  隣は仕立て背広で有名な老舗《しにせ》の英國屋である。そして少し行った先にある信号で、ふたたび反対側の歩道へと渡る。  その正面には、青い楕円形の時計が印象的な、何だろうかと思って竜生が近寄っていくと、銀座ダイヤモンド白石、ずばりの宝石店だったのだが、 「時計がきれいだねえ」  とだけいって通りすぎた。  その種の店には、竜生はもう彼女は誘わない。  そして、そのまま街路樹がある縦の道に入った。  しばらく行くと、黄色い土壁のスターバックスコーヒー、すぐ隣がドトールコーヒー、その隣は洒落たジェラートの店が、立てつづけに並んでいる。 「あっ、これ柳なのかあ」  竜生は気づいていった。  もう葉が落ちていたので、街路樹は細い枝だけなのである。 「よくいわれる、銀座の柳ですよね」 「よく聞きますよね。でもそういわれると、さっきの大通りには、柳あったっけ?」 「さあ……どうだったかしら」  玲子も、ちょっと苦笑いしながら首をかしげる。 「なかなか虚をついてたでしょう。今の問いかけ」  竜生が自画自賛《じがじさん》ぎみにいうと、 「でしたら、わたしはなかった方に賭けます」  玲子は意地をはったふうにいう。 「うーんと、ぼくは柳はあった方に賭ける」  自身の記憶とは逆のことを竜生はいう。 「じゃあ、ぐるーと廻ってきてからの、お楽しみですね」  玲子は嬉しそうにいった。  竜生は、こんな些細なことで喜んでもらえるならと、内心もっと嬉しかった。  ふたりは、その街路樹の道を、ゆっくりと歩く。  十字路があって、その右手奥には、ぢ、の大看板がビルの上に見えていた。十字路を渡った角はブランドのバッグの店だが、彼女は顔はショーウィンドウに向けるけど、歩く足は止めない。その先の真っ黄色の小店で、竜生が立ち止まった。 「ここって、たぶん有名なチョコレート屋さんなんでしょう?」 「ええ、そのはずですね」 「だったら、玲子さんにチョコレートを」  プレゼントする、といえるほどのものじゃないので、竜生が語尾をにごしていうと、 「それが、わたしけっして嫌いじゃないんですけど、でーも……」  その彼女の表情と喋り方からいって、竜生は理解した。別の理由でダメなのであろう。  チョコレート屋のガラス面をまわり込むように見ていっていると、そのまま路地になっていて、奥に、白壁のお洒落っぽい店が見える。 「ここ行ってみましょうよ」  竜生がいって、ふたりは道から左へと進み入った。  そこは、要するに建物の裏路地で、奥の白壁も、とある飲食店の横っ壁が見えていたにすぎなかった。  ところが!  右手側に目を転じてみると異様な景観が、 「うわっ、なんだこれー」 「あらあ……」  見て玲子も唖然と立ちつくしてしまうほどの、 「これさ、このまま写真撮って、どこか……たとえば沖縄の、海辺に立っているポロっちい海の家だといって、皆だませるよね」 「きっと信じちゃいますね」  そんな、野ざらし雨ざらし百年間といった感じの、木造と土壁の二階|家《や》が並んで立っているのである。  船の浮輪や、南国のシュロの木などの鉢も置かれ、その木造の方は倉庫っぽく、古びた一本脚の椅子がたくさん積まれている。 「それでこれ、看板が何個かあがってるんだから、店やってんだよね」 「バーみたいですね」 「じゃ、夜に寄ってみる?」 「…………」  玲子は笑っているだけだ。  そのように自然に笑っている彼女を見ていると、竜生はこころが和《なご》んだ。  ふたりが、海の家から道へ出ると、そこは柳ではない別の街路樹がある道であった。  玲子はあたりをきょろきょろと見廻しながら、 「わたしもうわからなくなっちゃいましたよ」  ……心細そうにいう。 「え? 道案内をしてくれるはずの人が」  竜生は、わざとに驚いた顔を向ける。 「だって、わたしもこちらに出てきて、まだ三年もたってないんですから」  それを聞いてはじめて、竜生は彼女の歳《とし》がわかった。誕生日をすぎていれば二十一、すぎていなければ二十《はたち》、でもその歳にしては大人だよなあ、そんなことも思いながら、 「大丈夫ですよ。こっち行きましょう」  お気楽に方向を決めて、歩き出した。  そこは両側にさまざまなブティックが軒《のき》を連ねている通りである。車道はコインパーキングになっていて、走ってくる車も少ないから、人は右へ左へと、自由に行ったり来たりできるのだ。  だがふたりは、とくに彼女がブティックには入ろうとはしないから、片側の歩道をゆっくりと歩いていく。  しばらく行くと大きな十字路に出た。信号はないが、そこを渡って、そのまま真っすぐに進む。どこか行き止まりのようにも感じられる道だが、前方にビルが立っているせいだろうか。屋上には青い時計の大看板がのっていて、PATEK……そんなローマ字が見えた。それは高速道路をこえた向こう側にあるようだが。相変わらずブティックが軒を連ねていて、煉瓦《れんが》タイルのよく整備された歩道だけど、人はほとんど歩いていない。 「あっ、いいもん見っけましたよ」  竜生はいって、朱色をした枠囲いへ近寄っていく。  そこは民家の軒下にあるような小さな神社で、かかっている額を竜生は見上げながら、 「うーんなんて読むのかな、幸《さいわい》……稲荷《いなり》神社かな。どっちにしてもいい名前ですよね」 「ええ」  玲子は、顔には出すまいとうなずいた。  その社《やしろ》は監獄のような檻《おり》で囲われてあって、鳥居《とりい》も何もかもが、きたない朱色に見えたからだった。  竜生が小銭を投げ入れて拝みはじめたので、玲子もお付き合いでそうしてから、 「……桑名さんって、神さまは信じてられるんですか?」 「まあ、そこそこにはね」  ぐらいしか竜生には答えられないが、 「じゃ、玲子さんは、神さまは?」 「うーん……」  玲子は伏し目がちになって、 「信じてない」  小声だがきっぱりといった。  竜生は、コートのポケットに両手をつっ込んで少し考えてから、 「こう魔法のように願い事をかなえてくれる神さま、そんなのはいないとぼくも思う。けど、人に助言を与えてくれるような神さま、ああした方がいいよ、こうした方がいいよって。その声に耳をかたむけていると……幸《さいわ》いになれるかもしれない」  額を指さしていう。 「その声って、聞こえてくるんですか?」  玲子は真顔で問いかけてくる。 「ここじゃ無理だと思う。でもそのうちに、いつかきっと聞こえてきますから、……玲子さんにも」  竜生はそれだけいうのが精一杯で、彼女は、かすかにうなずいた。 「あ! こんなところにも路地があるじゃないか。路地裏探検隊としては、行ってみないと」  竜生はことさらにはしゃいでいって、幸稲荷神社の角を曲がった。  そこは比較的まともな路地で、左側はこぎれいなビル、右側には和の居酒屋が二軒ほど並んでいる。とくに奥の方の、よしひろ、は洒落た木造りで、 「ここ、おでん屋さんなんですね」  看板にそうも書いてあり、 「名古屋のおでんは、あの濃いい味噌に、ドボ、とつけちゃうから、皆から嫌われるんだけど」  強調して、竜生はいう。  玲子も笑顔を見せながら、 「そろそろおでんの季節ですよね。それにこのお店、たぶん有名なお店ですよ。こんなところにあるなんて、わたしも知らなかったですけど」 「路地は入ってみるもんですね。やっぱり」  竜生は独り合点《がてん》してうなずいた。  その路地から出ると、ほぼ正面に、どこかの王宮を思わせるような豪華な石造りの建物があって、二階建でそう大きくはないけど、何だろうかと思って竜生が近づいていくと、建物のわりにはショーウィンドウは小さく、そこには艶やかな金属製の仏像が置かれてあって、その首には…… 「あっ、こういう店って、だいたいが宝石屋さんなのか」  竜生は、だまされた気分でいう。 「でもここのディスプレイって、きれいですよね」  玲子はディスプレイを褒《ほ》めていい、 「わたしこういった仕事をやっている人から聞いたことあるんですけど、女性が、というより、男の人がついつい引き寄せられちゃう、そんなふうに作ってあるんですって」 「あっ——」  竜生は大口をあけてから、 「そうか、賢いなあ。それにまんまと引っかかってるわけだな、ぼくは」  そして笑いながら見上げていっていると、ぢ、の大看板がすぐそこにあった。 「今ふと思ったけど」  竜生はいう。 「この道を真っすぐに行くと、右斜め前に、あの黄色いチョコレート屋さんがある」 「……ええ?」  やや間があってから、玲子は信じられないといった顔で、 「わたし、この道そのものを知らないですよ。このお店だって、生まれてはじめて見たんですから」 「じゃ、ぼくの勘が当たってるかどうか、行ってみましょう」  ここは車道と歩道の区別がない細い道で、ふたりが歩くのは、もちろん初めてである。  そこを急ぎ足で行ってみると、柳の街路樹がある道との十字路に出て、その右斜め前には、 「あら……」 「ほらね、あったでしょう」 「桑名さん。銀座は初めてじゃないんでしょう」  玲子は、とがめるようにいう。 「いや、ほんとに初めてですって。御神に誓って」  竜生はちょっと口がすべる。 「だったら、どうしてわかったんですか?」 「それはたぶん……」  竜生は後ろをふり返りながら、 「たとえばね、あそこに、ぢ、という大きな看板があるでしょう。ああいったのを注意して見てるんですよ」 「すると、地図を頭の中に描くんですか?」 「そんなめんどくさいことはしない。けど、すると、なんとなくわかるんですよ」 「えー、そんな便利なあ」  玲子は立ったままで、身を少し揺らしてから、 「わたしいっつも道に迷うんですよ。自慢じゃありませんけど」 「大丈夫、ぼくと一緒にいるかぎりは、もう道に迷ったりはしませんから」  竜生が、深い意味も込めていったようだけど、 「あ、そうそう」  玲子は別のことを思い出して、 「わたしがさっき迷ったといった場所は、たぶん、銀座で一番有名な、並木通りですね」  いってみずからで笑ったので、誰かさんの深い意味はかき消されてしまった。  ふたりは、その並木通りにいったん戻って、逆の方向(銀座の中心)へと歩いていく。  つぎの十字路の右側は、かなり巨大な建物のプランタン銀座である。  その別館へと、道をこえて渡っている丸い空中の通路を見ながら、竜生は真顔でたずねる。 「ここ何駅があるの?」 「……駅はないはずです」  玲子は笑いをこらえながら答えた。でも顔は笑っている。理由はどうであれ、彼女の笑顔を見られれば竜生は幸せだ。  そんなふうにして、ずー……と歩いていくと、大通りに出た。 「一番最初の、ちょい隣ですねえ」  竜生ほどの記憶術がなくても、まあそれはわかる。 「そうそう、たしかこのあたりに、面白いお店があるんですよ」  といいつつも、玲子は覚束《おぼつか》なさそうで、歩道の人波ごしに右と左をすかし見してから、 「うん、たぶんこっち」  と左の方へと竜生を案内していく。  つまりそれは和光の方向であるが。  すると、少し行った先に、ビルの横壁から金縁《きんぶち》の丸時計がつき出ていて、玲子がそれを指さした。 「あの時計ですよ」 「うん? 時計屋さん? あっ、天賞堂《てんしょうどう》かあ」  精密模型では世界一といわれている名店である。 「男の人って、みんな好きですよね」 「もちろん、大好き大好き」  竜生は、そこの製品は趣味とはいえないけど彼女がわざわざ探してくれたので、何度もうなずいた。  ガラス扉をくぐって、その天賞堂に入った。 「あれ? 鉄道模型だけだと思ってたけど、いろんなの作ってるんですねえ」  入ってすぐ左のガラスケースには飛行機の模型が陳列されていた。奥のケースは、かなり大きいサイズの鉄道模型である。が、その先は階段だ。要するに二階以上が店で、一階は通路を利用したわずかなショースペースなのである。店員もいない。 「うわ! これは欲しい——」  右側にある小窓のショーケースを見るや、竜生がうなり声を発した。 「いいのありました?」  玲子が顔を寄せてくる。 「これ、知ってます?」 「たしかサンダーバードですよね」 「玲子さん、こんな古いのよく知ってますね」 「ひととーりはね」  とリズミカルに彼女はいう。 「でも、これは欲しい——」  竜生は再度うなってから、 「天賞堂が、まさかサンダーバードを作っていたとは、けど1号、2号、4号、そしてペネロープ号はすでに完売だってー」  いかにも悔しそうにいう。 「これは3号ですよね。でも限定一〇〇、残りわずかって書いてありますよ」  玲子は、さも唆《そそのか》していう。 「ペネロープ号は、なんと、限定五〇になってる。こんなの買えっこない——」  竜生は怒る。にぎり拳《こぶし》で手の平を叩いて。 「たしかピンク色の車ですよね。あの黒柳徹子さんが声優をされていた、女性が乗ってた」 「あれが一番の人気なんですよ。でも天賞堂は鉄道模型を作ってると、ぼくは信じきってたのにー」  竜生は妙ないちゃもんをつける。 「でもこの3号も、見れば見るほどに、すばらしい出来じゃないですか」 「さすがは、天賞堂だよなあ」  竜生は憧憬《どうけい》のまなざしで、ため息まじりにいった。  もちろん、お値段の方も破格である。  ふたりは、その無人のショースペースで、しばらく話をする。ときおり客が通りすぎるけど、平日だから少ないし、それに日本一の雑踏から奇妙に隔離されていて、話しやすいのである。 「あのね、ぼくの知り合いにハマダさんといって、鉄道模型を作ってる人がいるんですよ。それは趣味じゃなくって、まあ趣味もかねてるけど、会社の社長さんね。で新製品が出るたびに、もってきてくれるんですよ」 「あ、それで趣味になったんですね」 「ところが、趣味じゃないんですよ。なぜだかというと、兄貴が全部パクってしまうから」 「はっははは……」  玲子も声をだして大笑いする。 「で、今ふとひらめいたんだけど、そのハマダ社長さんに頼んでみようかなあーて」 「……なにをですか?」 「だからね、あのペネロープ号を作ってって」 「はっははは……」  玲子は、また笑う。 「ところで、玲子さんは、こんなの趣味じゃないですよね?」 「……ええ」  玲子は笑顔のままでうなずく。 「じゃ、なぜここを知ってたんですか?」  竜生はためらいがちにたずねる。 「だって、それは通りを歩いていると時計が見えるでしょう。あら何かしらと思って見てみると、模型屋さんだから、わかるじゃないですか」 「あっ、あの時計でねえ」  竜生はうなずいてから、 「じゃあ、ぼくが思わず引き寄せられていっちゃった仏像の宝石店と、逆パターンなのかな」 「……そうかしら?」  玲子は小首をかしげる。 「いやね、こういったところだから、きっと彼氏とでも来たんじゃないかなあ、とそんなふうに思ったりもしたので……」  竜生は、そう深い意味はなくって、聞いてみたく思ったのだ。  玲子はしばらく微笑んでから、 「わたしね、東京に来てからは、彼氏はつくってないんですよ」  ……意外なことをいった。  竜生は、へー、とただ驚いた表情をしながらも、その理由はわかるような気がして、たずねなかった。  じゃ、ぼくが最初の彼氏だね。  そんな悪い冗談は、口が裂けても竜生はいわない。 「ごめんね、変な話ふっちゃって」 「いえいえ……」  玲子は、胸の前で手をふって微笑んだ。  それは彼女がよくする仕草で、お祓《はら》いでもしているかのようだと、竜生は思ったりもする。  ふたりは、けっきょく天賞堂の売り場にはいかず、二階以上は大半が鉄道模型で竜生の趣味ではないことがバレてしまったので、店を後にした。  そして大通りを渡って、やはり並木通りを真っすぐに歩いていく。  するとすぐに、三笠会館、なる建物はあったけど、竜生が意とするような雰囲気ではなかったので、さらに少し行ってみると、コーヒー&ティー五百円の白墨《チョーク》書きの立看《たてかん》を歩道に出していた、ケテル、というカフェがあって、ふたりはその店に入った。  もうずいぶんと歩き廻ってきたし、それに天賞堂では立ち尽くしてもいたから、休憩は必要だ。  そこはありふれた喫茶店だけど、室内がそう明るくはなく、通行人からも見られない、それが竜生が選択した理由である。彼女を気遣ってのことだが。  すみっこが空いていたので、そこに席をとって、ふたりは立看にあったコーヒーを注文した。  玲子は席を立って、その間にコーヒーが運ばれ、そして戻ってきた彼女はなぜだか満面の笑顔でいう。 「さっきの3号、どうして買われなかったんですか?」 「気になってた?」 「そりゃ気になりますよ。あれだけ喜んでいたくせに」 「うーん、ちょっとした理由《わけ》があって」  竜生はぽりぽりと頭をかきながら、 「実は、3号は人気ないんですよ。あれは宇宙専用で、5号の宇宙ステーションへの往復ぐらいにしか使わなくって、大した活躍してないんです」 「たしか、サンダーバードって、救助隊ですよね」  竜生はうなずく。 「すると、宇宙で誰かを救助する、そういった脚本が、作りづらかったのかもしれませんね」  玲子は、かなり専門的なことをいう。 「まさにそういうことでしょうね。それに、宇宙人は出てきませんからね。出してれば、もうちょっとは話を広げられたんでしょうけど。それに話の数も、意外と少ないんですよ。つまり打ち切られちゃったんですね。それに3号のようなロケットは、まったく現実に存在しているから、ぜんぜん面白くない」  竜生は、マニアの心情を吐露《とろ》していい、 「けど、玲子さんって、どうしてこんなことに詳しいんですか? 古い映画もそうだけど」 「それには、ちょっとした秘密が……」  玲子は楽しそうな表情でいう。 「実家の旅館で、倉庫に使っていた古い建物があって、それが道に面していたから、レンタルビデオ屋さんに貸したんですよ」 「あっ!」  竜生は事情を理解した。 「じゃあ、ただ?」 「そう、ただで借してくれたんです。もちろん、営業には影響のないものをですけれどね。だから古い映画は、借りる人ってそうそういないから、もう観放題だったんです」 「それって、けっこう優雅だなあ。自分ん家《ち》の庭に、いわば映画の図書館が立っているようなもの」 「そう、わたしの部屋から、歩いて三十秒……」  そういってから玲子は、遠くを見るような目つきになって、そして沈黙する。  竜生は困惑した。たぶん実家のことを想っているにちがいなく、あの手の話は、もう彼女にはさせたくなかったからだ。何か別の話題を、 「ごめんなさい。心配事が浮かんじゃって」  玲子が先に口をひらいた。 「そこの店長さんだけど、三年ほど前に、古いのをとり壊して、新しい建物を建てられたんですよ。自分のお金で。だからどうなるのかしらって……」 「それはね、借り主の方が強くって、保護されます。立ち退《の》きなんて、ならないはずです」  竜生は、明瞭な口調でいった。 「だといいんですけどね。その店長さん、わたしが子供のころから知っている地元の人で、とってもよくしてくれた人だから……」 「まあ、最初は建物《うわもの》を借りる契約でしょう。それを自力で建て直すときに、土地の契約にきり替えます。それがふつうですから、大丈夫だと思いますよ」 「でもそれらをすべて、あの義父がやってたんですよ。あーいいよいいよって、何でも口約束しちゃう人なんですよ。だから余計に心配で」 「ふうん」  竜生も、それ以上の助言はできそうにない。 「そうそう、昨日《きのう》、母から電話があったんですよ」  玲子が話題をきり替えていう。 「おかあさんから……」 「それがね、実家の方は大丈夫だから、心配しなくていいよ、てそんな電話で」  玲子は、ことのほか嬉しそうにいい、 「わたし、高校生の弟がいるんですね。その弟がバイトを始めたって。学校もやめずに通うって。それに母は、こんな仕事があるなんてわたし知らなかったんですけど、雇われ女将《おかみ》」  そういって、竜生の顔を見る。 「いや、ぼくもよくは知らないです」 「その雇われ女将で、別の旅館に入ることがほぼ決まったからって。それに給料もいいらしくって。それに、まだ家にも住んでるんですね」 「それはまあ、競売《けいばい》にかけられるにしても、ちょっとは余裕ありますから」 「なので、安心してね、てそんな電話で」  玲子は、心底、安堵《あんど》しているような明るい表情でいった。  そのことをわざわざ話したのは、心配は無用ですよ、と自分にいっているようにも竜生には聞こえた。  ——けど、 「つかぬことを聞くけど、おかあさんは、あなたが連帯保証の借金を負ってることは、知らないの?」  竜生は、自身の禁を破っていった。 「それは……たぶん知らないと思います。銀行が話してなければ、母は知らないはずです。わたしのアパートに銀行の人が来たのも、義父を探すためだと、そんなふうに思っていたようですから」 「えー……」  それは竜生としては釈然としない。 「銀行って、いわないもんなんですかね」  ……あっ、個人が負っている借金だから、他の人には守秘義務でいえないか。でも竜生としては納得いかない。 「どうして、おかあさんにいわないの?」 「だって……教えても、母が悲しむだけでしょう。それにいったからといって、どうにかなるものでもないですし。だから、わたしはいわない」  玲子の芯の強い言葉を聞いて、竜生はうなだれてしまった。そんな彼女を金で束縛している自分が、最低の人間に思えてきたからだ。  ふたりは、そのカフェを出た。  しばらくは並木通りを行ったが、竜生の足取りが重たくなったのを察してか、 「桑名さんが一緒だから、もう道には迷わないから、あちこちで曲がりましょう」  そう玲子が誘って、つぎの角を曲がった。  そんなふうに何度か曲がっていると、とある大通りに出た。 「あれえ……」  竜生の頭の羅針盤《らしんばん》まで狂ったらしく、 「最初の銀座の大通りとは、明らかにちがってますよね。いかにも殺風景で、それに見覚えのある看板が……ひとつもない」  左は電通ビルで、右は丸源15ビルである。このあたりにはそこかしこに丸源ビルがある。 「わたしここは知ってますよ。外堀通りといって、銀座との境界線ですね。それにこっちに行くと」  玲子は左の方を指さしながら、 「そんなにかからなくって、新橋駅があります」 「あー、あの汽笛が鳴る……」  竜生も、頑張って面白いことをいおうとする。 「ええ、そこは駅の広場に、蒸気機関車が置いてあるんですよ」 「へー、でもそれは兄貴の趣味だからなあ」  竜生は頑張って、すねる。 「どんなおにいさんなんですか?」 「うーんひと言でいうと、やんちゃボウズ——」  鬱積《うっせき》していたものでも吐き出すかのように竜生はいって、玲子がひさかたぶりに笑った。  やっぱり、笑いと笑顔、竜生は自身にそういいきかせた。  ふたりは踵《きびす》を返して、縦の道を歩きはじめた。  すると二ブロックほど行った先に、 「これ、ほんもの?」  竜生ならずとも思わずたずねたくなるほどの、 「ニセモノじゃないと思いますよ」 「超どぎついなあ、もう名古屋も道頓堀も真っ青」  そんな外装のルイ・ヴィトン店があった。  あそこでオモチャ買って、と指さす子供が多数いるとかいないとか。  そんなふうに、真っすぐに歩いていくと、銀座の大通り(中央通り)に出た。  もっとも、途中で何度か右に曲がりかけたりもしたが、その先は小さな雑居ビルがひしめきあっている夜の飲み屋街で、大半シャッターが降りていた。  そしてふたりは、歩道を右から左へとずー……とながめ廻してから、 「やっぱり、柳ありませんでしたね」  玲子が嬉しそうにいった。 「もっともっと向こうまで戻ったらー」  竜生は、未練っぽくいう。 「でもこれだけ長い道だから、どこかに一本ぐらいは立ってるかもしれませんよね」 「かつて幽霊が出たとかいう、いわくありそうな柳の大木が、柵に囲まれて」  竜生はまったくの空想話をいい、 「でも賭けはぼくの負けだから、えー、夕食をごちそうしますね。玲子さんの食べたいものを」 「はい、ごちそうになります」  玲子はこくりとうなずいていった。  まあ、夕食を奢《おご》ることは最初から決まっていたことだけど、これも恋人たちのひとつの儀式。そうであって欲しいなと竜生は思う。  歩道は石畳で、道ゆく人もそう多くなく、四丁目交差点あたりと比べると、ゆったりとした感じだ。  そこをわずか先に行ったところに、ガラス面の真新しい細いビルがあって、その入口付近の美しさにつられて竜生が近寄っていく。そこのショーウィンドウは平台で、クリスマスツリーが置かれ、どこか重たそうなツリー飾りがぶら下がっていて、人形が数個、ツリーの根っこに置かれている。  それらを穴のあくほど竜生は凝視《みつ》めてから、 「うん、ここはたぶん宝石屋じゃない」  そう結論を出した。  ——LIADRO ※[#Oはアキュートアクセント付き]。  そんな看板をあげている店である。  ふたりがそこに入ってみると、カウンターにいた受付の女性が、すっとこちら側に出てくるや、 「ただ今五階のフロアは××先生の講演中でして、エレベーターで四階まで行かれまして、階段で降りてこられますのが、よろしいかと思います」  エレベーターはすぐ先にあるというのに、その前までわざわざ案内してくれた。  まあなんと丁重な店だろうかと、ふたりは感動しながら、そのエレベーターの中で、 「リアドロ、リアドロ、リアドロ……聞いたことあるんだけどなあ、いったい何屋さんだったっけえ」  わからずに入っているのである。ふたりして[#「ふたりして」に傍点]。 「あの何百年も作っている、教会の写真が飾ってありましたよね。あれはスペインですよね」 「ガウディさんですよね。それにリアドロって、いや、正しくは、リヤドロかなあ。どっちにしても、スペインっぽい名前ですよね」  国籍だけが判明したぐらいで、エレベーターの扉が開いた。  そう広くはない細長いショースペースで、作品がずらーと陳列されている。 「あっ、思い出した。人形だけを専門に作っているセトモノ屋さんですよ」  もうすでに見えている。 「うわあ……すてきですねえ」  玲子が、目を輝かせていった。  天賞堂のときとは逆だなと竜生は思う。  少女ふたりが花束をもっていたり、結婚式での男女の愛の誓いのシーンや、馬三頭犬多数での狐狩りの瞬間や、また神話をモチーフにしたものも多く、髪の毛を海のようにうねらせながら法螺貝《ほらがい》を吹いている女性や、人魚やら天使やらユニコーンやら、大小さまざまな陶磁器の作品があって、玲子は、それらひとつひとつを丹念に見ていく。  左側のガラス窓のショーケースには、いわゆる作家物が陳列され、そのいずれもが手の平にのるぐらいの小品だ。金色と肌色のほぼ二色で彩られた天使とか妖精の像である。  あっち側は現実、こっちの左側はやや非現実、ぼくはこっち側にひかれるなあ、なんて竜生は思ったりもする。  ふたりは階段で三階へと降りた。  同様に見て廻ってから二階へと降りた。 「なんか、ほっとしません?」  竜生がたずねると、 「わたしも、ほっとしました」  玲子も微笑みながらいう。 「上にあったのは六桁目白押しだったけど、このへんになってくると、手でなぜなぜしても大丈夫、て感じですよね」  二、三万の品もあるのである。  ——ところが、  階段からは一番奥になる窓の手前に置かれてあったそれを見て、竜生は驚愕《きょうがく》する。 「す、すごい……そのへんのの百個分だ」  それは、シンデレラ・王宮への一歩、と題されている大作で、百×五十センチぐらいの地面の上に、人や城や馬車やさまざまなものがのっている、いわば陶磁器だけで作ったジオラマだ。  四頭の白馬にひかれたカボチャの馬車が今さっき、城の前に到着した、そんなシーンである。 「シンデレラが、馬車から降りようとしてますよ」  玲子が指さしていう。 「片足出してますもんね。そうそう、このシンデレラが、玲子さんでしょう。その横の地面にいる、膝をついて手をさしのべている男が、ぼく」 「…………」  玲子はちょっと考えてから、 「だって、このとき王子さまは、お城の中にいたんじゃないかしら」 「あ、まちがいまちがい、こいつは単に駐車係の男だ」  竜生は本日一番のずっこけを演じる。  駐車係の男、というより、城の下僕であろうか。 「わたしね、このシンデレラの物語を知って以来、ずーと疑問に思っていることが、ひとつあるんですよ」 「どんなことですか?」 「それは、あのガラスの靴ですけど、シンデレラが着ていた服も何もかも、カボチャの馬車も、すべて魔法がとけて消えてしまうのに、どうしてあのガラスの靴だけ、あのままなんですか?」 「まあ、いわれてみれば……」 「変でしょう。これは子供のころからのずーと疑問で、今でも疑問」  いってから玲子は、それは楽しいことであるかのように微笑んだ。 「うーん……」  竜生は両手をポケットにつっ込んで考えながら、 「物語では、そのガラスの靴を、国じゅうの女の子にためしてみたんですよね」 「ええ」 「それで誰ひとりとして合わなかったというんだから、よっぽど変な形してるんですよ。彼女の足は」  玲子は怒った目でニラみながら、くすくすと笑う。 「でね、そのことを、魔法使いのおばあさんは知ってたんだ」  厳密にいうと、それは老婆の姿をした妖精だが。 「知ってたから、彼女を見つけてもらうには、もう靴しかない、と考えた。けど革靴だったりすると、みんな無理してはいちゃうから、形の変わらないガラスの靴。そんなふうに作戦を練ったんですね」 「作戦? なんですか?」 「そう、これはすべて魔法使いおばあさんの作戦なの。それにガラスの靴なんて、あんなの十中八九、脱げちゃいそうでしょう。それにシンデレラの性格からいって、魔法がとける時間ぎりぎりまで踊っているにちがいない。そして階段を駆け降りるだろう。そのときに脱げるにちがない。魔法使いのおばあさんが思い描いたとおりに、事は運んだ。だからガラスの靴には、時間がきても魔法はとけないという、別の魔法をかけてあった……というのはどう?」  玲子は、しばらく微笑みつづけてから、うなずいた。  もう片側を見ていなかったので、そちらの前をゆっくりと進んでいっていると、竜生の空想《ゆめ》が、ふとかなった。  玲子が腕をすっと組んでくれたからだ。  そのときの彼こそ、至上の幸せ、そんな顔をしていたにちがない。  LIADRO ※[#Oはアキュートアクセント付き]から出てすぐ前の歩道で、竜生は立ち止まって、腕時計に目をやった。  五時前である。八時には屋敷に戻る、から逆算すると、そろそろ夕食の場所を決めなければ、などと竜生が考えていると、玲子がのぞき込んできて、 「……その時計、あのパテック フィリップですね」 「うん? そんな名前なの」  竜生は文字盤をまじまじと見ながら、 「……ほんとだ、書いてあるね」 「桑名さん、それご存じなくって、してられるんですか?」  玲子は、信じられないといった、笑顔でいう。 「いやね、これ親父からの誕生日祝いだったの。で忘れてたのね。それが最近ふと出てきて」  実は成人の祝いで、探したら出てきたのだが、 「まあ、たまにはしてやろうかなーと思って。でも巻かなきゃいけないから、いちいちめんどうで」 「そういう高級時計は、動かさないとダメになるそうですよ。なんでも、油がかたまるらしくって」 「へーそうなのか。あっ、たしか看板あったなあ。あのおでん屋さんを探すのにちょうどいい看板」  竜生は、その手のことには勘は働くようだが、 「でも、これ高級時計なの?」  玲子はしばし沈黙してから、 「それは、世界一だといわれている時計みたいですよ」  小声で諭《さと》すようにささやいた。 「ええ? これがあ? ごくふつうの文字盤で、何の飾りっけもないじゃない」 「たぶん、それがいいんだと思います。そっけないデザインだから、いいんですって」 「へー、そんなことぜんぜん、思ってもみなかったなあ」  と、そんなふうに、ふたりが石畳の歩道で立ち話をしていたときのことである。  竜生が、腕時計からふと目を転じると、二、三歩斜め前に、表現のしようがない妙な服を着て広帽子をかぶった女性が、いや、女子が立っていて、こちらを凝視《ぎょうし》している目に気づいた。 「あ! こんなところで——」  竜生は思わず声を発した。  が、その女子は、竜生などはまったく眼中にないようで、玲子の方へと歩《あゆ》んで、 「あのう、あなたはもしかして、あのときの」  と声をかけたかと思いきや、 「あっ、ごめんなさーい」  顔をしわくちゃにして謝って頭を下げ、そして、ぴゅーと一目散に走り逃げていってしまった。 「ええ? 玲子さん、お知り合い?」  竜生は心底驚いていう。 「いいえ」  玲子は大きく手をふって否定し、 「桑名さんこそ、お知り合いのようでしたけど?」 「いや、知り合いは知り合いなんだけど……」  先の彼女は御神がよく連れてくる女子で、希美佳さんが屋敷に不在などの場合は、竜生がおやつを届けてやる間柄なのだ(陰は顔を出せないので)。もちろん会話をかわしたことは何度もある。 「そのくせに、ぼくのこと完璧に無視しやがって」  竜生は不貞腐《ふてくさ》れぎみに怒る。 「でも、どうしてわたしに声をかけてきたんでしょうか?」 「いや、あの娘《こ》は極端な子だから何考えてんのやら、あんな妙ちくりんな服を着てたけど、満点娘さんという異名をもっているぐらいで」 「満天娘さん……?」  玲子が思い描いたイメージは少しちがっているようだが。 「某有名進学校で、成績ダントツの一位なの」 「えー、わたし顔を見た瞬間、すぐにでもアイドルで売れちゃいそうな気がしましたけど」 「そりゃ可愛い娘《こ》なんだけど、それはそれは、鼻っ柱の強いこと強いこと……」  夕食は、玲子が和食をと希望《リクエスト》し、あのおでん屋さんも候補に挙がったのだけど、銀座のほぼ反対側にいたので、ならばと近くにあったお寿司屋さんに入った。入口付近に相応の雰囲気があること、暖簾《のれん》がきれいなこと、そして値札などが出ていないこと、などが竜生がその店を選択した基準である。場所が場所だから、それらをクリアしていれば、そう不味《まず》いものは食わすまいと竜生は考えたのだ。まあ、それはほぼ正解のようであったが。  そして映画のことや、ペネロープ号の話などに花を咲かせながら、ふたりは楽しいひとときをすごした。  玲子の自宅は、京王井《けいおうい》の頭《かしら》線の池《いけ》ノ上《うえ》、とのことだったので、車のナビを頼りに送っていった。  けど、その池ノ上からは、歩いて五分で下北沢だそうで、それを聞いて竜生は驚いた。あの先生のすぐそばに住んでいたからだ。なんでも、下北沢には人気が集中し、ちょっとズラさないとふつう住めないとのこと。してみると、先生よく住んでるなとも竜生は思った。  彼女の自宅が見える真ん前まで、車を横づけした。そこはアパートとマンションの中間ぐらいの三階建で、そこそこの部屋に住んでいるらしいことを知って、竜生はちょっと安堵した。  良樹が車から降りて後部ドアをうやうやしく開けたが、玲子は、座席で竜生の方に向きなおって、 「桑名さん、今日はありがとうございました。とっても楽しかったです」  顔いっぱいに謝意をあらわしていったが、今日の彼女は、頭は下げなかった。 「ぼくも楽しかった」 「わたしもです」 [#改ページ]  13  あずさ、という店は、竜生と玲子のふたりが歩かなかったあたりにある。  シンプルな名前だけの看板をあげていて、やや古びた五階建のビルの最上階に入っている。  あずさ、はママ(経営者)の名前でもある。独特な魅力のある彼女が、そこに店を構えて、二十五年という節目の年をまもなく迎えるから、銀座のその界隈《かいわい》でも古参の店のひとつだ。もっとも、改装は何度かしているので、店内に古びた感じはない。  重厚な木の扉をくぐると、帳場につづいて、右側に英国風の木のカウンター・バーがある。中に入っているバーテンダーは、タキシードふうの背広に蝶ネクタイで、五十がらみの品のある男性だ。梶本《かじもと》という名前だが、従業員や顔なじみの客からは、カジさんと呼ばれ、店の主任《チーフ》も任されている。  そのカウンター・バーは、十席ほどあるが、客はほとんど座らない。従業員の女性たちも控室《ひかえしつ》があって屯《たむろ》しないので、要するに、店の景色である。  客の座る椅子は、菓子のバームクーヘンを切ったような形の、深紅色をした豪華な革張りで、扇状になったそれが、八マスほど作られている(椅子の形から変更は自由)。だから店内も、そこそこに広い。  乳白色をした楕円形のテーブルはガラス製だが、各々の上には、洒落た切り花と、そしてブランデーグラスに入ったロウソクの明かりが揺らいでいる。  店の女性たちは、多いときでママとチーママを入れて十数人、少なくても八人はいる。もちろん高級クラブで、客ひとり座っただけで、最低一万円は飛ぶ。けれど、客ひとりに女性たちがわーと寄って集《たか》る、そういった下品な店ではない。  客の大半はママの魅力で来ているので、女性たちにもノルマなどはなく、夜のバイトはこの店が初めてといった、ウブな二十代の女性ばかりを採用している。だからピチピチはしているがギラギラしたところはない店で、カップルで来てもよし、女性だけの客も、ちらほらといる。  店内はそれなりに薄暗い。  が、カウンター・バーの反対側の壁あたりにだけ、ほのかにスポットライトがあてられている。  そこには、赤茶色をした木目調のグランドピアノが置かれてあるからだが、それはこの店を特徴づけている売りのひとつでもある。  ピアノ弾きは三人いて、内ふたりは現役の音大の女子大生。そしてもうひとりは、他の男性である。  その彼は、店ではママにつぐ古株で、本名を知っているのもママだけで、店ではリュウちゃん(もしくはリュウさん)と呼ばれている。  そのリュウちゃんは、最近は平日に弾いていることが多い。それは彼に、ファンの女性客がついているからで、だから客足が少なそうな日を選んで彼を入れれば、店はそれなりに潤うのだ。それに社用系の男性客が多そうな混雑日は、ピアノ弾きも女子大生が好まれるのは当然だからである。  が、リュウちゃんは本業が別にあり、それに最近は野暮用にも忙殺されちゃって、せいぜい週に一日ぐらいしか入れない。  そして今日(木曜日)は、たまたまリュウちゃんの日なのである。  ピアノを弾くのは、夜の七時からで、三十分弾いて三十分休む……のくり返しだ。そして最後は十一時である(たまに十二時も弾くが、その場合はタクシー代込みでプラス一万円出る)。もっとも、弾く休むはけっこう臨機応変《アバウト》で、客が騒いでいれば、一時間ぐらい弾かないこともある。  ピアノの音が聞こえてくると、どうしてもシーンとなってしまい、さあそろそろ帰ろうかな、などと客に思われちゃえばダメだからである。できるだけ変な節目は作らない、それがコツだ。また逆に、店が妙に白けているときには、客を帰さないためにも、弾きまくるのが正解だ。それも情熱的に。  とそんなふうに、リュウちゃんが本日最初の七時のピアノを弾いていたときのこと——  夜もまだ浅いので、客はカップルがひと組、そしてリュウちゃんのファンらしき女性連れ、のふた組であった。ママも、店にはまだ来ていない。それに用のない女性たちは控室にいるから、店内は閑散とした雰囲気もする。が、ピアノを聴きに来ている人にとっては、この方がよいのであろうが。  ——ひとりだけの女性客が店に入って来て、カウンターのはしから三番目の席に座った。  そういったことはピアノを弾いていても見えるものなのである。それにリュウちゃん級《クラス》になると、鍵盤に目などくれてやらなくとも問題なく弾けるのだ。  けれど、その客は服装がかなり変わっていて、遠目には(それに薄暗いので)ルンペンか、ミノムシのようにも見える。  それに帽子を深くかぶっていて、カウンター椅子に座ってからも、とろうとはしない。  リュウちゃんは、手では華麗にピアノを奏《かな》でながらも、その女性客のことが気になってきた。  ……誰かとの待ち合わせかなあ……  それに、ときおりそうっとふり返っては、リュウちゃんの方をチラチラ見るのである。  ……あんなファンいたっけえ……  バーテンダーのカジさんが、何やら白っぽいカクテルを作って、その女性客の前に置いた。  それを飲んでいるのか、しばらくは背中を見せていたが、またこちらをチラチラ見はじめた。  ……変なメガネかけてるなあ……  両|端《はし》が異様にとがっていて、リュウちゃんが見立てるに、それはたぶん|五〇年代《フィフティーズ》のメガネであろう。  ぞくぞくっとリュウちゃんは悪い胸騒ぎがしてきて、一瞬、昔つき合っていた女の顔が浮かぶ。  ……時間は早いけどこの曲『いそしぎ』を最後にいったん切りあげよう。  そう思ったリュウちゃんは、さらにいっそう華麗に、ばらばらばらばらばらばらばら……と打ち寄せる波のような音を奏で、両手を使っての低音部から高音部への行ったり来たりを何度かくり返しておいてから、ふわ、と煙をかき消すかのようにやめた。  いつもそうと決めているわけではないが、リュウちゃんは、こんな終わらせ方をする場合が多い。  最後を重厚な和音でバーンと締めくくっちゃうと、ああ終わった、帰ろう、と客に思われてしまうからだ。だから、ふわっと肩透かしのように弾くのをやめると、少し待てば、また弾いてくれそうね、などと思ってくれたりもしそうだからである。  リュウちゃんは、いっぱしの心理学者でもあるのだ。  そしてピアノから離れるときも、彼は鍵盤の蓋《ふた》はおろさない。開けっぱなしにしておくと、すぐに戻ってきてくれそうな、そんな感じがするからである。  少数の客ではあるが、パチパチと拍手があった。  もちろんリュウちゃんにとっても、それは嬉しいことである。  そんなわけでもないが、彼は客席ふたマスに立ち寄って、それぞれにふた言み言のお愛想をする。それは当然のことで、ピアノ弾き、とはいっても孤高の演奏家じゃなく店の従業員のひとりであり、それこそ、お客さまは神さま、だからである。  そして、リュウちゃんは、カウンター・バーへと近寄っていく。ピアノの休憩中は、そこの壁ぎわのすみっこが彼の定席で、読書したりタバコを吹かしたりしているのだが、その女性客のことが気になって、彼女のひとつとんで隣の椅子に腰をおろした。  するとなぜか、彼に背中を向けたままで彼女が、真隣の椅子へと引っ越してくるではありませんか。  そして、とんがりメガネをはずしながらこちらに顔を向けるや、 「うふふ……」  そこには、謎の微笑をたたえた美女子が!  その彼女がかぶっている帽子を、さっと彼はかっさらい、 「なにがウフフだ——」 「あら、バレちゃったかしら」  まな美は、しなを作っていう。 「あたり前だ。おまえ何しに来てるんだ? ここをどこだと思ってるんだ? おまえいったい何飲んでるんだ? なんでそんな格好してるんだ? それにどうしてここを知ってるるるんだ? 質問事項が多すぎて口がまわらららないじゃないか……」  店だから囁《ささや》き声で怒鳴るってのは、リュウちゃんこと火鳥竜介にとっては異様に苦しい。 「まずこのカクテルだけど、アルコールは入ってないのね。さっきお願いして特別に作ってもらったの、ねえ、カジさん」 「な、なにがカジさんだ。なれなれしく呼ぶな。カジさん、名前教えちゃったの?」  竜介がカウンターの向こうで物静かに立っている梶本に問いかけると、彼はニコやかにうなずくだけ。カジさんは客の会話には、まず割り込んでこない。 「わたしがお聞きしたのよ。どうお呼びすればいいのって」 「そんなの、ふつう聞くもんじゃないんだ」 「だって滅多にこんなところ来ないでしょう。勝手がわからないんだもん」  まな美は、うそぶいていう。 「勝手はわからなくていいの、高校生の分際《ぶんざい》で」 「それにこの服、見て、何かこころに感じるものなあい?」  いいながらまな美は、その異様な重ね着の胸のあたりを、ちらっと開いて見せる。 「な、なにやってんだ」  竜介はややうろたえながら、 「それに、なんちゅう着こなしだ。まるでミノムシじゃないか」  近くで見れば、かろうじてルンペンではない。 「そりゃコートを三枚も着ていれば、そうなるわよ。これね、ママのクローゼットをあさって、彼女が若くて絶頂に美しかったころの服を、よりすぐって着てきたのね。だからこれを見てもらうと、元恋人だったおにいさんとしても、若かりしころの思い出を、彷彿《ほうふつ》とできるんじゃないかしらと思って」 「なっ——」  竜介は唖然呆然で、一瞬、氷のように凍りついてしまってから、 「なにをバカなこといってんだ」  ムッとしていう。 「これ悪気はないのよ。これからする話とちょっと関係があって、そのヒントみたいなものなのね」  まな美はしおらしくいってから、 「あのね、土門くんが以前にいってたでしょう。わたしは未来からきた未来人だって。でもその話に、訂正が入ったのよ」 「ちょっと待て。その前に、どうしてこの店を知ってるの? ぼくがここでピアノを弾いていること、誰に聞いたの?」 「それはね、いい人から……」  まな美は、うふふ、とまたもや謎の微笑をたたえる。 「いったい誰?」  そのことを知っているのは、竜介が考えるに、歴史部はもちろん知らない、大学関係者も絶対に知らない、アマノメ関係にもいってない、すると……埼玉県南警察署の依藤警部ぐらいしか思いあたらない。けど警部さんと妹(まな美)じゃ接点がないじゃないか? 「それについては、後から絶対に教えるから、わたしの順番で話させてぇ」  まな美は、可愛げに、体を揺すっていう。 「うーん……仕方ない」  その媚態に誑《たぶら》かされたわけじゃないが、竜介はつきあってやる。 「その訂正っていうのはね、わたしは、よく似た別の世界からきた、つまりパラレルワールドの住人だというのよ」 「パラレルワールド……」  竜介は、いかにも訝《いぶか》しげにいう。 「土門くんがいうには、ぱられるわーるどー」  まな美は彼の口真似をしていい、 「土門くんの頭の中って、たぶんカタカナは入ってないわよね」  竜介にもそんな感じはするが、 「けどパラレルワールドなんて、そんなものが現実にあるの」  竜介は疑問符はふらない。 「あるもないも、わたしがその証拠でしょう。それも、生き証人ってやつよ」  まな美は強調していい、 「そのパラレルワールドって、ほんのちょっとした分岐点で生じるらしいのね。だから、その分岐点の話なのよ」 「分岐点……」  竜介は、なおも訝しげにいってから、 「カジさん。ぼくにも何かノンアルコールのを作ってよ。ちょっと量は多い目で、それに精神の安定にいいやつ」 「その分岐点に関係してなんだけど」  まな美が、語りはじめた。 「わたしがこちらの世界に来た初日、おにいさんの研究室からの帰り、土門くんに家まで送ってもらったでしょう。すると土門くんは、ママなんか無視して、ずかずかとわたしの部屋に入ってきて、姫、家族あるばむの写真出してー、ていうのね」 「うん」  竜介はうなずいた。  それは、自身が彼に耳打ちして頼んだことだからである。もうそれぐらいしか手はないと思い。 「そして、アルバムの写真を見てみると、このパパが写っているはずのところに——」  まな美は竜介を指さしながら、 「全部おじいさんが写ってるじゃない。そんなのってあり! て死ぬほど驚いたわよ。このわたしの気持ちわかる? おにいさん絶対にわからないと思う。その当事者になってみないと」 「いや、まあ、そういわれればそうだなあ」  そんな体験ふつうできっこないので、竜介としても想像外であったことは認める。 「でどうなってるのよと土門くんを問い詰めたんだけど、そんなこと知ってるわけないわよね」 「うん」  彼もご苦労さんだったと、竜介は内心謝意をあらわす。 「もうこうなったら、ママから聞くしかないでしょう。どうして、あんなジジイと結婚したのかって。こんなこといいたくないんだけど、写真を見ても、それに実物とも毎日会ってるけど、やっぱりジジイとしか思えないのよ」  まな美は顔をしわくちゃにしていう。 「まあ、たしかにね。けっこうな歳だもんな」  といいつつも、竜介は父親の歳はもうわからない。まな美の年齢分つき合ってないので。 「でね、ママから、その馴《な》れ初《そ》め話を聞いたの。前にも話したじゃなあい、といいながらも、嬉しそうに教えてくれたのね。……ところで、おにいさんは、この手の話は知ってるの?」 「いや、知らない。ぜんぜん知らない。まったく知らない」  竜介は何度も首をふっていう。 「すると、これ話してもだいじょぶ……?」  しおらしく気遣って、まな美は聞いてくる。 「大丈夫さ。もう完全に過去の亡霊なんだから。それに、ぼくは、まな美のママとは、たぶん手すら握ってないと思う」 「そうみたいね」 「ええ? ぼくのことも聞いたのか?」 「だって、行きがかり上、どうしてもおにいさんの話が出てきてしまうから、聞かざるをえなかったのね」 「仕方ないなあ……」  竜介はちょっと貧乏揺すりをしてから、 「もう先手をうって、ぼくの方から告白するけど、わたしは、彼女に惚《ほ》れていました。かなりベタ惚れ状態だったと思います。が、彼女は、ほとんど惚れていなかっただろうと思う」 「うん」  こくりとまな美はうなずく。 「よく一緒に、映画を観にいく仲だったのよ。ぼくたちはそういう学部だったろう。おれの前の大学ね。で、なんとなく疎遠になって、でそうこうしていたら、彼女が突然、親父と付き合ってるといい出したわけさ。それこそ、死ぬほど驚いたわい」 「その気持ちはわかるわ」  まな美は満面の笑顔でいう。 「だから家から出たわけさ。そんな惚れてる女性が父親の妻だなんて、そんな屈折してる世界、おれは住めない。で、今は鳥取にいる母と離婚したものだから、これ幸いにと、名前も変えてやったわけさ」  竜介は、ざまあみろ、とそんな感じでいう。 「あのね、わたしの知ってるパパとママの方だけど、馴れ初め話っていうのは、これといってないのね」 「ええ? ないの……」 「だって、なしくずし的なできちゃった婚だもの」  いってから、まな美は自分の顔を指さす。 「けど、その世界のおれは、どうやって彼女をくどき落としたんだ? それ是非、参考のために聞きたいなあ」  竜介は、さも未練がましくいう。 「だから、たぶんそういうのはないのよ。なしくずし、なんだから。わたしが思うに、あっちのパパとママは、つまり分岐点をクリアしてたんでしょうね。けど、その分岐点というのは、実に些細な出来事で、時間にしてわずか十秒ぐらいなのよ」 「へえー?」  竜介も、それはそれで興味を禁じえないが。 「そもそもの話はね、おにさんとママが、待ち合わせをしたんだって。寒い時期の日曜日、夕方の五時に。それに奇しくも、この銀座で。そういうのって、おにさんとしては何か覚えある?」 「いやあ、そんな人生を左右するような分岐点、に相当するような記憶はないな。それに銀座だろう、間違いなく映画だな」 「でね、こういった服を着てきたのは、そのときのことでも、ふっと思い出せるかなあ、と思って」 「うん、意図はじゅうぶん伝わった」  いうと竜介は、帳場の方に向けて手をふって合図する。 「もう脱いでいいよ。暑いだろう」 「肩もこっちゃってて」  黒子(若い男性従業員)がやってきたので、そのミノムシ一式と帽子をあずけた。 「けど、ところがなのよ、ママに急用ができちゃって、一時間ずらして六時にしてもらおうと思ったの。そして電話をかけたのは、お昼すぎの、二時か三時ぐらいだって。そして用件を伝えて、切ったのね。ところで、ママの性格って知ってる? ちょっと早とちりやさんなんだけど」 「うん、それはうすうす知ってた」 「でね、ママが電話をかけると、はい麻生です、と男性の声が聞こえたのね。それを何の疑いもなく、おにいさんだと思っちゃったの」 「あっ!」  竜介も理解した。 「……親父が出たわけかあ」 「ママは、いいたいことだけいって、切っちゃった。そして……」  まな美は少し考えてから、 「おじいさんのことをパパとして統一するわね。でパパは、電話を切られてから、あ、息子の女友達《ガールフレンド》だと気がついた。ところが、その日おにいさんは、昼すぎに家を出てしまっていた。……おにいさん、ママを、家に何度か連れてきてたんでしょう?」 「まあ、せいぜい二回ってとこだろうな」 「どっちにしても、パパは顔は知っていたのね。そして電話をうけたパパは、すっごく責任を感じたらしく、なんとか息子に会って伝えようと、わざわざ銀座まで出てきたんだって」 「その銀座で会うのって、なぜ知ってたの?」 「それはママの電話で、銀座という地名が出たからなの。それに銀座で待ち合わせって、場所はかぎられると、パパは考えたわけね。そして、それらしい場所を一生懸命に歩き廻っていると……」 「なるほど、おれじゃなくって、彼女と出会ったわけかあ」  竜介は苦笑しながらいった。 「その待ち合わせ場所で、しばらくは待っていたそうよ。でもけっきょく、おにいさんはあらわれず」 「いや、一時間遅れだろう。それぐらいだったら待つと思うけどなあ。だからたぶんね、おれはおれで、彼女に連絡をとろうと、公衆電話とその待ち合わせ場所を一生懸命に行ったり来たりしてたんだとー」  竜介は、往生際《おうじょうぎわ》が悪くいう。 「うーんどっちにしても、会えなかったわけで」  まな美は、やんわりと諭し、 「そしてパパは、おわびのしるしに夕食をごちそうしますといって、でも悪いのはママなんだけどね。それでお付き合いが始まったの」 「なるほど、じゃ、要するにその電話なんだな」 「そう、ほんと些細な話でしょう。ママが電話口で、今日の銀座での待ち合わせ、五時から六時にねえ。ガチャ。それが分岐点」 「いやあ……」  竜介は、ぽりぽりと頭をかきながら、 「そんな些細なことで、人生変わっちゃうわけねえ。するとさ、まな美の知っているパパとママは、そういった分岐点を、おそらくクリアしたんだろうな。けどクリアすれば、そんなの通常の待ち合わせだから記憶には残らないよな。そしてその後は、つまりなしくずし的か、ふうん……」  腕組みをしてうなる。  うなり終えてから、竜介はいう。 「おれ今ちょっと妙なこと思ったんだけど、そのあなたの知っている世界の方が、ふつうなんじゃないか。そんな奇妙な勘違い電話で、分岐点が生じるなんて、こっちの方が変だ。だからあっちの世界の方が、より平板《フラット》で、ありのままといおうか、まあ、そんな感じね」 「おにいさん、その感覚って、たぶん正しいわよ」 「正しい? それはそれで困るぞ」 「どう正しいかについては、また後《のち》ほどね。話には順番があるのでぇ」  まな美は、髪を揺すっていってから、 「あのね、これは土門くんがいい出したことなんだけど、あっちの世界とこっちの世界で、姫は父君がちがうのに、なんでおんなじ姫なんやあ……て」 「あっ、まあ、いわれてみればそうだな」  ただし、そのパラレルワールド説を全面的に採用しての話だと竜介は思うが。 「さらに彼がいうには、ちがう人間同士がパラレルワールドで入れ替わるなんて話はない、そうなのね。一緒だから入れ替われるんだ。て頑固に主張するのよ。けど、わたし今日ここに来て、おにいさんが弾くピアノを聞いていて、その謎が解けたわ」 「ええ? それは解ける謎? しかもピアノで?」  竜介は、もう何のことやらさっぱりだが。 「さっきの分岐点だけど、あれは表面的な話なのね。その根本原因があるのよ」 「根本原因……?」 「その一、なぜママは勘違いしたのか? 答えは簡単よね。声がそっくりだったから」 「まあ、そうだったんだろうな」  竜介としては、そういった感覚はなかったが。 「その二、アルバムの写真で、ママと付き合い始めたころのパパ、を見てみると、もう雰囲気は誰かさんとそっくり」 「ええ?」 「歳も、今のおにいさんと大差ないでしょう?」 「うーん、親父もほぼできちゃった婚だし、大学卒業してすぐにおれが生まれてるから、プラス二十二で」  竜介はぶつくさとしばらく暗算してから、 「うん、今のおれよりも三つ四つ上だな。たしかに大差ないね」 「けど、その当時の大学生のおにいさんは、長い髪で、ジーパンひきずって歩いてたんでしょう?」 「あたり」 「だから、その時点で見たら、ふたりはぜんぜん別人なんだけど、おなじ四十歳で見たら、きっとそっくりなのよ。それにおにいさん、とんでもなく若く、他人《ひと》から見られるでしょう」 「うん、自慢じゃないが」  といってから、竜介はくくくっと笑う。 「当時のパパもまったくおなじで、ママいわく、学友の父親のはずなのに、どうしてこんなに若いのかしらーて思っていたらしいのね、家で会ったときに。けど実際に話してみると、やはり大人で、頼りがいがあって、もう理想の男性像だったというわけよ」 「うん」  竜介はそれを自分に置き換えて、自己満足する。 「だから、パパと、当時の大学生のおにいさんは、もうどっちを選ぶとか、比べるとか、そういった次元の話じゃないって」 「う……うん」  竜介は深くうなだれながら、 「たしかにそのとおりさ。二十歳のおれと今のおれとじゃ、月とスッポン。もう比べようがないね。何ひとつとっても、比べようがない」 「そして、その三ね」 「まだあるのかあ……」 「ふたりが銀座で出会った日、おにいさんが会えなかった日ね。その日、ふたりの未来を決定づける、とんでもないことが起こってるのね」 「な、なんだあ……」  竜介はカウンター椅子から思わず落ちそうになる。 「想像しているようなHな話じゃないわよ」  まな美は嬉しそうにいってから、 「夕食は、お寿司を食べたらしいのね。そして店を出ると、まだ八時前だったので、じゃ軽く一杯、とパパに連れられて、とある店に入ったところ、うわあ、と店じゅうがどよめいたんだって」 「あん? なんだそれ?」 「そのお店にはグランドピアノが置かれてあって、その生演奏にあわせて、歌を唄える店だったのね」 「あー、あったあった。当時は何軒かあった。今でもあるかどうかは……わかんないけど」  カラオケに駆逐されたジャンルだが、その当時もカラオケは十分に普及していたと竜介は記憶する。 「そして、ふたりが席に座ると、もうさっそくパパのところにマイクがやってくるのね。そして店じゅうが、うわーと拍手の雨あられ。するとパパが照れながら立って、そしてピアノの前で、唄いだしたのね。それを聴いたママいわく、もう身もこころもとろけたって。それほどまでに歌がうまいんだって」 「ええー?」  竜介は信じられないといった顔で、 「おれは親父が唄ってる記憶なんて、まったくないよ。家では聴いたことない。鼻歌すらもないよ」 「うん、やっぱりねえ」  まな美はうなずいてから、 「さっきわたしおにいさんのピアノ聴いてたでしょう。とろける、てとこまではいかなかったけど、それはそれは驚いたわよ……てことを前提に、じゃあ、おたずねしますけれど」  まな美はあらたまった口調で、 「おにいさんが、まさにプロのピアノを弾けるってことを知っている人は、誰がいるの? このお店の関係を除いて」 「えー……」  依藤警部さんは知っているけどピアノは聴いたわけじゃないし、誰がいるかと竜介は考えてもみるが、 「親戚じゅうで誰か知ってる?」 「…………」 「鳥取のおばあさんは、ご存じなのかしら?」 「…………」 「ほうら! 思ったとおり。もう信じられない親子だわ。こんなにすごい特技をもっているくせに、身内の人には誰ひとりとして教えないなんて。もうね、パパとおにいさんは、クローン!」 「……かえす言葉がありません」  竜介はカウンターのテーブルにつっ伏してしまった。 「だから、おにいさんは、誰から音楽の才能を受け継いでいたかなんて、当然、知らなかったのよね」 「はい、爪の垢《あか》ほども考えていませんでした」 「それにママは一緒なので、だから、まったくおなじわたしが生まれたのね。そして土門くんがいうには、もう考えられない偶然性において、たまたま同一になった姫だから、なにか特別に選ばれて、特別な意味があって、何かの使命みたいなものをおびて、別の世界と入れ替わった、というのね」 「うん、その後半部の話、それはそのとおりだと思う。あなたの記憶が、こうパズルのように、こちら側の現実とかみ合ってるでしょう。すると、いろんなことで影響を及ぼせるよね」 「うん、及ぼせるわ。実際、土門くんを自由自在に操れちゃうもの」  竜介はちょっと笑ってから、 「だから、やはり特別な意味があるのね。ある種の使命……なのかもしれない。たとえば、こうやっておれにいろんな話を聞かせてくれるだろう。前のまな美とは、この手の話をすることはありえないから。そして正直いって、いろんなてんで感動しました。まあ、ちょっと大人になれたかな、て感じもする」  竜介は、冗談めかしていってから、 「それと、前半部の話だけど、やっぱり、あなたは別人だわ」  真顔になって、まな美を見つめていう。 「今日、おれは話していて、そのことに気がついた。ぼくは気がついた」 「うん? なあに?」 「あのね、おれは対人によって、一人称が変わるの。そういう人って少なくなくて、珍しいことではない。それに自分はいちおう心理学者なので、その理屈も知ってるんだけど、そんなことはさておき、おれが思い出すに、前のまな美に対しては、ずーと、ぼくだったと思うんだ。ところが、今日話していたら、どこからか、おれに変わったんだよな。これは意図的にやってるわけじゃないんだよ。だから、自分の、あなたへの感じ方がちがうので、一人称が変わっちゃったわけね」 「へー……」  さすが心理学者と感心しながらも、ぼくがおれに変わるのってどんな理屈? ともまな美は思う。 「それと、今のあなたの方が、前のまな美よりも、若干くだけてるかな。まあ、やわらかい、といってもいいし、どっちにせよ悪い意味じゃないよ」 「どんなところが、くだけてるの?」 「うーんたとえばね、前のまな美だったら、ちょっとでもHなことをいおうものなら、バチバチバチ、とビンタが飛んでくる。そんな感じかな」 「えー、だったら、まるでわたしが淫乱《いんらん》みたいじゃなあい」 「いや、そんな極端な話じゃないって」 「…………」  まな美は、しばし沈黙する。  ……淫乱、そんな言葉がつい出てしまったのには、それなりの原因があり、まな美は、その地獄絵図の記憶がふっと頭をよぎったからなのである。もちろん、そのことは口が裂けても他人《ひと》にはいえない話ではあったが。 「あのね、わたしやっぱり別人なのよ」  まな美はまな美でいい出した。 「見かけはおなじなんだけど、中身がちがうのね。とくにここが」  ——頭を指さす。 「うん? あっちの世界でも、満点娘さんだったんじゃないの?」 「それはそうなんだけど、こちらのまな美さんは、もう極端に賢いの。あの文化祭の資料が残っていたのね。だからそれをずーと読んでいってたんだけど、その全体像がようやく把握できたのが、昨日ぐらいかしら。で土門くんがいうには、そのほとんどを姫が解いたらしいのね。けど、わたしどう考えたって、あんなの無理ぃー」  まな美は、激しく身を揺すっていう。 「いや、たしかにあれはすごい。家康《いえやす》が、とある埼玉の無名のぼろ寺を、自分の墓だと定めた。によって東京の地理が決定した。なんてことを誰が信じる?」 「うん、わたし未《いま》だに半信半疑よ」 「けど、おれも話聞いて真剣に考えたんだが、あれは十中八九正しいと思う。だからすごい。もう博士論文なんて超えてて、ああいうのはね、ひとりの研究者が生涯に一度ひらめくかひらめかないか、ぐらいのスペシャルなもの」 「えー、わたしそれをもうやっちゃったの? だったら未来がないじゃなあい」  まな美はごねてから、 「あ、そうだ、向こうに戻ってからやればいいんだ。それに丸写しできちゃうから、楽勝」  ……大喜びしていう。  けど、戻れればいいがなあ、と竜介は思う。  それに反面、あっちに行ったはずのまな美は何をやってるんだろう、大丈夫かなあ、などとちょっと心配にもなってきた。ともあれ、パラレルワールド説が竜介の頭にもじわじわと。 「だからね、あの淨山寺の秘密を解いたのが、まな美が賢くなった理由のひとつよね。土門くんがいうには、最初からズバリと解けたわけじゃなくって、想定していた霊線も、皇居を通っていると、間違って考えていたらしいのね。それはわずかに数十メーターの差なんだけど、その霊線を厳密に引きなおすと、古い遺構《いこう》がすんぷんの狂いもなく並んで、そうやって考えに考え抜いて、あそこまでの完成形にもちこんだっていうのね。それともうひとつあって、歴史部のフィールド調査の最重要項目、というのがそれで、これは何かというと、おにいさんの頭の中をのぞくことなんだって」 「な、なんだってえ」 「もう無尽蔵に入ってるから、神社仏閣を訪ねるより効率がいいって。これ土門くんがいってたのよ」 「あのやろう」 「でもけっきょく、それはまな美さんがいってたんでしょうけどね」 「ど、どのやろうだ。おれは怒る相手が、いるのかいないのか」  もう絶対に歴史部には何も教えてやるまいと竜介はかたく決意する。 「で結論! 怪物まな美を作ってしまった原因は、すべておにいさんにあるのよ。あの淨山寺だって、おにいさんが調べてみろってふったんでしょう」 「た、たしかにそうだが……」  まるでフランケンシュタインのような話になってきたと竜介は思いながら、 「けど、あなたのパパも、おれとおなじような仕事してるんでしょう?」 「そらしてるでしょうけど」  まな美は、一瞬、息を呑《の》んでから、 「パパが、それをわたしに話す、なんてことはありえないわよ。わたしがパパに聞く、なんてこともありえないし。あのパパが、神話や宗教史や神社仏閣に詳しい、なんて爪の垢ほども思ってなかったわ。それに、わたしヒマさえあれば、おじいさんがパパ、おじいさんがパパ、おじいさんがパパ……て頭の中で反芻《はんすう》しているのよ。同様に、パパはおにいさん、パパはおにいさん、パパはおにいさん……といい聞かせてるのよ。それも秘密の兄妹で、秘密の兄妹で、秘密の兄妹で……と」  椅子の上で、もだえまくりながらいい、 「それでようやく、精神の均衡を保ってられるのよ。これがちょっとでも崩れてみてごらんなさい。もうおにいさんの顔はパパなんだから、ぺ、て感じよ」  横を向いて空唾《からつば》を飛ばす。 「はっははははは……」  竜介は腹をかかえて笑う。  まな美は、精神の均衡をとり戻したのか、いう。 「それに住んでいる世界も、かなりちがうのね。わたしが前にいた日本は、高校生の目から見ても、それはそれは悲惨な状態で、新聞を見ると、毎日毎日凶悪事件のオンパレード。殺人事件の雨あられ。もう五千万ぐらいの強奪事件じゃ、数行の記事にしかならないわよ。そのくせ、犯人が捕まった……なんて話はとんとお目にかかれないし。それに、わたしひとりで道を歩くの、こわくってこわくって、もう全国津々浦々で、通り魔事件だらけなのね。このあいだなんか、そこそこの山の登山道を歩いていた人が、前からやって来た男に、すれちがいざまに、いきなりブスッとやられてるのよ」 「や、山歩きの人があ……」  竜介も、それにはさすがに驚いた。 「それに国の経済は、不況だとかどん底だとか泥沼だとか、そんな言葉はもうとおりこしちゃってて、ただなすがままに地獄に堕《お》ちていくだけ……て感じ。そのくせ、それだからかもしれないけど、一国の首相は意地をはったように靖国《やすくに》神社に公式参拝するし、首相が堂々と行くもんだから、他の政治家たちも右へ倣《なら》え。わたし自信をもっていえるけど、あんなところには神さまはいない。そして諸外国からは猛反発されて、わたしこういうのって、わざとにやってるとしか思えない。また戦争したいのかしら……と思っちゃう。もうね、国が亡びるときって、こんな感じなのかもしれない、そうも思ったりするわ」 「亡国ってことか……」 「そう、あっち側の世界は、まさにそれね。それに神さまだって、見放して逃げ出しちゃったあ、て感じ。それに比べるとこっち側は、経済はそうよくはないようだけど、それと些細なことだけど、あの洞窟があった敷地、あっち側はゴミだらけだったのよ。けどこっち側は、単なる雑草の草原だったでしょう。それになんかこう……ほのかにただよっている、安心感みたいなのがあるのよね。歴史部なんてその最たるものだけど。こっち側には、まだ神さまがいるのかもしれないわ」 「神さまねえ……」 「おにいさんも知ってるでしょう」 「何を?」 「ほんとうに、神さまがいることを」  カジさんが自身の腕時計を指さした。 「ごめん、仕事だ。つづきは戻ってきてからにね」 [#改ページ]  14  そのころ玲子は、バスローブをはおって、自宅アパートの六畳ほどの居間《リビング》の椅子でくつろいでいた。  けっして贅沢な暮らしぶりではないが、家具や電化製品などもひととおりそろっていて、こぎれいに片付けられてもいる。  七時すぎに竜生の車で家の前まで送ってもらい、そしてゆっくりと風呂に入って、ついさっき部屋に戻ったぐらいであった。  玲子は、壁にかかっているカレンダーに目をやった。そこには、竜生と出会った日から×印が打たれている。今日もつけようかしら、と思いながらも、ちょっと気が重くなっていた。  いったい、いつまでこんなことをつづけるのかしら……いや、つづけられるのかしら、玲子は、つづける自信がなくなってもきていた。  竜生《かれ》は、やさしくていい人だわ。  けど、そう思えば思うほどに、その彼を裏切っている、そんな想いが強くなってもいくのだ。  いっそのこと、彼にすべてを打ち明けようかしら、そんな考えが玲子の頭を何度かよぎったりもしたけど、そうしたからといって、何か事態が好転するはずもなかった。  このまま、つづけるしかないのかしら、恋人を。  ……わたしは恋人、わたしは恋人、わたしは恋人、わたしは恋人、わたしは恋人、わたしは恋人。  玲子はそう自身にいい聞かせた。  ピンポーン!  玄関の呼び鈴が鳴った。  玲子がドアを開けると、そこにはハンサムな中年の外人が立っていた。 「最近はいかがですか、玲子さん。ちょっとしたお話がございますので、部屋にあがらせていただけますか」 「あっ……どうぞ」  玲子は、彼にはあらがえない。  その外人は居間の椅子に腰をおろしてから、 「まず、これをどうぞ」  後ろ手に隠しもっていた真紅のバラの花束を玲子に手渡した。 「うわあ……」  玲子の顔が、一瞬、華《はな》やいだ。  外人はその花束から一本を引き抜くや、 「バラって不思議ですよね。こんなきれいな花びらが、いくえにも、いくえにも、いくえにも」  そうやわらかく語りかけながら、そのバラをもっている手が…… [#改ページ]  15  ほぼ三十分のピアノ演奏を終えて、竜介がカウンター・バーに戻ってくると、まな美は二杯目のカクテルをすすっていた。今度は透明なブルーのそれである。 「これもアルコールは入ってないよね」  カジさんは、うなずかない。 「え?」 「わたしが、ちょこっとだけ入れてって頼んだの。カジさんを責めないで」  もうあきれ苦笑しながら竜介は椅子に腰をおろし、 「ぼくもまだ濃いのは飲めないので、ギネスをお願いします」  カジさんに頼んだ。 「先の、ほんとの神さまがいるって話だけど?」  竜介はうながす。 「うん、いるのよね」 「どこに?」 「もちろん、わたしの学校に」  まな美は微笑《ほほえ》みながらいってから、 「もう本人からすべて教えてもらったから、おにいさんも隠す必要はないわよ。なんでも、おにいさんは今とっても大変な立場にいるんだって? みんなから寄って集って頼りにされちゃって、難問をつぎつぎともち込まれるものだから、忙しそうで可哀想だと、その彼がいってたわよ」  御神《おんかみ》が気にかけてくれているらしいことは竜介にもわかったが、 「どうして、あなたに教えたの? それに、あなたはそれを信じたの?」 「うーん……」  まな美はカウンターに頬杖をつきながら、 「やっぱり、最初から話をしないと無理よね。ちなみに、このお店も、その彼から教えてもらったのね。でも地図を書いてくれたわけじゃなかったので、こんな看板で、こんな建物で、近くにこんな目立つものがあって、と絵をたくさん描いてくれたのね。それが、あまり絵が上手じゃなくって、このお店を探すために、けっこう歩き廻ったのね。銀ぶらってやつ。だから、いい人でしょう。人といっても神さまだけど……」  蛇足《だそく》の話をしばらく語ってから、 「まず、あの洞窟の事件があった日ね、わたしたちはタクシーに乗って逃げたでしょう。すると土門くんが、第二部室へ行こう、とかいい出すのね。それいったいどこの部室よ。秘密の小部屋や裏神《うらがみ》さまもそうなんだけど、わたしの知らない隠語がいっぱいあるのね。そしてタクシーが着いた場所は……森よ。なんと森よ」  強調していってから、 「その森の中に入っていくと、古くて立派な腕木門《うでぎもん》が立ってるの。その脇にある木戸を、何のためらいもなく土門くんが開けて、中に入っていくわけよ。でも入っても、そこは森なのよ。そして小径《こみち》をしばらく歩いていると、やっと古い日本建築が見えてくるのね。けど片側しか見えないから、バカでかいとしかわからない屋敷ね。そしてぐるーと廻っていくと、和風の庭があって、ちょっと裏庭ふうだけど、その庭に面する縁側が、雨戸が一枚だけ開いていたのね。そこで靴を脱いで、入っていくわけよ。すると縁側の廊下があって、それにそってずらーと襖《ふすま》がはまっているの。その襖の一枚を土門くんが開けると、そこは四方が襖の部屋ね。つぎの襖を土門くんが開けると、そこもまた襖の部屋ね。そして右へ左へ前へと、土門くんがどんどん開けていくんだけど、開けても開けても開けても……襖の部屋なのよ。すると座布団が積まれている部屋があって、そこも襖の部屋なんだけど、土門くんは、これが目印だというのね。そしてまた襖を開け始めて、けど、開けても開けても開けても……でようやく、炬燵《こたつ》の置かれた部屋があって、そこが歴史部の第二部室だというのね。けど、どうやってお手洗いに行けばいいのよ。わたし目印の部屋すらもわかんないし」  竜介は横で笑い転げながら、 「……なにが目印だ、なんでもオモチャにしてしまう姿勢は、さすがだなあ。それ直線で行こうと思えば、たしか裏の縁側からだと、ふた部屋目で行けたんじゃないか」 「それは帰るときに教えてもらったわ。それに、そのとんでもない迷路屋敷が、天目くんの家だというじゃない。それなのに、ぜんぜん人気《ひとけ》がなくって、しーんとしているのね。もうここからしておかしいでしょう。こんなの尋常じゃないもの。そしてもうひとつ変なのは、歴史部の金庫に入っている預金通帳。これは土門くんに見ろといわれて見てみたんだけど、驚きだったわよおにいさん。常時数百万が入ってるんだもの。それに使い方もすさまじくって、一度に九十万おろしてるのがあるのね。横にわたしの字で、布代、て書かれてあるの。布で九十万って、どんなものをいうの」  あーあれだなと竜介は思い出した。鑑識の岩船さんをペテンにかけるのに使った江戸時代の古布だ。 「それにあっちの歴史部には、天目くんはいないし、わたしの知るかぎり、私立M高校にもいなかった。それに歴史部の預金通帳にも、千円ぐらいしか入ってない。だから原因は天目くんだと、わりと早い時期から気づいてたのね。でも、それがまさか神さまだなんて、思ってもみなかったけど……」  竜介も、うなずいた。  何かにつけて原因は御神にある、それはそのとおりだからである。 「そして一昨日《おとつい》のこと、だから火曜日ね。お昼休みにわたしが廊下に出ると、天目くんが立っていて、ランチに行こうって誘ってくれたのね。でも彼についていくと、食堂とは反対側の方にどんどん行っちゃって、そうこうしていたら正門から出ちゃって」 「出てもいいの?」 「ほんとはいけないんだけど、みんな出ちゃうのね、罰もないし。すると、さっと車が真ん前に止まって、男の人が降りてきてドアを開けるのね。それも、ものすごくうやうやしく。わたしに頭を下げているのかしら、と一瞬思ったんだけど、まあありえないわよね。そして車でちょっと走ったところにある洒落たレストランに連れてってくれたのね」 「はあん」  竜介はため息をつき、 「それで、全部話してくれたの?」 「それが全部かどうかは判断できないけど、要するに、自分は天目一箇命《あまのまひとつのみこと》の末裔《まつえい》で、竜の化身《けしん》である、といった話ね。もちろん、信じられなーい、といった顔をしたら、彼が、店の中をぐるーと見渡して、ほら、あそこにいる男の人、ちょっと悪いやつだから、懲《こ》らしめてあげるね。そんなことをいうのね。何かしら……と思って見ていると、その男の人が、うわ! といきなり大声をあげて、お皿をひっくり返しちゃったのね。何やったの、て聞いたんだけど、にこにこ笑ってるだけ」 「ふむ、そんなのを見せたのか」  竜介は不満げにいってから、 「じゃ、信じちゃった?」 「そのほかにもあれこれとやってくれて、もう、まるで映画を観ているみたいだった」 「それらを見て、あなたは驚かなかったの?」  竜介は疑問に感じてたずねる。 「うん、驚かなかった、が正解かしら。わたしね、こっちの世界に来てからは驚きの連続で、もはや、マヒしちゃってるの」 「はっははは……」 「もう一寸法師《いっすんぼうし》があらわれても、地獄の閻魔《えんま》さまが出てきても、わたしは驚かないと思う」 「……あーあ」  竜介は笑いをおさめてから、 「けど、なんでバラしちゃったんだろう。そんな徹底的に。あのね、歴史部は、彼にとってはふつうに遊べる唯一の友人で、だから神であることは悟られまいと、まわりの大人たちがどれほど苦労していることか。おれも含めて」 「それには、理由があるのよ」 「どんな?」 「あのね、わたしは……」  まな美は自身を指さしながら、 「いずれは元の世界に戻れるだろう、そんな感じがする、て彼はいうのね。そして戻ったら、そっちの世界にも自分がいるはずだから、その自分を見つけて欲しいっていうの。その彼は、どこか悲惨な状態になっているような気がするので、ぜひ力になってあげてください、友達になってあげてください、と彼はいうのね」 「はっはーん」  竜介は腕組みをしてうなってから、 「それね、たぶんとっても深い意味があるんだろう。そもそも、あなたがこっちに飛ばされたのは、あっちの彼が、原因のような気がする。こっちの御神はそこそこに幸せだから、あなたを呼びつけるといった強い動機が、いまひとつないのね。だけど、あなたが来てくれたおかげで、こっちの御神も命拾いしているから、両神で微妙にコンタクトがとれていて、たがいにいいようになるようにと、そんな意図が働いているのかもしれない。それと、そのレストランで見た奇跡の数々、それはしっかりと覚えといてね。たぶん彼は、自分ができることを、あなたにすべて見せたんだと思うから。その理論的な背景については、戻ってから、パパに聞けばわかる」 「けどう、もしわからなかったら?」  まな美は小悪魔の顔でいう。 「うーん勉強してないんだ、そいつは。だからちゃんとやってれば、能力者が究極になったらどうなるのか、そのモデルを組んでいるはずなので、そのへんをつっつけばいい」 「究極って……あの天目くんは、究極なの?」 「うん、あれで、神さまのほぼ究極の姿だと思って、間違いない」 「どのあたりが究極なの?」 「ほら、皿のやつ」 「あれが?」 「あれが」 「おにいさん、もうちょっと真剣にしゃべってよ」  まな美は体を揺すってねだる。 「ごく些細なことのように見えたかもしれないけど、あれが、神のもちうる究極の技能なんだ」 「あれがあ?」 「あれは変化身《へんげしん》を見せているんだ。まあ、ネズミでも見せたんだと思えばいい。そして同種のもので、彼はそういったことはやらないが、人は殺せるわ、飛行機は落とせるわ、戦争だって起こせるの」 「ええー!?」 「驚かないといったくせに、驚いてるじゃないか」 「それとこれとは別よ」  まな美は悪態をつく。 「あのさ、一般的に、森羅万象《しんらばんしょう》のすべてを見通せる神、てよくいうよね。だが、実はその上があって、そのあたりが神の最終形なの。そうなれるかどうかは、変化身を出せるかどうかにかかっている。そういう構図なのよ」 「変化身って、仏教でよく聞くわよ。如来《にょらい》や菩薩《ぼさつ》が、戦うときには変化身を出して戦わせるじゃない」 「うん、あれは御伽噺《おとぎばなし》ではなく実話。そして神も仏も一緒のもの。つまり変化身って、戦うための武器なんだ。そして仏がもっている唯一の武器が変化身であるように、神も同様で、それでいて、その変化身が究極の武器なの」 「あー、なんとなくわかってきたわあ」  まな美が、思慮深い顔つきになっていった。 「あ! 深く考えなくていいよ。お願いだから、あなたまで怪物まな美さんにならないでえ」  竜介は懇願《こんがん》するようにいった。  ママが店に入ってきた。  濃紺のスパンコールのドレスに身をつつんでいて、黒い羽毛の襟巻《えりま》きをふわふわと靡《なび》かせながら、カウンター・バーの方へと歩いてくる。 「あら、リュウちゃん」  と手をふりながら、 「あら、彼女できたのう」 「いやいや、ちゃんと紹介しときますよ。歳は離れてますけど、ぼくの実の妹なんですよ」 「あら、そう」  と小首をかしげながらいってから、 「でも、ふたりとってもお似合いよう」  そして遠くを見るような目になって、 「わたし今ふと思ったけど、あなたたち、来世では恋人どうしよ。きっと」  小さくうなずいてそれだけいうと、 「じゃあねえ」  手をふりながら、控室へと入っていった。 「うわあ、うわあ、わたしもうふわあとしたものにくるまれちゃった」  まな美がとろけた表情でいう。手をひろげて、そのふわあとしたものをあらわしながら。 「独特だったでしょう。みんな、あのふわあとしたものにくるんでもらいたくって、ここに来るのね」 「いやあ、さすが銀座だわ」  まな美は盛んに顔をふっていった。 「おにいさん、世界が平板《フラット》、だとかいってたでしょう。あっち側には、かりに神さまがいないんだとすると、そうなるの?」 「まあ、それは言葉上の問題もあるけど、そうなるような気がするね。神さまがいると、あれこれと介在してくるから、奇異なことが、たしかに増えるはずなんだ。もっとも、それは悪い奇異じゃないんだよ。あっても楽しい奇異って感じかな。……誰かさんの勘違い電話みたいに」  ぼそぼそと竜介はつぶやいてから、 「かたや、神さまがいなくなると、ありのままのはずさ。すると、人間の醜い部分ばかりがわーとあふれ出してきて、たしかに、住みにくそうな世界になるだろうね。あなたも、天目くんと話していて、わかったでしょう。彼の性格」 「うん、とってもやさしい男の子」 「そう、典型的な善神だな。でも悪には牙《きば》をむくからね。残酷《ざんこく》なことはしないが、自分や友人のまわりからは、それらを遠ざけよう遠ざけよう……とするはずだから、たしかに安堵感はただようはずさ」 「彼みたいな神さまって、あちこちにいるの?」 「いや、残念ながら、現存しているほぼ最後のひとりかもしれない。神話や伝承に出てくる神々は、ほぼ実在していたと思って間違いない。が、ことごとく殺されちゃったからね」 「どうしてえ?」  まな美は身を揺すって、不満げにいう。 「それはね、そういった神々に介在される世界は嫌いだ、という人たちがいるのよ。その人たちは、天地創造の神を崇《あが》めているけど、そんなのは実在せず、そして裏を返せば、ありのままの世界が好きなの」 「あっ、天地創造って、考えれば、ありのままよね。あるがままかしら、どっちでもいいけれど」 「だから、人間は人間だけで生きていく、そういう考え方で、ありのままだから、鉄砲を自由にもたせて殺しあってください、が好きでしょう」 「わかりやすい」  まな美はうなずく。 「そうそう、天目くんがね、もうひとつ不思議な話を聞かせてくれたのね。それは何のことなのか、わたしにはさっぱりだったんだけど」 「どういったこと?」 「こんな話なのね。彼は、わたしたちが生きているような時間とはちがって、別の時間に生きることができるというのね。それはいわば、竜の時間だといってた」 「竜の時間……」 「彼がいうには、その竜の時間においては、現在はもちろんのこと、未来にだって、過去にだって、自分は自由に存在できる、てそんなこというのね」 「うーん?」  竜介は腕組みをして首をひねりながら、 「……存在できる。存在できる。存在できる。存在できる。存在できる。存在できる」  何度もおなじ言葉をくり返すだけだ。 「わたしは、今この現在に存在しているわよね。未来には……いずれ存在できるけど、過去には……かつて存在していたけど、でも過去は、いまさら存在できないわよねえ」 「あっ、存在感だ。それは彼の主観の問題だ。存在感を感じることができるから、存在できる、という言葉になるんだ」 「ええ? 過去に存在感をもてるの? 未来にも」  竜介はすっくと背筋を伸ばしてから、 「たしかにもてる。今そのことに気がついた」 「どういうこと?」 「ふむ……」  今度はカウンターのテーブルに顔を伏せていき、両手で頭をかかえてしまった。竜介はしばしの熟考に入ったようだ。 「それに、彼はこんなこともいってたのよ。自分がその気になれば、本気[#「本気」に傍点]でやったら、過去や未来を変えられると思うって。それにこんなこともいってた。竜にはいくつかの戒《いまし》めがあるそうで、ひとつは、過去を悔やんではいけない。ああしておけばよかった、こうしておけばよかった、などと過去のことをくよくよ考えてはいけない。そして未来に対してもおなじで、ああなればいいこうなればいいと、望んではいけない。もしも、この戒めを竜が破ったら、世界は壊れてしまうんだって。自分はそういうことはしないけど、戒めを破る別の竜が、過去にも現在にも未来にも、たぶんいるだろうって」 「……ふむ」  竜介が顔をあげていう。 「おっしゃるとおり。それ全部おっしゃるとおりだ。そのとおり世界は壊れてしまう。いや……もう壊れかけているか……すでに壊れているんだ」 「それって、どういうこと?」  竜介は何を思ったのか、ふふ、と笑ってから、 「いやね、天目くんお洒落だなあ、と思ってさ。竜の時間や戒めの話なんて、おれに直接話せばいいじゃない。けど、あなたを介して教えたかったんだ。それはあなたが、それこそ生き証人であり、つまり世界が壊れているという証拠のね。それともうひとつ、あなたが入れ替わっちゃった原因は、その竜の時間の中で、別の竜が、戒めを破っているにちがいないだろうと、彼が気づいたからだ。さすがは、さすがに神さま、て感じしない?」 「うん、いわれてみればする」  まな美も納得していう。 「それにさ、下手《へた》な絵を描いてこの店を教えたのは、彼の方からいい出したんだろう?」 「そう、おにいさんは、木曜の夜はここにいるはずだからって」 「つまり、おれに何とかしてくれといってるわけよ。彼は人に頼み事をするの、苦手な性格で、いわゆるシャイなんだけど」 「あら、そうするとおにいさん、ついに神さまからも……そりゃ忙しいはずよね」 「それ厭味《いやみ》でいってるのか」 「ところで、その世界の壊れ、おにいさんなおせるの?」 「……あのねえ」  竜介は、うらめしそうな目をまな美に向けながら、 「おれはこういったことを約十年間ひたすらに考えてきたのね。そして考えに考え抜いて、究極の神のモデルを組んでいたわけさ。ところが、その上にもうワンランク、超究極の神が実在できることが、今さっきわかったわけね。それからたかだか一、二分で、その全貌《ぜんぼう》がおれにわかると思う?」 「うーん、それはさすがに無理っぽい」  まな美は小刻みにうなずいていう。 「ただ直感的にいえることは、関係するキーワードは、時間と、そして認識。認識はおれの専門だけど、もう一個の方は……」 「それは、アインシュタインさんよねぇえ」  まな美は語尾をあげていう。 「だから正直いって、かなりきつい。——が、さっきわかったことだけは、あなたに説明してあげる。そうしとかないと、あっち側のパパも気づかない」 「そんなの、わたしにわかりっこないわよ。自慢じゃないけど」 「いや、絶対にわかるように説明してあげる。それには自信がある。それこそ、あなたの目にだって見えるように……」  竜介は自他ともに認めるところの説明の達人である。その手並みを、みなさんもとくとごらんあれ。 「まず、竜の時間だ。これはそういったものが実在する。もっとも、彼の頭の中にだけね。……彼はね、頭の中で、右を見ても左を見ても、上を見ても下を見ても、後ろを見ても、ちゃんとした絵が見える、三六〇度の映像空間を作り出して、その中に入って、自身の目線で見ることができるんだ」 「へー……」 「これは、実は誰にだって可能で、たまにおこって、俗にいうところの幽体離脱《ゆうたいりだつ》というのがそれね。自分が宙に浮いていると完全に錯誤《さくご》してしまうほどの、きわめて精緻な映像が見える。人が死にゆくときにも、同様のものが見えるんだが、これはまあ、神さまからの贈り物って感じの、脳の不思議な仕組みさ。そして、こういった映像が見えているときは、これは現在時間のそれが見えているんだ」 「つまり現在ってことよね。すると、彼の脳の中で、彼は存在できるわけね。うん、ここまではわたしもわかったわよ」  まな美はこくりとうなずいていう。 「先に、森羅万象を見通せる神、といったよね。もちろん彼は、こんなのクリアしていて、これはどういうことかというと、要するに、他人の記憶を見ているだけの話ね。他人がもっている現在もしくは過去の映像を、任意にとってきて見ることができるんだ。だから、彼が実際に見て記憶していない映像であっても、彼は自由に見られるのね。といったことを前提にして、先ほどの三六〇度の映像空間の中に入っていて、その現在の映像を、過去へと変えていくことができそうだと思わないかい?」 「あっ、あー、できそうねおにいさん」  まな美は嬉しそうにいう。 「すると、移り変わりが見えるよね。過去に進んでいけば、逆向きに見えるはずさ。季節も逆向きに進んでいくし、人も反対方向へと歩いていく。その時間軸を動かすスピードも意のままだから、素早く動かしたり、ぴたっと止まったり、後戻りもできる。もう自由自在に動かすことができる。そんな精緻な映像が見えている中にいると、さも時間をあやつっている、といった感覚にすらなると思うよ。もうわれわれが感じているような時の流れなどとはまったくちがう、それすなわち、竜の時間……」 「うわあ、ほんとに竜が見えたわよ。ながーい竜の中を、歩いていくと景色が変わっていくって感じ。でも歩かなくていいのよね。その筒状の竜の方が、自由に動いてくれるんだもの」  まな美は感慨深げにいってから、 「でもそれって、見える映像は、あの映画の『タイム・マシン』とそっくりよね」 「まあ、そのようなものが、彼の頭の中で構築できるわけね。けどH・G・ウェルズの『タイム・マシン』は、遠い将来はさておき、現在においてはサイエンス・フィクション。おれが話していることは、実話」 「あっ、逆だわね。こちらは実話なんだもの」 「そう、こちらは実際の話なのね。ところで、映画を見ていたとしよう。そのスクリーンの中の映像に対して、われわれは、存在できる、もしくは存在感を感じる、といっていい?」 「それはダメでしょうね。映画は単なる記録だし」  とまな美はいってから、 「あっ、けど、彼が頭の中で見ているものも、記憶なんだから、記録でしょう。それが三六〇度で見えようが、存在できる、というのはおかしいわよ」 「そういうこと。だからあらためて、存在感とは何かを考えないといけない。じゃ、いったい何だろうか?」 「うーん、わたしは、今生きてるって感じかしら。すーと息を吸ったり、あるいは、こうやってカクテルを飲んだり」  いいながら、まな美はグラスに口をつける。 「うん、まさにそういうことなんだ。生きてる、て感じと、そして他のものに影響を及ぼせること。今グラスにさわったように、あるいは、こうやって、おれがあなたに触れられるように」  竜介は、まな美の肩に手をおいてちょっと揺する。 「こうやって触れられるから、あっ、おれは今ここに存在してるんだな、て確認できるわけさ。これがキーポイントね」 「え? だったら彼は、過去の映像の中で、そうやって触れられるの? ううん、現在の映像の中でも、触れられるの?」 「うん、竜の時間の中においては、現実とほとんど変わらない。いや、現実よりも融通がきいて、さわろうと思えばさわれるが、見えている壁を通り抜けようと思えば、通り抜けられる。幽体離脱って、そんなものだろう」 「へー、手でさわれるの……」  まな美は半信半疑のようである。 「この種のことに関してはチベット密教《みっきょう》が詳しいので、ちょっと借りてきて説明するね。三六〇度の空間映像を見ている、目があって、そして体がある、その体のことを幻の身と書いて、幻身《げんしん》という。この幻身は、自身の脳が作り出している感覚のかたまりにしかすぎないから、それこそ、こころのもちようひとつなの。固《かた》い体だと思えば固いし、霞《かすみ》だと思えば霞。かたや見えている空間映像の方は、これはバックで脳が必死に支えてくれているわけ。ありとあらゆる記憶を総動員して、絵が精緻であることはもちろんのこと、その意味まで、つまり認識[#「認識」に傍点]までね。壁は固いものである、ぶつかれば痛いものである、といったふうにね。だから幻身の側のこころのもちようひとつで、その壁にさわったり、通り抜けられたりもできるの」 「す……すごい。わたしおにいさんのいったこと理解できたわよ。すごい話ね」 「ほんとにすごくなってくるのは、これからさ」  いうと、竜介はタバコに火をつけた。 「さて、現在時間において、とあるAという場所の三六〇度の映像空間を出して、幻身を作っているとき、そのような状態で、場所Aにいる他人の脳とコンタクトをとると、ちょっと奇妙なことがおこる」 「うん? ええ? たしかに何かおこりそうな気配はするわよね」 「すなわち、その他人には、幻身に相当する幽霊が見えてしまうんだ。これもまあ、脳がもっている不思議な仕組みのひとつで、死にゆく人が枕元に立つ、いわゆる夢枕の幽霊などが、その実際例ね。つまり幻身は、他人に見せることも可能なのね。他人に見えた幻身のことを、チベットでは変化身という。けど、この用語を使っちゃうと混乱するので、単に幽霊と呼ぶね。その幻身を元にして見せている幽霊だけど、チベットでは宗派によってさまざまなことをいうのね。それは具体的・物質的な実体をともなわない観念的な存在である……という。これはそのとおりのような感じするよね。ところが、ある宗派によっては、具体的・物質的な実体をもつ、とまでいい切っちゃうんだな」 「ええ? 幽霊が?」 「これ実は、さっきの壁とおなじなの。その他人の映像も、三六〇度映像空間に当然あるわけでしょう。その他人の絵は、やはり脳の認識で補強されているから、幻身が固い手でさわろうと思えば、さわれるし、霞の体で通り抜けようと思えば、通り抜けられるのね。ただしこの場合は、脳どうしがコンタクトをとっているので、幻身がさわれば、その他人も、さわられたと感じちゃうの」 「あら……ということは、幽霊の手でなぜられちゃうってこと」  まな美は、指先で自身の頬をなぜながら、気色《きしょく》悪そうにいう。 「でもなぜられている他人は、それを幽霊だと思ってないケースが大半。その他人の脳は、それをリアルな人間だと錯誤しているから、それなりの反応が脳にあらわれてしまうわけね。これは脳波計などの実験で、脳に反応が出ていることが確かめられてもいる」 「じゃあ、幽霊が殴ったらどうなるの?」  まな美はパンチの格好をしていう。 「実際に殴られるよりは軽いだろうけど、やはり痛く感じるはずよ。さて、そのように感じたり脳に反応が出るということは、記憶となって保存されることを意味する。そしてもちろん、見えた幽霊も同様に記憶となってしまう。さあて、こういったことを、竜の時間の中でやったら、どうなるだろうか?」 「その前に、わたし実は、幽霊を見たのよう」 「どこで見たの?」 「見城さんのお家からの帰り、トラックが暴走してきたとき」  まな美はぼそぼそと小声でいう。 「はいはい、あのとき、あなたにも見えたのか。それは知らなかったなあ」 「だって、何が見えたのかわからなかったし、もう絶対にしゃべるまいと、口に封をしてあったの」  それに、幸ちゃんからも口止めされてあったことだしと、まな美は思う。 「それはたぶん、彼がいたずらしたんじゃなくって、回線の切り忘れ」 「ええ?」 「あなたが、家の中で突然いい出したでしょう。わたしには未来が見えるんです……と。だから本物の神さまとしては、たいそう驚かれたらしく」  まな美は大笑いをする。 「まずあなたを調べたわけね。けど原因部分がよくわからなくって、と同時に、外にも広範囲にスキャンをかけてたんだけど、そういった都合での切り忘れ。この手の脳の回線は、一度つなぐと、意識的に切らないとつなぎっぱなし……そんなクセがあるのね。このへんは基礎だから、パパも知ってる」 「その脳の回線って、そんなに同時にあちこちといろんなことができるの?」 「うーん、まあ最低でも数百回線はある。つまり数百細胞あって、その一個一個が、他の脳とつなげられる。もっとも、一回線ずつを意識的につないでいるわけじゃなく、あるひとつの指令にもとづいて、相応に働いてくれる。ただし、脳の奥深いところにある細胞なので、実験はできない」 「すると、あのときは、彼が頭の中で歩道を歩いていたの?」 「そのとおり。それも、自身に確固たる存在感をもちながらね。そうしないと、相手をだませないの。脳の賢さでいくと、彼の脳も他人の脳も、大差なく、だから現実と同格の情報をぶつけないかぎり、他人の脳が錯誤してくれないんだ。そのへんが奥義」 「へー……」  まな美はひとしきり感心してから、 「実はね、わたしもうひとつ幽霊を見ているのよ」 「どこでえ?」 「それはあっち側で、やはり見城さんのお家で、女の子の幽霊を見て、それはほんとに亡くなっていたのね。そしてこっち側のお家で、まったくおなじように女の子があらわれたから、幽霊だと思って悲鳴をあげて、するとこちらは生きていて、だからわたしは、未来が見えるといったのね」 「ふーん……」  竜介は腕組みをしながら、 「すると最初の原因は、あっちで幽霊を見たことか。途中もろもろあって、結果、こっちで天目くんが助かっているわけか、……ところで、あなたは、幽霊をよく見るタイプなの?」 「ううん、後に先にも、その二回っきりよ」 「するとますます、変な話だよなあ……」  竜介は首をかしげながら、 「あなたの話全体が、とっても奇異でしょう。ほら、こういった奇異なときには……」 「あ! 神さまが介在」  まな美は気づいて、嬉しそうにいう。 「だから、あっちで見た幽霊は、あっちの彼が見せている、そう考えるのがふつうだろうな」 「そんなこと、できるの?」 「うん、それがね、いわゆる変化身。どんな姿にでも化けて、幽霊を見せられるわけね。それはつまり、幻身の姿を変えているわけで、それも意識ひとつで、どのような姿にでも化けられるんだ」  といってから竜介はふたたび、うーんとうなり、 「おれどこか、すごい悪い胸騒ぎがしてきた。だってさ、あっちの彼は、天目くんがいうには、なんか悲惨な状態にあるんだろう。それなのに、こっちの天目くんを助けている、余裕なんてあるのかな、てことなんだけどね。それとさ、これはこれからする話と関係があるんだけど、因果律《いんがりつ》が狂ってるんじゃないかと、そんな気もするなあ」 「それって、あれでしょう。物事には原因があって、結果があるという法則。絶対[#「絶対」に傍点]の法則でしょう」  まな美は力説していう。 「……かと思いきや、それは物理や化学では絶対なんだけど、こと認識の世界では、われわれは、脳における認識をとおして物事を認知しているので、脳は絶対ではないから、因果律が逆転しちゃう、なんてことがおこるのよ。きわめて稀《まれ》に」 「ほんとに……」 「ほんとよう。あの竜の時間、その未来の中でいたずらをされると、これはほぼ百パーセントいえることだけど、因果律が狂う。先に結果が決まっていて、原因を生じせしめてしまうといった、そんなわけのわからないことが、おこるはずさ。これを論理だてて、われわれが考えようとしても不可能なのね。つまり因果律が狂っているからで、考えること自体、ある種、無意味」 「へえー……」  まな美は頼りなげな声で、語尾を長々と十秒ほどいった。 「だからこれはほっといて、おれはますます悪い予感してきたんだけど、とりあえずほっといて、竜の時間の過去をいじるとどうなるのか? その驚愕《きょうがく》の世界をのぞいてみましょう」  カジさんが、腕時計を指さした。  九時のピアノである。 「時間だいじょぶ?」 「まだまだ平気。いざとなったら、土門《かれ》もいるし」 [#改ページ]  16  竜介がカウンター・バーに戻ってくると、まな美は三杯目のカクテルを美味《うま》そうに飲んでいた。今度はサーモンピンクのそれである。それに、野菜スティックまで齧《かじ》っているではないか。 「まさか入ってないよね」  カジさんは、うなずいた。 「ちょびっととカジさんにおねだりしたんだけど、おわびのしるしにって、野菜くれたの。わたしもうウサギさんの気分」 「なにがおわびだ、それに酔ってんじゃないのか」  竜介は、まな美の顔の前で手をふってから、椅子に腰をおろした。 「あのさ、ピアノを弾いている間に、あれこれとひらめいたよ」 「おにいさん器用ね。そうゆえば、ピアノちょっとこころ入ってなかったわよん」 「酔っ払いにはいわれたくない」  竜介はタバコに火をつけてから、 「さてと、ひらめいたことの方から先に話してあげる。まず竜の時間だけど、それはこっち側のそれと、あっち側のそれとは、それぞれ別のものじゃないかと、そんな気がしたんだ。人間関係や背景映像などもちがうようだからね。すると、あっち側の彼は、こっち側の竜の時間では悪さはできない。できないもんだから、その代わりにと——」  竜介は、まな美を指さす。 「わたしはウサギさん」  まな美は噛《か》もうとする。 「そ、その代わりにと、あなたをこっちに飛ばしたんじゃないかと、そんな気がしたのよ。すると前にもいったけど、あなたは知らず知らずのうちに、何らかの使命を背負わされていたのね」 「それって、いわゆるくぐつ……くぐつ……くぐつの術ってやつ? あーん頭から漢字が出てこなーい。わたし漢字大の得意なのにぃ」 「まあ、古い言葉でいえば傀儡の術ね。要するに、あやつり人形だな。けど、神さまが使うような傀儡の術なんて、もうどう考えたって、人間の想像のおよぶ範囲ではない。けれどもだ、いくつかの点においては、断言できることもある。そのひとつは、あなたの記憶、それもあっち側で得られた独自の記憶が、何らかの作用をひきおこして、結果が導き出される。天目くんが命拾いをしたのも、そのひとつだが、けれど、本当に彼を助けようと思って、傀儡の術を使ったのだろうか? てことだけど」 「うーん、うーん、それ何いってんの?」  まな美は質問の意味が理解できないようだが。 「いやね、これは裏に考えて、あっち側の彼としては、天目くんには死んでもらっては困る……んじゃないのかなあ、とも思ったりしたのよ。かりにそうだとすると、その彼が望んでいる最終結果は、この先に、つまり未来にさらに予定されている、といったことが、ほぼ自動的に導き出される。もっとも、その最終結果が何なのかは、さっぱりだが」 「ふーん、わかったようなわからないようにゃ」 「まさにそのとおりだけど」  竜介はまな美の顔をのぞき込みながら、 「それに、あなたの見た女の子の幽霊だけど、それはこっち側の生きていた姿と、まったく一緒?」 「うん、そうそう、服も一緒だったし、頭に乙女椿つけてた。乙女椿乙女椿……乙女ちゅばき」  といって、まな美はニコニコ笑う。 「するとやはり、現実映像を見る……以前に、つまり過去に、その幽霊映像を見ている……といった、原因・結果の逆転現象が生じてしまっている」 「あほんとだ。それがあの、因果律の狂い?」 「……てことになるんだろうなあ」  竜介も首をかしげながら、 「やはり、この種のことは難しいよなあ」 「おにいさんさっき、考えるのは無意味っていってたくせに、考えてるのね。それって、なんか盲点でもつこうとしてるにょ?」  まともなこといってるわりには、語尾が頼りない。 「うん、なんかあるんじゃないかと思ってね。これもある種のパズルだからさ、解けないこともないこともないはずなんだよなあ」 「しゃすが、その粘りと根性、すごいわねえ。やっぱ地球の壊れをなおすのって、大変そうね」  まな美は、心底、同情しているかのようにいう。 「いや、こっち側は、まだ壊れてないと思うよ。あっち側は何ともいえないが」 「うん? わたしが、その壊れの生き証人じゃないの?」 「いやあ、それはあっち側の証拠ではあろうけど、こっち側の、てことではないと思う。それにあなたの場合は、さらにもうワンランクの上の、もう空前絶後の……もはや単語がない!」  竜介は勝手に怒ってから、 「そんな次元の話が関係してそうな気もするので、それは後々にするとして、ところで、あなたの最近の記憶で、何かトピックスない? 幽霊を見た、に匹敵しそうなぐらいのもので、というのもね、そういった記憶が、何らかの引き金になるのかなあ、と思ったりもしたので?」 「ふーん、トピックシュねえ……」  まな美としては、約一件、即座に思い浮かんだ絵があったのだけれど、それは口が裂けても、おにいさんには話すわけにはいかない。 「ないわよねえ、うーん」 「そうだよなあ、そんな山のように入っている記憶の中から、どれが関係しそうかなんて、推測することすら不可能だよね。それに、おれが前にいった、たがいにいいようになるようにと、これも訂正だな。あっちの彼がいいようになるようにと、竜の時間やら何やらを使いまくっているわけさ。まあ、どっちにしろね、因果律が狂ってる場合は、途中のコマの動きは、これもまた推測不可能で、もうありとあらゆる人が、それこそ敵味方入り乱れて、奇妙な動きをしておきながら、突如ある一点で収束し、ストーンと最終結果があらわれる。そんな感じじゃないかと、おれは思うんだけどねえ。それに、その最終結果も、これまでの流れからいって尋常ではなく、驚天動地《きょうてんどうち》のしろもの、て感じはするよねえ」 「じゃあ、いよいよ、あれのお出ましかしら」 「うん? 何が?」 「だから、一寸法師」 「はっははは……」  竜介は笑ってあげる。 「それぐらいだったら、天目くん作ってくれるよ」 「ほんとう……」  まな美は目を輝かせていう。 「こうやって、手にのせてくれると思うよ」  竜介が手の平をさし出していうと、まな美も、おなじように手の平をさし出しながら、 「ここに、天目くんがのるの?」 「まあ、土門くんだっていいけど」 「やだぁ!」  まな美は手の平をひっくり返す。 「まあ、どっちにしても、その最終結果が出るまでは、動かない方がいいかもしれないな。実際、動けないんだけどさ。かりに悪あがきをしてもけっきょくはおなじ、いやあ、ヘタすればコマにされてしまうのがオチ、そういうのが、この因果律の狂いの特徴じゃないかなあ、なんてことを思ったりもするね。だから、おれは動かない。うん、それに決めた」 「うん、おにいさんが決めたんだったら、それが正しいと思うわよ」 「ほんとう」 「ほんと、だって今日わたしおにいさんの話ずーと聞いてきたけど、もうおにいさんは世界にひとりいるかいないかの大天才、そのことがよくわかった。よくそこまでどんどん深く考えていけるんだろうって、感動しちゃった」  まな美はちょっとしんみりとなっていい、 「あのね、土門くんがね、まな美さんにこんな冗談をよくいってたんだって。姫がスペシャルな謎ときをすると、ここには床の間はないけど、あの……ウイスキーの棚のあたりに、淨山寺のお地蔵さんや、慈覺大師《じかくだいし》が聞きにきてるぞうって、それに一寸法師も、みんなおにいさんの話を聞きにきてるぞうって。それにこれから、地球が壊れるって話、するんでしょう」 「うん、そのつもりだけど」 「地球の壊れって、どんなもののこというの?」 「それは、もうほんとうに壊れね。世界の崩壊」 「ええー……そんなことほんとうになるの?」 「なる」 「……ほんとうになるの?」 「なる」  竜介はタバコに手を伸ばしかけたが、やめて、 「あのね、われわれ人間は、その脳をとおしての、認識、でもって世界を認知して把握しているわけさ。ここが鍵ね」 「しょこが鍵ね、うん、覚えとくぅ」  竜介は、大丈夫かな、とちらっと彼女の顔を見てから、 「さあ、竜の時間に戻って、その過去へと行ってみよう。見える映像は、現在時間のそれと変わらない。その中にいる幻身は、やはり存在感があって、さまざまな物や人に触れたりできる。さて、この三六〇度の映像空間になる元情報を、特定の他人からだけ借りてきたとしよう。すると、当然、その他人が映像には出てくるよね。で同様に、幻身が手でさわったり、その姿を他人の目線の先にさらしたりすると、どうなると思う?」 「やっぱり、しょの他人の記憶になっちゃう」 「うーん、これぐらいじゃ影響はないんだ。実はわれわれも、日常的に他人の脳と情報交換をやっているのね。おもに空間映像の記憶だろうと、おれはふんでいるが、とくに目立った影響は、個人にはあらわれないのね。ときおり既視感《デジャビュ》がおこる程度さ。これはなぜかというと、個人が実際に見て保存している映像情報は、とくに日常的に見ていれば見ているほど、濃くなるので、まあ、密度のようなもので考えていただければいいが。かたや脳どうしの情報交換でもたらされる映像は淡いので、優位に立てない。だから実際には影響ないのね。——ところが、これは竜の時間の中、時の流れが通常とはまったくちがう。それこそ竜の意のままで、かりに一年を一秒で見たとしよう。すると人の一生なんて一分ちょっとさ。そんなふうに時間軸を動かしながら、その他人の家のとある場所で、幻身が一分ほど立っといてごらんよ、どんなことになる」  竜介は、もはや疑問符はふらない。 「ずーと家の中に、ぜんぜん知らない人が立っていた。しょんな記憶になる」  まな美はテーブルに乗り出しながらいう。 「さらに、その知らない人を、変化身で知っている人にすることも可能。あるいは、数百回線を同時に使って、数百人を相手におなじことも可能。立ってるだけじゃなくって、他人につきまとってもかまわないし、そのバリエーションは無数にあって、要は竜のアイデアひとつさ。そして今でこそ、映像を記録する装置はあるけど、ほんのちょっと前までは、そんなものはないよね。だからわれわれの過去というのは、その大半を自身の記憶によっている。それを変えられちゃうということは、すなわち……」 「んー、過去が変わるうぅぅぅ」  まな美はカウンター椅子の宙に浮いた足で地団駄を踏みながらいう。 「それに、変えられた側としては、そのことに気がつかない。自身の記憶なんだから疑いようがないし、これって、とんでもなく始末に悪いでしょう」 「ほんとだぁぁぁ」  といってから、まな美は地団駄をピタリとやめ、 「おにいさん。わたしそうやって過去を全部変えられちゃってるの?」  悲壮な顔で聞いてくる。 「いや、あなたは大丈夫、そうじゃないと思う」 「ほんとに?」 「ほんとさ。絶対[#「絶対」に傍点]に大丈夫[#「大丈夫」に傍点]」  そう竜介はいったものの、絶対の自信があるわけでも、一抹《いちまつ》の不安がないわけでもない。 「……よかったあ」  まな美は安堵のため息を長々とついてから、カウンターの木のテーブルに両の手の平で頬杖をついた。 「過去が変わる、これが一点。そしてもう一点、驚天動地のことがおこる。これはやり方は、ふたつあると思うんだが、そのひとつ、竜の時間の中で見られる空間映像は、なんだかんだいっても、けっきょくは竜の脳が作り出してるんだから、部分変更が可能だと思う。映像記憶は、背景映像、そして机や椅子などの小物類、そして人の顔、大ざっぱに三種類にわけられていて、脳のそれぞれ別の領域で保存されている。だから背景映像はそのままにしておいて、小物類でいきましょうか。そしてたとえば、えー家の中で一個しかないようなものといえば……」  竜介はしばし考えてから、 「よし、ピアノにしようか。ピアノが置かれている家を見つけて、やはり同様に、そこの家の人ひとりとコンタクトをとりつつ、そのピアノを本棚の映像とすり替える。さらに丁寧にやりたきゃ、その人がよそで目撃するピアノもすべてすり替える。そして同様に竜の時間を早廻ししたとしたら、その人の記憶はどうなるだろうか?」  今回は疑問符をふって、竜介はいう。 「それは、そのピアノがあったところが、本棚だった、とゆう記憶に変わる。けど、それでピアノの練習してたってゆうのは、変な話よね」 「……残念。本棚があったという記憶には変わらない。それはあくまでも、ピアノ」 「えっ? どうゆうこと……」  まな美が、竜介の顔をのぞき込むようにして聞いてくる。 「あのね、われわれの脳は、映像記憶はそれだけで保存しているの。そのピアノの絵がもつ名称や使い方などは、脳の別の領域にあって、それらを意味記憶というけど、映像記憶と意味記憶を、線で結んであるだけなのね。だからピアノの絵を本棚にすり替えられちゃっても、その結線は生きたままなんだ」 「じゃあ、その人が本棚を見たらどうなるの?」 「似た本棚だったらピアノだと思うだろうな。けど、おかしいなあ、音出ないじゃん、て感じ」 「じゃあ、ピアノを見たら?」 「ぜんぜん知らない、正体不明のしろもの」 「えー…………」  まな美は、それが何を意味することなのか、まだちょっと理解できそうにない。 「こういった映像の部分変更が難しい場合は、変化身を作って、物にかぶせてしまう。その方が簡単だろうとおれは思う。変化身は、サイズは自由自在だから、家を恐竜に変えることだって可能。これもやはり竜のアイデアひとつだろうな」 「そ、そんなことやっちゃうと、どうなるの?」 「最初にいったでしょう。鍵[#「鍵」に傍点]だって。つまりこれは、認識、を狂わされているのね。いかに物理や化学が正常であったとしても、脳の認識をとおして世界を把握している以上、その認識を狂わされちゃうと、それすなわち、世界が壊れているのと、同義」 「あら……、あら……、あら……」  まな美は、その壊れでも探すかのように、あたりをゆっくりと見廻す。 「認識を狂わされ、そして過去を変えられちゃうと、もう完全に世界は崩壊する。もっとも、そんな手短には竜もできないだろうから、じわじわやっていけばいい。が、これ今おれ話してて気がついたんだけど、要するに、万物創造の神……だよね。もうすっかりと別の世界に作り替えることも、可能さ」 「あら……、あら……、あら……」  まな美は、前を見すえて、ため息を三度ついた。 「そのうえ、竜の時間を、世界が崩壊しないように巧みにいじっていくと、土門くんがおっしゃったような、ぱられるわーるどー、ができるのかなあ、て感じもしないこともないこともない。けど、それはどういうものかと問われても、おれには説明は無理。それに、あっち側の竜が、今あるパラレルワールドを作った、というのもちょっと考えにくい。年齢的にいって若いからね。作ったんだとしたら、もっと過去の竜だろうね。それに世界を壊すのは簡単だけど、パラレルワールドにせよ何にせよ、世界を創造するっていうのは、すばらしい情熱でもないとできないと思う。そのてんでいくと、過去に、偉大な竜がいらっしゃったのかもしれない。とまあ、そのあたりが、おれが短い時間でひねり出した、超・究極の神が有する技能のあらまし」  竜介はいってから、まな美の顔の前で手をふる。 「くわっ」  カエルを踏んだような声を出すや、 「おにいさんの話ちゃんと聞いてたわよん」  まな美は必死に言い訳をする。 「で、いかがでした?」  竜介は彼女の顔を見ながら問いかける。 「うん、うん」  まな美は二度うなずいてから、 「おにいさんの話はぜんぶ理解できた。自分が理解できたことが信じられないけど、理解できた」 「じゃ、パパに教えてあげてね」  竜介がやさしくそういうと、まな美は、しばし黙りこくってから、 「……わたしが、今日聞いた話って、世界ではじめてわたしが聞いたの?」 「たぶんそうだと思うよ。おれが話すの、はじめてなんだから」 「似たような研究って、誰もやってないの?」 「うん」  竜介は素っ気なくうなずく。 「それはどうしてなの?」 「うーん、それは一番最初の前提が、みなさん信じられないからだろう」 「その前提って、なあに?」 「ごく単純で、他人の記憶が見える。ただそれだけ。これを十年ほど前に、ふとひらめいたのね。でひらめいた瞬間、これは真理にちがいないと、なぜか直感した。調べていくと、案の定、この種の現象をことごとく説明できた。やはり、真理だったわけさ」 「ふうん……」  まな美はゆっくりとうなずく。 「それともうひとつあってね、それは天目一箇命くん。漢字で書くと目が一個でしょう。これがいわば、神になるための、奥義」 「うん? 彼、別に目は悪くないわよ」 「まあ、見かけ上はね」  竜介はひそひそ声でいう。 「でもたぶん左目はほとんど見えないはず。それが脳の構造からいって一番ベスト。でもそういったことは、パパも知ってる」  まな美は、ふたたび少し沈黙してから、 「……おにいさんは、そのことを、ひとりだけでずーと考えてきたの?」 「そう、ひとりでね。最初のころは論理の骨子《こっし》をけっこうしゃべったんだけど、まあー冷ややかなこと。それに大学だから、左遷されたくないでしょう」 「じゃあ、ひとりでずーと考えてきて、今日、万物創造の神にまで来たのね。その先ってありそう?」 「うーん、もうさすがにないと思うけど……」 「じゃあ、おにいさん最後まで解いたのね」 「いちおう、まがりなりにね」 「おにいさん嬉しい?」 「まあ正直いって、あまり嬉しくないね。解けぬが華、ともいうようにね」 「でも、……でも」  まな美は、何を思ったか、カウンターのテーブルに精一杯に身を乗り出させて、 「……聞いてた。おにいさんの話聞いてた。世界ではじめての話だったのよ」  それだけささやきかけていうと、ストーンと椅子に座った。 「ありがとう」  竜介は、彼女の耳元でささやいた。 「ところで、五寸釘のことなんだけど、あなたは、あっち側の洞窟で、手にあれを刺した。そして気がつくと、こっち側だったわけだよな。そんな奇妙な話ってないよな。そんな奇異な。——奇異な」  まな美は、あ! と気づいて、 「神さまのかいじゃい」  威勢よくいった。 「そう、その介在ね。けど、それはあっち側の竜が、自身の技能でやった。それはまあ……ありえないとおれは思う。もしそれが可能だったら、もっともっと人が入れ替わるはずさ。すると、それは五寸釘そのものが有していた、特殊な作用ってことになる。ところで、天目くんは、日本の、とある地域にいる神さまだけど、いわば、地球の神さまだよね。けど宇宙は広くって、さまざまな星があって、が、宇宙全体を統括するような神がいるかどうかなんてことはおれは知らぬ存ぜぬだが」  竜介はひと口言葉のようにいい、 「その星星に神さまがいる、てことだけは、それは百パーセント賭けてもいい。その神さまだって、脳がある生命体である以上は、その技能も、そうはズバ抜けたものではないだろうと想像される。けれど、地球よりも千年ほど進んでいる星の神さまであったならば、使える神の神器は、それはそれは……もう想像を絶するものであろうと想像される。つまり、その種のものってことねえ」 「あんな古い江戸時代の、しゃびだらけの、ごしゅん釘が?」 「それこそ、認識を狂わされていて、そう見えているだけかもしれない。いやあ、そんな必要もないな。もう見かけも中身もまったくの五寸釘。けれど、われわれ地球人などには絶対分析不可能のハイテクがびっしりと詰まっている、五寸釘。それが寺の秘宝としてあったんだから、邪悪なものではけっしてないはず。いや、むしろ、ここぞというときに使うのよ、といったたぐいのお助けのための、神の神器。それを伝承にたくみにくるんで、託してあったんじゃなかろうかと、おれはふと思ったりもしたのね。あの世とこの世とをつなぐカギ、そんな伝承が、あの五寸釘にはあったようなんだ。たぶん寺の伝承だろうな。そういったことにあっち側の竜も気づき、あなたをこっちに飛ばそうと、たくみに傀儡を使って、あなたの手に五寸釘を刺した。もう……それぐらいのことしか、おれには思いつかない」 「しょれぐらいしか? しょれぐらいしか思いつかないなんて、もう謙しょんのしゃか立ちよ」  な、なんだかわかんない。 「しょれにしょーんなことまで……」  まな美は髪の毛を手でくしゃくしゃさせながら、 「……思いつくおにいさんなんて、もう地球人でしゅらもない」 「じゃあなんなんだあ」 「あ! しょうだ、そうだ、そうだ、そうだ」  まな美は嬉しそうに何度もカウンターのテーブルを叩くや、 「おにいさんこそね、その星星にいる神さまとやらの、——くぐちゅー!」 「な、なにを馬鹿なことを」 「てやんでぇい!」 「カ、カジさん、みじゅ、みず……」      ※  みごとでしたね みごとでしたね  あそこまで思考できる人間が いたとは  すばらしいですね すばらしいですね  知恵をさずけたかいが ありましたね  よかったですね よかったですね  世界を すくって くれるでしょう [#改ページ] 第四章 「雲」  17 「篠原《しのはら》さんにはですね、依頼が二件ほど入っているんですが、ひとつは、あの高級腕時計のパテ……」  担当マネージャーの木島《きじま》という中年女性がデスクに座ったままで資料を示しながらいう。 「……以前にも、CM撮影を一度やられていますよね。先方さんが、あなたの手首のラインにぞっこんでしてね。また今回も是非にと」  篠原|麻衣子《まいこ》は、うなずいて承諾した。  彼女はデスクの横で立ったままである。 「もう一件はですね、こちらは、通販のカタログの春物の衣装モデルなんですが」  といって木島が顔を見るので、麻衣子は、首を横にふって断った。 「そうですよね。とくにこれといって、芸歴《キャリア》にはプラスになりませんからね。えーこれがその時計の方の日程表です。ひとつ時間厳守お願いしますね」  そう早口にまくし立てられ、その日程表を手渡されると、麻衣子は担当のデスクを後にした。  もちろんのこと、彼女には専属のマネージャーなどはついていない。  ここは、青山の骨董通りから道一本入ったところに小さな三階建の自社ビルを構えている中堅の芸能プロダクション、『ムーン・オフィス』である。業界では老舗《しにせ》で、十年ほど前までは『琢磨《たくま》企画』という名称だった。  その事務所の中にいると、いやがおうでも、今や社の看板女優である、小田切美子《おだぎりよしこ》のポスターが目に飛び込んでくる。壁や廊下のそこかしこに張られているからで、来年の大河ドラマへの主役級での出演が決まっており、来春からは夜九時の連続ドラマも内定していて、それには妹の小田切|美紗《みさ》も、端役《はやく》ながら出るそうである。  麻衣子は、そのポスターを横目に見ながら、  二ヵ月ほど前までは鳴かず飛ばずだったのに、復活して急に売れ出したわよね。芸歴も立派だし基礎もしっかりされているから、売れると強いわよねえ。  そんなことを思ったりもする。 「しのちゃん、元気……」  通路ですれちがって、つい一、二ヵ月前までの担当だった吉田《よしだ》というマネージャーが手をふってきた。 「……だぁらあれほどいったじゃない。なんで高校やめて来てくれなかったのよ。高卒で来られちゃうと、こっちとしては余裕ないんだよ」  余裕? といいますと? 「あのね、最初からクギさしとあげるけど、単なるアイドル、単なる可愛い女《こ》、単なるもろもろ、この単なるで売る場合は、二十一歳、これが限界なんだ。二十二歳は魔の数字、二がふたつ並んでんの見ただけで、みーんな逃げちゃうの。こら芸能界の掟《おきて》よ」  巻き舌ぎみにしゃべる三十代なかばの男であった。  二十二をすぎれば、どうすればいいんですか? 「あー、たまーにいるじゃない、三十ぐらいでポッと売れる女優、あのへんをねらうか、まあー、演歌歌手かな」  また彼はこんなこともいった。 「しのちゃんさ、あなたちょっと整いすぎなんだわ。あごに黒子《ほくろ》があるとか、八重歯がとがってるとか、そういう個性があると売りやすいんだけどなあ」  そんなことをいわれてもと、麻衣子は困惑した。これは親から生んでもらった、たぐいまれなる、どこといって欠点のない、奇麗《きれい》な顔と体である。 「内緒内緒、ちょっと内緒の話あるんだけど、さっき会ったP、しのちゃんのこと気にいってくれてさ、ドラマでいい役もらえそうなんだよ。わかるだろう、いってること……」  麻衣子は、その手の誘いには、いっさい乗らずに断ってきた。けど、今にして思うと、そのひとつでも受けていれば少しは変わっていたかしらと、後悔の念がないわけでもない。  麻衣子は、来年の六月で、その限界の二十二歳になってしまうからだ。それに最近は、その手の誘いすらもまったくといっていいほどない。  が、そこそこに仕事はある。高級腕時計のCMもそうだが、これは顔の出ない、いわゆる手タレである。しかし手タレになるために芸能界に入ったわけではない、とも麻衣子は思う。  事務所から外に出た。今日も、冬の青空が広がっている。  さあ、本名に戻らなければ……そう玲子は思う。  そして、また今日も一日、あの役を演じる。  わたしは恋人、わたしは恋人、わたしは恋人、わたしは恋人、わたしは恋人…… 「条件は、たったのふたつなんですよ」  トマスと名乗る品のよい外国人はそう語った。  どんな条件なんですか? 「ひとつは、とある男性の恋人になっていただきたいこと。そしてもうひとつは、この依頼の件は別にいたしまして、その彼に、嘘《うそ》はつかないでいただきたいんですよ」  恋人ですか? 「そうです。その彼はですね、お家の特殊な事情で、結婚ができないんですよ。そういうのって、あまりにも不憫《ふびん》でしょう。ですから、あなたのようなお美しい女性に、ぜひ恋人になっていただきたいんですよ。あっ、こういうのはもちろん内緒話ですよ。聞かなかったことにしておいて下さいね」  ほんとに、恋人だけでいいんですか? 「もちろん、それ以外のことはいっさいお願いいたしません。それは神に誓っていえます」  それって、いつまで続ければいいんですか? 「そうですね……」  彼は少し考えてから、 「さしあたって、ひと月ということにしましょう。ひと月、恋人を演《や》っていただければ、あなたの借金を半分消しましょう。それより先は、またその時点で、あらためて考えさせてください」  ほんとに、ほんとに恋人だけでいいんですね? 「二言《にごん》はありません。おっと、これは重要なことですが、嘘はつかないこと。それと、設定の方は、どう出会うかなどは、こちらに任せさせてください」  あのう、もしわたしが、うまくできなかったら? 「その場合でも、大炊御門会長さんとの契約は、まだ生きていますから、ご安心を」  その会長さんとは、彼の高級ベンツの中で玲子ははじめて顔を合わせた。 「見てのとおりの、おれはもう老人だ。あなたを喜ばせてあげることはできない」  じゃ、どうして、あんな高額でわたしをセリ落としたんですか? 「まあ、こういった仕事をやってるとね、どうしてもくどきたい男ってのがいるのよ。そういうときの、いわば、貢《みつ》ぎ物になってもらいたいんだ」  貢ぎ物ですか……。  それにはさすがに、玲子も耐えられないと思った。 「いやいや、そんな、せいぜい月に一あるかないかの話よ。ここぞというときの切り札として使いたいので、そんな無茶なお願いはしないさ。それに、住むマンションの方も、それなりのものを」  玲子は、マンションの申し出は断った。もう完全に飼われている気分になりそうだったからだ。  ところが、自宅に帰ってから一時間もしないうちに、会長の秘書と名乗る男から電話が入った。 「条件が少し変わりまして、ハンサムな外国人がひとり、そちらに行きますので、話を聞いてやってください」  そしてやって来たのが、トマスであったのだ。  ……わたしは恋人、わたしは恋人、わたしは恋人、わたしは恋人、玲子は、自身にそういい聞かせた。      ※  自宅にいると、『くらぶ葵』から電話が入った。  今日も、彼は、わたしを指名してくれた。  しばらくすると迎えの車が来て、渋谷のいつものホテルの真ん前まで送り届けてくれた。  今日は三〇一号室とのことであった。  どんな映画の部屋なのか、少し楽しみだった。  ドアをノックすると、彼が開けてくれた。 「ありがとうございます」  わたしは、少しだけ頭を下げる。 「昨日は楽しかったよね」 「はい、わたしも」  わたしは微笑《ほほえ》みながら椅子に腰をおろした。  あら、なんの椅子かしら……車椅子のような形をしているけど、車椅子ではない椅子だ。 「昨日、あちこち歩き廻って、疲れなかったあ」 「うーん実は、ちょっと疲れちゃったのかもしれません。気がついたら、ベッドの上で寝てしまっていたんです。そんなことわたし、めったにないのに」  ここの室内は、アメリカかどこかの古びたアパートの一室のような雰囲気で、それに壁には大きな窓があって、その向こうには建物の絵があって、その建物にはたくさんの窓が描かれている。 「あ……ここは『裏窓』ですねえ」 「そうそう、だから車椅子なんですよ」 「あっ、あのカメラマンの男性、足を骨折していましたよね」 「だからといって、本物は置けないから、特注で作らせた椅子なんでしょうね」 「うわあ、わたし、あのグレース・ケリーの衣装を思い出しちゃいました」 「いや、あれはほんとに奇麗かったですよね。白いふわあとしたスカートで、それで、彼女が椅子に腰かけるシーン。別にどうってことはないんだけど、あの映像が頭から離れない」 「あれほど奇麗で上品な女性が、美しいドレスを身にまとって、こういったアパートをたずねる。そこには、どう見たって中年の……それほど素敵とは思えないカメラマンの男性がいて、恋をしている。そんな設定がおもしろいんでしょうね」 「そのグレース・ケリーが、なんかご飯作ってあげるよーて、台所に入っていくシーン覚えてません。その台所の中が出てきたかどうかは、ちょっと覚えてないんだけど、その台所への入口、それがちょうど、こんな造りだったんじゃないですかねえ」 「あっ、そういわれてみれば……」  その先はつまり、浴室や洗面になっているのだ。 「玲子さん、今日もどこか、外へ行きませんか」 「あら、今日もですかあ」  わたしも少し嬉しく思った。 「うーんと、ぼく一度は、下北沢に行ってみたいんですよ。ちょっとした知り合いの関係で、よく話に出るんですね。それを聞いていると、なんかむちゃくちゃ面白い街みたいで。けど、玲子さん近すぎますよねえ」 「そうなんですよ」  知り合いも多く住んでいることだし、顔を合わせてしまう危険が高い。 「じゃあ、浅草《あさくさ》っていうのは、いかがです」 「あー、あの有名な」 「わたしも近くは、車で何度かとおったことはあるんですけど、まだ一度も、仲見世《なかみせ》などには入ったことがないんですよ」 「じゃ、その浅草は候補においといて、あとぼくが行きたいところはですねえ……うん? 玲子さんどうしました? 玲子さん?」  ——あ! 「お、御神《おんかみ》さま……ど、どうしてここに」 「れ、玲子さん! 今何したの?」      ※ 「わたし、どうしてここに立っているんですか?」  玲子は、ベッドの手前で呆然と立ちつくしている。 「な、何いってるんですか、玲子さんがいきなり立ち上がって、そしてつつつっとここへ走ったんじゃないですか」 「そんなこと、何も覚えてませんよ」 「それに、ここに御神が、いや、高校生ぐらいの男の子が立ってたの、見えませんでしたかあ?」 「いったい、何のことですかあ」 「あっ、えっ、催眠術か何かかなあ、それに自分もかかってるのかなあ」  竜生は、見えた御神が何なのかわからないのである。幻身《げんしん》やら幽霊やら変化身《へんげしん》などについては、いっさい知識はないからである。 「それに玲子さん、そのとがったもの、手には何を握ってるんですか?」 「あら……」  玲子は、握りしめていた右手をゆっくりとひらいていきながら、 「な、なんなんでしょうか? わたし、一度も見たことがないものなんですけれど……」 「古い五寸釘だなあ。ちょっと貸してくださいね」  竜生は、それを手でつまみあげると、 「えー、これで御神を刺したら、御神が消えちゃったってこと? あらわれたのも不思議だけど、こんなもので? こんなもので? こんなもので何がおこるっていうの」  いいながら竜生は、自身の手の平に、その五寸釘の先端を何度もつき立てる。 「ち、血が出ちゃいますよう」  それを見て、心配そうに玲子はいう。 「いやあ、ふつうの五寸釘だ、こんなものう」  竜生は釘をつき立てるのをやめた。 「そのおんかみって、なんのことなんですか?」  玲子がおずおずとたずねる。 「それも、ちょっと説明しづらいんですが、けっして悪いものなんかじゃありません。ほんとに御神で、神さまだと思ってください」  竜生は、悪い予感や胸騒ぎなどはとおりこして、ぞくぞくと寒気がしてきた。 「えー、どうしたらいいのかなあ」  竜生は対処の仕方が皆目わからない。 「あー、まいったなあ」  自分は咎《とが》めをうける覚悟はあっても、彼女を屋敷に連れていったりすると、ある種の袋だたきだ。 「うーん、困っちゃったなあ」  誰か助けてくれる人いないかな、いないかな、いないかなあ……  竜生は、とあるひとりの男性が、頭に浮かんだ。  一度打ち消したが、別の候補は浮かんでこない。 「……もう、あの先生に頭を下げるしかない」  竜生はやむをえず決意する。 「あのね、この種のエキスパートの、超えらい大学の先生がいますから」  内心そこまでは思ってないが、 「ともかくも、そこへ行きましょう」  と這々《ほうほう》の体《てい》で竜生は、携帯電話をとり出した。 「たしか、T大学だった。ナビでわかる?」 「見てみますね……」  良樹はゆっくりと車を走らせて、ホテル街から抜け出しながら、 「……キャンパスが三ヵ所にありますよう」 「だったらね、たしか心理学の先生なので、そういうのでわかる?」 「うーん……そうしますと、文学部・経済学部・医学部があるキャンパスでしょうか」 「そこだそこだ。文学部の心理学科だ。だからそこに急いで……」  受付がいうには、先生は、文学部本館の四階におられ、ただしエレベータは一個のみで使うときわめて遠廻り、とのことだったので、中央階段を駆け上がって、そして古ぼけた通路をどんどん歩いていくと、建物のどん詰まりのような場所に、『情報科・分室』の研究室と資料室があった。  うわあ、えらいとこ来ちゃったなあ、とも竜生は思いながら、玲子を背後になかば隠しながら、とりあえず、その研究室の方のドアをノックした。 「はい……」  するとドア口に出てきたのは白衣を着た女性で、 「あっ、なにをなさりに来てるんですか?」 「あー、静香さん、ここにいらっしゃったんだあ」  桑名竜生と西園寺静香は、又従兄妹《またいとこ》の関係である。  各々の祖父と祖母が兄妹だからで、もっとも、その兄妹は戸籍上だけで血はつながってはいないが。 「すいません、気が動転してたので、すっかり忘れてました」  竜生はささやいて謝ってから、 「ところで、先生とお会いしたいんですが?」  急《せ》いて本件をいう。 「火鳥先生は、先ほど、急用だとかいわれて、飛び出されていかれましたけれど」 「え! それって、どれぐらい前ですか?」 「えー……十五分ぐらい前だったかしら」  静香は腕時計を見ながらいった。  竜生も昨日とおなじ高級腕時計に目をやりながら、 「いやあ……すると、時間的にちょうど合うなあ」  渋谷のホテルで異変があったのは、今から約二十五分前である。 「うわー……どうしよう」  竜生は泣きたい気分になってきた。 「いやね、たぶん先生は、埼玉の御神のところに飛んでったんだと思います。うわー……」 「んもう。男でしょう。めそめそしない」  歳下《としした》の静香に怒られ、 「廊下で立ち話はできませんから、隣の資料室のドアから入って、奥にある赤いソファに座って待っていてください。わたしがすぐに行きますから——」  竜生はニラまれた。彼がこれまでに見た中では、一番こわい静香さんの顔である。  静香は部屋の中に戻るや、 「中西さん、五月女さん、ちょっと隣がとり込みそうなので、こんな時間で悪いですけれど、もう帰っちゃってください」  機転をきかせて追い出してから、コーヒーをポットごと、そしてカップなどをプラスチックのお盆にのせると、内扉を抜けて資料室へと入っていき、 「お待たせしました」  お盆ごと応接テーブルの上に置くと、自身は、いつも竜介が座っている回転椅子《デスクチェアー》に腰をおろした。  すると竜生が、せっせと三人分のコーヒーをカップに注いでいる。竜生の立場は、まっこと弱い。 「火鳥先生は、まだ向こうにも着いてないと思いますので、とりあえず、わたしがお話をおうかがいしますね」  静香はやさしい声で、とくに彼女に向かっていう。 「えー、こちらは御厨屋玲子さんといいます。こちらは、西園寺静香さんでいらっしゃいます」  竜生はていねいに紹介をしてから、いきさつを大ざっぱに話した。  静香は、とくに驚いたふうもなく聞くと、 「じゃあ、その催眠術に関してですが、玲子さん、ここ最近で、記憶が途切れているようなところ、ありませんか?」  やさしい口調でたずねる。 「……はい。昨日の夜の、八時すぎから十二時ぐらいまでの間が、覚えがないんですよ」 「なるほど、そうしますと、それは、おそらくそうだろうと思いますね」 「それと、御神がゆらゆら……とした感じになって、ふわ、と消えたんですけど、その原因かどうかは不明ですが、これが、そのときに彼女が手に握っていた釘なんですよ」  竜生は、それを静香に手渡した。 「はい。じゃあこれは、先生のデスクの上に置いておきますね。けれど、こういったもので刺そうがどうしようが、影響はないはずなんですけれどもね」 「いや、そんな、釘で刺されれば痛いでしょう」  静香は一瞬、何のことやらと思ったが、 「あ、はいはい、竜生さんに見えていたのはですね、ある種のホログラム映像なんですよ。あなたが、自身の脳で作って見ている、立体映像ですね」 「あっ、御神は、そこに立っていたわけじゃないんですね」 「ええ、あれは映像で、実体は別のところです」 「あー、ほんと、よかったあ」  竜生は、それなりに安堵《あんど》のため息をついた。 「まだ着いてないでしょうねえ……」  静香が腕時計を見ながらいう。 「ところで、そういったホログラム映像の実験を、ここでされているんですね。先生や静香さんは」  人心地ついたこともあって、竜生はたずねる。 「いえ、残念ながら、まったくできないんですよ。それは、脳にだけ見えている映像なので」 「あっ、そうか……じゃあ、そういった理論だけがあるんですか?」 「そうです。火鳥先生がおもちの、独自の理論だけがあるんです」 「へー、その理論が、あたってるわけですねえ」 「あたってる、そんなレベルではありませんよ」  静香はニラんでいう。 「じゃあ、もうノーベル賞級の理論なんですね」  竜生としては最大限のおべんちゃらをいう。 「そういうものも超えているんですが、先生の理論が証明されるのは、脳に見えている映像が、そのまま、モニターなどに映し出される時代になってからです。それで理論が証明されて、そこから、また新しい世界がはじまる。それほどの理論です」 「うわあ、新しい世界……そんなにすごい先生だったんですねえ」  といいつつも、竜生は半信半疑ではあったが。 「竜生さん、火鳥先生とは、お親しいんですか?」  静香は、とっても疑問に感じてたずねる。 「いやあ、先生は屋敷によく食事に来られるんですが、おもに竜蔵さんと話されていて、それに説明しても仕方のないようなことがうだうだとあって、実は、あまり親しくないんですよう」 「うーん……困ったら皆さんここに来られるんですよね。それほど親しくはなくっても」  静香としは稀《めずら》しく厭味《いやみ》をいってから、 「でも実際どうしましょうかね……じゃあ、ころあいを見計らって、わたしから電話を入れましょうか、その方がスムーズでしょうから」 「いやあ、助かります」  竜生は深々と頭をさげていう。 「あっ、そうそう、玲子さん、お願いがあるんですよ。説明できない複雑な事情がありまして、わたしと、竜生さんとは、知り合いではない、ことになっておりますので。ですから、わたしが、ふたりからこうやってお話を聞いたことも、まったくなかったことにしていただきまして。以上の件なんですが、是非にお願いいたします」  静香は頭をさげていう。 「そんな、頭をあげてください。——はい、絶対に話さないとお約束します。わたしは、もう人は裏切りたくはありませんので」  その玲子のいったことを聞いて、竜生は、どこか百年の恋が冷めた気がした。 [#改ページ]  18  竜介が、浦和市郊外にある、とある病院に着いてタクシーから降りると、前の道から病院の玄関からロビーから廊下から、そこかしこにアマノメの陰《かげ》が立っているのがわかった。全員が、竜介の顔を見て小さく会釈《えしゃく》するからである。  このものものしさは、なんだ。なかばあきれながら竜介は驚く。 「すいませーん、先生……」  声がした方を見ると、政嗣が廊下をすべるように駆けてきていた。 「……すごいことになってるみたいだね。ところで、ここは氏子《うじこ》さんの病院?」 「いいえ、一般の病院なんです。学校から、こちらへ救急車で運ばれまして、もちろん、陰の車がまわりを護衛しておりましたが、そんなことよりも、まずは三階へどうぞ……」  政嗣に案内されるがままに竜介は病室に向かった。  病室の前にも、無論、陰は多数いる。  そのドアの前に立ってから、竜介は深呼吸をした。  たとえ何があっても冷静に対処する、そう自身にいい聞かせながら。  竜介は、ドアを開けて入った。  もちろんそこは個室で、人は意外と少ない。  竜蔵さん、政臣さん、そして白衣を着た先生、の三人がベッドをとり囲んでいた。 「先生、すいませんです」  竜蔵が、やや震え声でいって会釈し、政臣が頭を垂れているのが目に入ったが、竜介は白衣の先生のところへと歩んでいき、 「はじめまして。ぼくはですね、T大学の、認知神経心理学の、室長をしております、火鳥といいます。容体を教えていただけますか?」  いいところどりの自己紹介をする。 「あ、これはこれは、じゃあご専門ですね。わたしは、脳神経科医の和田《わだ》といいます。ちょっと、部屋のすみにでも……」  竜介は従った。  和田医師は、竜介よりもやや年上のようで、おだやかな感じの男性である。 「えー、CTスキャンも、そしてMRIもとってみたんですが、わたしが診《み》るかぎり、まったく異常は認められませんでした」 「倒れたときの様子とかは、わかりますか?」 「それは、聞くところによりますと、学校の授業中に、席についていて、突然、意識をなくされたそうです。そして救急車の中で、意識は戻ったようなんですが、それ以降、ひと言もしゃべらないんですね」 「ふーん」  元来、彼は無口ではあるが、そういったことではないだろうと竜介は思いながら、 「わかりました。じゃ、会ってみます」  ふたりは、ベッドの方へと戻っていった。  彼は、頭を枕にのせて、まっすぐに天井を見すえながら、ベッドに横になっていた。ときおり瞬《まばた》きはするが、顔は無表情である。 「マサトくん。ぼくですよ、ぼくですよう」  竜介は手をふりながら、声をかけた。  すると、彼がゆっくりと竜介の方に顔を向けた。 「マ、マサトさま……」  竜蔵が、少し華《はな》やいだ声をかける。 「今までは、そういった反応すらも、なかったんですが」  和田医師が、竜介の耳元でささやく。 「マサトくん、どう? ぼくのことは、もちろんわかるよね。いつも晩飯を食いにいって、ばかなことばっかしいってる先生だよ。ほら、こないだ、手品をひとつ教えてあげただろう。あれはもう、できるようになった」  竜介は、あえて、とりとめもないことを話す。  彼が、ガバッといきなりベッドから上半身を起こすや、右手で、宙からふっと何かをつかみとったような仕草をした。  一同、おおう、とどよめいた。  彼は、その握りこぶしを真っすぐ前につき出し、そして、その手をゆっくりとひらいていくと、その手の平の上には、緑色をした小さな…… 「……わっ、どうしてイチゴのヘタが」  和田医師は驚きの声を発し、 「上手になったねえ、けど、それは手品だったっけなあ。マサトくん、そういうのはインチキっていうんだよ」  竜介が軽口をたたいていう。  彼は、つぎには、その手をゆっくりととじていく。そして、ふたたびゆっくりとひらくと、イチゴのヘタは、手の平から消えていた。 「なっ、なんと……」  和田医師は信じられないといった驚愕《きょうがく》の声でいい、 「先生、い、今のはなんなんですか?」  竜介に耳打ちしていう。 「あれこそ手品ですよ。ネタは単純なもの」  大嘘をついて竜介はごまかした。  彼が、やおら竜介の方に顔を向けた。 「おまえを、待っておったぞ」  ——重々しい声でいった。 「マサトさま、ようやくお言葉を」  竜蔵はやや安堵の声でいったが、 「あ、待っていてくれたのか、ありがとう。じゃ、ぼくが来たんだから、もう大丈夫だよね」  と竜介はいいつつも、その不気味な彼の笑顔に、尋常ならざるものを察した。 「おまえの願いは、かなえられたであろう」  嬉《うれ》しそうに、朗々と彼はいう。 「うん? ぼくの願いって、なあに?」  竜介はおだやかな声でたずねる。 「おまえの願いは、かなえられたであろう」  体じゅうをふりしぼって、怒り声で彼はいう。 「いやあ、どんなお願いしたっけえ……」  さすがの竜介も、ややうろたえぎみだ。  彼が、病室のドアの前あたりで立っていた政嗣の方を指さしながら、 「おまえたちの願いも、かなえられたであろう」  竜蔵と政臣の顔を見やりながら、嬉しそうにいう。 「おまえたちの願いも、かなえられたであろう」  さらに嬉々とした笑顔で、ふたたびいう。 「マサトさま、この爺《じい》めが、いったいどのような願いを?」  ——パーン!  彼は、激しく柏手《かしわで》を打つや、 「黄泉返《よみがえ》りを願ったであろう」 「黄泉返りを願ったであろう」 「願いはかなえられたであろう」 「願いはかなえられたであろう」  三人をねめつけ廻しながら、いった。  そんなこと誰が願ったんだ?  誰が黄泉返りを願ったんだ?  誰が?  誰が?  誰が——  竜介はそう自問していて、すべての謎が解けた。  すなわち、これが最終結果だ!  信じられない!  なんてことだ!  それは、竜介が想像していたことなど、はるかに超越している。  あっちの世界で、誰かが黄泉返りを彼に願ったんだろう。それはおれかもしれないし、竜蔵さんかもしれない。その他もろもろの人が、彼に願ったんだろう。その願いがかなう異世界を見つけて、そこの御神と入れ替わりやがったんだ。  な……なんてやろうだ。  そら、おまえから見りゃ、願いはかなってるだろうが、われわれから見りゃ—— 「われは、人の生死与奪《せいしよだつ》をつかさどる神なり」  彼が、また語りはじめた。 「——摩多羅神《またらじん》にて、泰山府君《たいざんふくん》にて、新羅明神《しんらみょうじん》にて、そして閻魔大王《えんまだいおう》なり」  それだけを朗々と語り終えると、彼はすーとベッドに横になった。 「——まずい」  竜介は短くつぶやくと、和田医師の白衣をひっぱりながら、 「竜蔵さん、ちょっとこっち」  声をかけて、部屋のすみへと集める。 「竜蔵さん、ごらんになってわかったと思いますが、もうまったくの別人……別神《べつがみ》ね」 「それは、いわゆる多重人格症のことですか?」  和田医師が聞いてくる。 「うーん……」  竜介はちょっと考えてから、 「ええ、そう思っていただいてけっこうです。それと竜蔵さん。竜の時間って、ご存じですか?」 「……はい。伝承としては、存じておりまするが」 「その竜の時間に、彼は今、入ってるわけですね。ああやって黙りこくっているときは、いつも、そこに入ってるんです。何か面白いものはないかって、あちこちを見まくってるわけですよ。そして何かを見つけると、ガバッと起き出してきて、あの錚々《そうそう》たる地獄神の雰囲気からいって……誰それが死ぬ……なんてことをいい出すはずです。そしてこれを一度いわれちゃうと、確定を打たれたも同然で、もう誰がどうあがいたって、変更できません。さらに雰囲気的にいって、よその国の誰それが死ぬ、なんてことはいわないでしょう。身近にいる人間の耳目《じもく》をひくような、つまり、その関係者の生き死にの話題をふってくるはずです。その方が、神としては君臨できますからね。だから余計にまずいんです……とはいっても、具体的にどう対処すればいいかなあ」  竜介は、いいたいことだけを小声でまくし立ててから、沈黙する。 「あのう、わたくし、先生のお話をまったく[#「まったく」に傍点]理解できないんですが」  和田医師が憮然《ぶぜん》としていう。 「あー、これを先生に理解していただこうと思うと、先生がすばらしく柔軟な頭脳をおもちであったとしても、約十日はかかります」  竜介は、なかば本気でいい、 「あ、そうそう、いい手を思いつきました。彼を眠らせてください。二十四時間、びったり眠らせてください。起きられるとダメですから」 「そ、そんな無茶な。こころや意識はさておき、脳や体はまったくの健常体なんですから」 「いや、そういわれても困っちゃうんだけど、その意識が問題なので、意識を朦朧《もうろう》とさせないかぎり、彼は竜の時間の中で、あばれまくっちゃうんですよ。あ、そうだそうだ、幽体離脱《ゆうたいりだつ》をひきおこす睡眠薬がありましたよね……そうそう、たしかビタミンK。こういった類《たぐい》は使わないでくださいね。ごく自然な睡眠になるようなやつを」 「わたくしは、そもそも承諾してませんよ」  和田医師は頑《かたく》なにいう。それも当然のことだが。 「いえ、先生には、ご迷惑はおかけいたしません」  竜蔵が割り込んできていう。 「わたしどもで、早急《さっきゅう》に、手配いたしまするので」  と、そのときであった、竜介のマナーモードにしてあった携帯電話が震えた。  出るまいかとも思ったが、話も一段落したことだし、竜介は出てみた。 「……あっ、西園寺さん……えっ? ぼくの知り合いが研究室に来ている……今、ぼくがいるところと関係があるって……ええ? そして急用。大至急。いやーごめんね西園寺さん。そんなわけのわからない話がいっちゃって……はい、すぐそっちに戻りますよ」  竜蔵は、その彼の声を横で聞きながら、静香さんに関係する複雑な事情を今話せばうまく事がおさめられるか、とも一瞬ひらめいたが、何よりも御神のことが最優先なので、ぐっと堪《こら》えた。 「えー、そんなわけでしてね、こちらの事態と関係がありそうな、ふたり連れが、大学の研究室に来ているそうで、ぼくはいったんそちらに戻りますよ」  竜介がそういうと、 「——政嗣。おまえが先生のお供をしてさしあげろ、車は二台」  政臣が、落ち着いた声で指示を出した。 「——はい」  政嗣は、もちろんふたつ返事である。 [#改ページ]  19  政嗣をいれて陰の男たち五人とともに、車二台でT大学の文学部本館の前の道につくと、 「あれ、あの車の横に立っているのは……良樹くんじゃない」  政嗣がいい出した。 「それ、誰なの?」 「はい、竜生さまの、おつきの運転手なんですよ」 「竜生さんって、あー、そうかそうか、夕食の席についている彼ね」 「さようです」  車から降りて、全員でそちらに行ってみると、 「あっ、政嗣さま……」  良樹は平身低頭で頭をさげる。 「良樹くんがいるところからして、先生の研究室に来られているのは、竜生さま?」 「さようでございます」 「ふたりとかいってたけど」  竜介が問う。 「えー、もうひとりは女性のかたでして」 「どんな女性?」 「それはもう……絶世の……美人ですが……」  良樹は、口はばったくいう。 「あーん?」  竜介は、ちょっとお道化《どけ》た声でいってから、 「そんなふたり連れだったら、こんな大人数で行く必要ないな。政嗣さんと、もうひとりでいいよ」  そして四階の『情報科・分室』に着くと、男ふたりを廊下で待たせておいて、竜介は、研究室の方にまず入った。 「西園寺さん、ごめんなさいごめんなさい。客人は、まだ隣にいるんでしょう?」 「はい、いらっしゃいます」 「ぼくが今から入るけど、まあ大丈夫だとは思うけど、何か異常を察したら、西園寺さんは、ほっといて逃げてね。で逃げながら……一一〇番して」  竜介は茶目っ気をだしていってから、 「それにもう、お茶もいらないですからね」  竜介は内扉をノックしてから、資料室へと入り、 「お待たせしました。さらに、少し待っててね」  ソファの方に手をふっていってから、廊下のドアを開けて、男ふたりを中に招き入れた。 「ドアは二ヵ所しかないので、ここにひとり、そして政嗣さんは……」  と彼を誘導しながら、 「もう一個のドアはそれだから、このスチール椅子で、この書棚の陰あたりで座っといてよ」 「いえ、自分は立っておりますが」 「いや、そうされると、話ができないんで」 「はっ、さようでございますね」  政嗣は会釈して指示に従った。  竜介は、 「お待たせお待たせ……」  ことさら朗《ほが》らかにいいながら、ゆっくりと歩いていき、そして定席の回転椅子《デスクチェアー》に腰をおろした。 「すいませんすいません、先生すいません」  竜生はくどくどいって頭をさげてから、 「こちらは、御厨屋玲子さん。そしてこちらは、火鳥先生でいらっしゃいます」  ていねいに紹介をし、そして静香に話したのと同様のことを説明した。 「……なるほどね、彼の姿を見たらつっかかるようにと、後になってから発動するような催眠術を、かけられちゃってたんだろうな」 「先生も、催眠術とかは、お得意なんですか?」  竜生がたずねる。 「まあ、心理学だから、いちおうは知ってるんだけど、実はあまり得意じゃないんだ。おれそんなふうに人をだますのって、ちょっと性《しょう》にあわなくって。どちらかというと、おれは手品の方が自信あるんだ」 「うわっ、あらら」  竜介の右手の指先に、ぱっ、と指揮棒があらわれて、竜生が驚いた。  緊張ぎみだった玲子の顔も、一瞬、華やいだ。 「これよく見ていてねえ」  竜介は、彼女の目の前で、その白い指揮棒を左右にゆっくりと揺らしていく。 「わっ、二本に増えた」  竜生は素直に驚く。 「あっ、また一本に」  竜介は、さらに指揮棒をゆっくりと揺らしていきながら、いっそのことおまえも眠れ、と思いつつ、 「さあ、まぶたが重たくなってきたでしょう……」      ※ 「……あや」  竜生が気がつくと、窓の外には夕暮れがせまってきていて、隣に座っていたはずの玲子の姿はなく、竜介はというと、仕事机《デスク》に向かってひたすら書き物をしていた。 「……先生。……先生。いったい何がどうなっちゃったんですかあ?」  ほうけた声で竜生はいう。 「あーん、目が覚めたか。おれ考え事したかったんで、そのまま眠っといてもらったのよ」 「え? すると、自分は催眠術にでもかかっちゃったんですかあ。あれえ、それは得意じゃないとか、人をだますのは性にあわないとか、先生、そんなこといってませんでしたあ」 「ん、なんか悪い夢でもみたんじゃないの。きみ目覚め悪いねえ」 「そ、そんなあ……」  竜介は回転椅子の向きを彼の方に変えながら、 「まあ、せっかく起きたんだから、話してやらないといけないよな。竜生ちゃん!」 「は、はい……」  竜生は、条件反射的に、うなだれる。  氏子や陰からはさまづけの彼だが、先生からはちゃんづけされても、文句がいえる立場にはない。 「あーん何から話してあげようか、箇条書きみたいに、いっぱいあるのよ。けど、おれこの箇条書きって嫌いなんだ。論理的なことを話す場合は情熱をもてるんだけど、いざ箇条書きとなると、脳が拒否反応をおこすのね。——一番!」  竜生は、ただただうなずく。 「まずね、あの玲子さん、彼女は、けっして娼婦などではないからね。間違わないように——」  竜介は強い口調でいった。 「は……はい」 「というのもね、彼女は、あなた以外の客はとらないのね。最初からそういう決めで、それにクラブも、かりに席をおいているだけのこと。だから、彼女は娼婦ではない。これを胆《きも》に銘じておくように——」 「はい」  竜介のやたら真剣な口調に、竜生は、驚きぎみに返答する。 「そして二番……二番、えー二番は」  竜介は、宙から二番を探しているかのように顔をあちこちに動かし、 「おれなぜ箇条書き嫌いかというと、箇条書きではあっても、人に話す以上は、面白い話にしてあげようと、そのためには順番が重要なんだなあ。その順番を見つけるのが、かったるいの。——二番!」 「はい」  と返事しつつも、竜生は先生の性格をいまひとつつかみかねている。 「彼女は、あなたといろんな話をしたと思うけど、彼女は、嘘はひと言もついてないからね。そのことも、胆に銘じておくように——」 「は、はい」  竜生としては、それはちょっとひっかかりも感じるが、とりあえずうなずいた。 「そして三番! これは傀儡《くぐつ》の術」 「くぐつ……?」 「要するに、あやつり人形術ね。いかにして人をあやつるかといった方法論。最近、もうそこらじゅう傀儡だらけで、この研究室に傀儡の博物館ができそうなほど。けれど、きみがひっかかったこれは、すばらしくよくできた傀儡で、もうある種の芸術品さ。これを仕掛けてきたのはトマスって男なんだけど、もうこんなことばっかしやってんだろうな、と想像されるほどの、傀儡のエキスパートさ。……じゃあ、たとえば、きみが、あの玲子さんと、ごくふつうの出会いをし、そしてベッドインしたとして」  そこまでいって、竜介は、竜生をニラみながら、 「そんなことは絶対ありえないんだけど、仮定の話として聞くように」  念を押してから、 「そして寝物語で、彼女から同様の借金話を聞かされたとしよう。さあ、きみはどうする?」 「ええー……まずもって、ぼくは、その話が信じられませんよね」 「で、その後、きみは彼女とつきあう?」 「いや、ぼくは無理ですね」 「それがふつうだよな。いかに美人でも、そんな大借金を負ってる女とはつきあえないよな。じゃあさ、その彼女が娼婦[#「娼婦」に傍点]であって、しかも、きみはその最初の客だったとしよう。さあ、きみはどうする?」 「……あら、ありゃ、あらら……」  竜生は頭をかかえる。 「といったふうに、設定をちょい変えられただけで、いとも簡単にヒネられちゃうわけね。借金話は真実味を帯び、可哀想だと思うし、そして他の客には抱かせたくない、そんな心理が働いちゃうわけさ。この傀儡にきみがひっかかったのは、やむをえない。もしおれだったら、と考えても、やはりひっかかっていただろう」 「はあ……」  竜生は、やや安堵の声を発する。 「けどさ、おれは財力がないから、三日ともたない。だから結論、おれはひっかからない」  竜生は、少し笑った。 「さあ、その傀儡に関係してだ、竜生ちゃん!」 「は、はい……」  ちゃんづけで呼ばれると、竜生はなぜか緊張する。 「きみは、近い将来、あの玲子さんを連れて、ひとりでいるときの御神の前にしゃしゃり出、願い事を是非! なんてことを考えてませんでしたか?」 「いや……実は、ちゃんすがあればと……」 「案の定!」  竜介は左手で仕事机《デスク》を叩いていってから、 「そんなことされると、なんのために、あの『天神心影流《てんしんしんかげりゅう》』の奇麗な娘さんを身近につけてんのか、意味がないだろう。竜生ちゃん!」 「は、はい……」 「だから敵は、元来これをねらっていたわけさ。あなたがいつの日にかきっと、彼女を御神に会わすだろうと。それはいつでもかまわないのね。敵はそれを、じーとねばり強く待っていさえすればいいんだから。傀儡の仕組み、ちょっとはわかってきた?」 「はい、わかってきました」  竜生は神妙な声でいう。 「けど、これはまだ、ほんの序の口なのよ」  竜介は諭《さと》していってから、 「さあ、つぎはどの話にしようか……やっぱり、彼女の話かな。玲子さん。彼女は、何ひとつとして悪いことはやってないんだよ。いや、むしろ、完璧な被害者。そのへんも、ちゃんとわかってあげてね」 「……はい」  たとえ、わかってあげることはできても、百年の恋は冷めたままだと竜生は内心思うが。 「彼女から一連の話を聞いたんだけど、もう完璧にはめられているのね。義父の借金、そこからしてもう、はめられていると思う。最初に、彼女が目をつけられたんじゃないかとすら、おれは思う。あれだけ奇麗な娘《こ》だから、使い途《みち》には事欠かないでしょう。けど、いかに金を積まれようが、動くような娘では決してない。だが、いったん借金を背負わせてしまうと、泣かずに頑張っちゃう娘なので、逆に、あやつられやすいのね。それに途中の選択肢も、ありそうに見えていて、実はまったくないの。要するに、自己破産もできなかったわけさ。彼女、そこそこの芸能プロに所属しているの、知ってた?」 「ええ、うすうすは……」 「で今、彼女は売れるか売れないか、ぎりぎりぐらいのところらしいのね。そんな状況で、自己破産できる?」 「いやあ……できないでしょうね」 「で彼女は、借金の話を、その芸能プロの社長に相談したんだって。ところが、この社長が悪《わる》で、たぶんこいつもグルだと思うんだけど、某秘密クラブを紹介したのね。そこへいくとタニマチが見つかる、それも法外に高い金で、そんな誘い文句でね」 「それって、どんな秘密クラブなんですか?」  竜生が興味深そうに聞いてくる。 「子供には教えられない。それに、竜生ちゃん! またそこではまりそうだから」 「くっ……」  もうぼろくそだあ、と竜生は思う。反論できる立場でもなく。 「それで実際、すごい高い金で、彼女は買われたわけさ。けどさ、たとえば、その悪い社長が、あなたの借金を肩代わりしてあげるから、ゆうこと聞いて、といってもうまくいかないものなんだ。一度決意をさせておいてから、買われると、やむをえずゆうことを聞いてしまうのね。まあー、ここまでよく人をあやつれるものだと、彼女の話を聞いていて、もう可哀想で可哀想で、おれは涙が出てきましたよ。だからきみも、そのへんのところ、ちゃんとわかってあげるのよ。ねえ」 「はい……」  うなずきながら、先生は意外と大人だなあ、とも竜生は思ったりする。 「そして、買った某大会社の会長から、トマスの手に託されるわけさ。この会長だけど、きみは経緯《いきさつ》をたぶん知らないから、話さないね」  会長とはすなわち大炊御門の会長だが、その孫娘の真浦(真浦会)とトマスがぐるであろうと、竜介は玲子の話から推測できた。 「……で、トマスがいったのは、つぎの二点のみ。あなたの恋人になってあげてください。そして、あなたに嘘はつかないでください。もう指示はこれだけ。これだけで人をあやつってるんだから、信じられない傀儡でしょう。そして、この嘘をつくな。これがまたきわめて巧妙なのよ」 「え、そんなことがですか?」 「そう。人間、嘘をつこうとするとね、あるいは、嘘をつかなきゃいけないと構えていると、それに関係する記憶が、脳でトゲトゲッとしちゃうのね。で御神は、そういったトゲトゲが、一番最初に見えるわけさ」 「あっ、そういうものなんですか……」 「けど、トゲトゲがなければ、まあ彼女だったら、まず悲しみが伝わるだろうな。喜怒哀楽はよく伝わるのでね。そして、その悲しみの原因はなんだろうかと、御神はそれを探そうとするだろう。そうこうしていたら、後催眠《ごさいみん》が発動して、グサッといくわけさ。御神はよく見えるから、その後催眠の部分だって、わずかな秒数で見抜くだろう。だから、そのわずかな秒数をかせぐために、嘘をつくな、と指令しているわけよ」 「うわあ、秒単位の戦いなんですね」  竜生は、そのシビアさに驚く。 「そういうこと、敵もよく知ってるのよ。仕組みを。まあざっとこれぐらいが、傀儡の術の全貌《ぜんぼう》さ」  そこまでしゃべってから竜介は、タバコに火をつけた。 「うわあ、いやあ、すごい話ですね。敵もさることながら、そういったことをすらすら解説していける先生って、ぼくは驚いて感動しました」  竜生は素直にいって、頭《こうべ》をたれる。 「さあ、つぎはなんの話しようかな。まだ三つ四つあったはずなんだけど……そうだそうだ、これにしよう」  いうと竜介は、自身の仕事机《デスク》に置かれてあった五寸釘を、左手の親指と人差し指で、そうっと慎重につまみあげ、 「これなんだけどさ、竜生くん」 「は、はい……」  なぜかくんづけだ。竜生はイヤな予感がする。 「ちょっとさ、実験台になってくれないかなあ」 「えー、なんのですか?」 「この五寸釘で、手の平をチクッと刺して欲しいのよ。そして何か変なことがあっても、おれが戻してあげるから」 「いや、それはぼくもうやりましたよう」  いうと竜生は、手の平を竜介に向けて見せる。 「ええー——!」  竜介は、声がかすれてしまうほどに驚き、 「何か変わったことない? 世界変わってない?」 「いいえ、ぜんぜん変わってませんよ」 「けどさ、うわー、信じられないなあ。知らないとはいえ、そんな無謀なことを。おれ手にもってるだけで、半分命がけなんだぞう」  竜介はわめきながらも、手だけは慎重に、ふたたびそうっと五寸釘を仕事机の上に戻してから、 「いやー、ほんと、おれは百年ぶん驚いた」  ぜーぜーと荒い息をつく。 「それって、そんなにすごいものなんですか?」 「いや、今さら聞かない方がいいと思うよ」  といいながらも竜介は、とある疑問点に気づく。 「うーん、おかしいなあ。御神の幽霊を五寸釘で刺したんだろう。すると本体がチェンジした。もっとも、幽霊と竜生ちゃんとは、元来・同格ではないしなあ。てことは……御神は竜の球体の中に入っていて、その五寸釘を、玲子さんの脳をとおした、映像情報として入手し、それで刺されているんだが、そのときの御神の幻身は、確固たる存在感だよなあ。それを情報で刺されて、本体がチェンジ。かたや、まな美の方は、実体を刺されてチェンジ……てことは、あれがああなってて、これがこうなってるから、バカでかい竜の球体があると仮定して……」  みごとですが みごとですが  人間にしては 知恵が ありすぎますね  いけませんね いけませんね  思考しすぎると 世界を けしかねません  どうしましょうか どうしましょうか  やむをえませんね ならば…… 「……わっ、今まさにパラレルワールドの仕組みが解けかけたのに、頭から忽然《こつぜん》と消えてしまった。もう誰か、アインシュタインでも呼んでこーい!」 「先生、おひとりで騒がれてますけど、大丈夫ですかあ」  竜生が手をふって心配そうにいう。 「大丈夫大丈夫。五寸釘については、また別の実験でもやるとして……えー、つぎの話は、昨日のことなんだけど、彼女がいってたには、銀座で、なんか変な娘《こ》と会ったんだってえ?」 「あっ、それは先生の妹さんですよ」 「やっぱりかあ。服装からいってそうじゃないかと思ったんだが……けど、玲子さんは知らない。にもかかわらず妹から声をかけた。ということは、妹はあっちで彼女と会っていたんだ。それも幽霊と同様、とんでもない記憶なんだろう。うーん……わかってきたぞう。すると妹は、きみと彼女のツーショット映像ももってるわけだな。銀座で出会ってるんだから。すると、それらを御神が見たわけだ。昼休みに歴史部員とメシを食っているときにでも……」  竜介は一、二分考えてから、 「……わかった。なぜ御神が、あんなホテルの部屋などに、幽霊を出したのか、その理由《わけ》がわかった。竜生ちゃん!」 「は、はい……」 「御神はね、まずきみのことをすごく心配したのよ。妹の記憶から、それを察知したはずだから。そしてきみのところに探りを入れ、つぎには玲子さんも調べた。で幽霊を出したのは、いたずらでも、人の恋路を邪魔するわけでも、さぼっているきみを驚かすためでも、そういうことではなかったのね。ほら、玲子さんを調べると、脳に後催眠が入っていることに御神は気づくはずだろう。じゃ、御神の性格だったら、どうしてあげると思う?」 「えー、御神の性格は、やさしいですから……」 「それに、彼女の悲しい過去もつぎつぎと見えるでしょう。さらには、御神自身を倒すための武器にもされちゃってるので、御神としては、いたたまれなくなったはずよう」 「——あ!」  竜生は気づいて、 「そうか、幽霊で姿を見せてあげれば、その後催眠が発動して、それで消えてしまう」 「そういうこと。あれは一回性のものだったからね。だからどうしても、消してあげたく思ったんだろう。さすがは、神さま、て感じするでしょう」 「はい、アマノメの御神さまでございます」  竜生は深々と頭をたれた。 「えー、あと何の話が残ってたかなあ」  竜介はほんとに箇条書きが苦手なようである。 「ところで、玲子さんは、どこへ行っちゃったんですか?」  竜生は、遅ればせながらにたずねる。 「都内の某ホテル。きみが寝ている間に、チェックインしたという連絡があった。陰がふたりついてくれてるけど、話し相手になれそうな女性を呼んでって、政嗣さんにお願いしといた」 「はあ、そうしますと、それは竜蔵さんも……ご存じのことで……」  竜生は、奥歯にものでもはさまっているかのようにいう。 「いや、知らないと思うよ。おれはまだ何もいってないし」 「あ、そうなんですか……」  すると、陰のナンバー2の政嗣が、先生の指示に従っちゃうということは、先生はもう本家の人間と同格なんだなあ、と竜生はあらためて思う。 「そうそう、その玲子さんの件さ。どうしてあげたらいいのかと思ってね。このままだと、命すら危ないからねえ」 「あ……トラックの運転手は殺されたって、ちらっと小耳にはさみましたけど」 「つまり、そういうことよ。だからさ、どうするね、竜生ちゃん!」 「は、はい……」  どうするねといわれても、竜生も困惑する。 「あのさ、まだきみの方にこころが残ってるんだったら……それに、あんな奇麗な娘《こ》、きみは生涯二度と出会うことはない。おれは賭けてもいいぞう」  竜介は豪語する。  竜生も、それにはほぼ同意する。 「それにさ、このままだと、傀儡にあやつられた、悲しい恋人たちの物語、で終わりだよう。そんなの悔しくなあい?」 「そりゃあ悔しいですけど……」  竜生はソファの上で貧乏揺すりをしながらいう。 「それに、せっかく敵が投げてくれた美味《おい》しいエサなんだから、パクリと食っちゃえばいいのよ。もう毒は抜けてんだし」 「そ、そんなあ……」  先生はむちゃくちゃなたとえをいうなと、竜生はあきれる。 「それに、借金の額も聞いたけど、そんなのアマノメにとっては、端金《はしたがね》とはいわないけど、どうってことのない金額だろう。せめてそれぐらいは、きみが金庫からかすめとってこないと。ここぞというときに親はダマすもんなんだ」 「は、はい……」  まあそれぐらいはなんとかしてあげたいと、竜生も思う。 「それにさ、おれももうじき四十なんだけど、これぐらいの歳になってくると、あのときああしておけばよかった、こうしておけばよかった、なんてときどき、思ったりもするようになるのね。だから悔いのないようにと、そんなふうにおれは思うけどね」 「うーん、とはいわれましても……」  結婚できない定めもあることだしと、竜生は思う。 「それにね、彼女こんなこともいってたよ。もしふつうに出会っていたら、ひょっとしたら、きみのほんとうの恋人になれていたかもしれません、て」 「ほんとですかあ……」 「ほんとよう」 [#改ページ]  20 「ふっふふふふふ……」 「どうされました、真浦さま」 「ふっふふふふふ……いや、笑いがとまらないわ。もう完全にでくのぼうよ。あんなのはアマノメじゃないわ。いったいどうやったのトマスさん」 「ほう……うまくいきましたか」 「あら、うまくいって驚いているみたいね」 「いやあ、あの手の伝承は、効果のほどがいまひとつよくわからなくって。だから半信半疑で使ってみたんですが」 「半信半疑? にしては高いお金がかかっているのよ」 「ですが、どのようになりましたですか? 真浦さまがお見通しになられるには」 「そうね、わたしの感触では、もう人といった感じはしないわね。氷のように冷たくって、どこか機械のような感じといったらいいかしら」 「それで、神の力の方はいかがです? 封印されているようですか?」 「いいえ、そんなふうには思えないわよ。力はそのままもっているみたい。もっとも、使い方はいびつそのものって感じだけど」 「おかしいですね、封印されませんでしたか」 「トマスさんは、神の力の封印を望んでらっしゃったの?」 「まあ、本心を申しますと、実はそういうことだったんですけどもね。いやあ、それは余計にまずいかもしれませんね」 「まずいって?」 「それは、あのアマノメの力で、こころが氷だと、ともすれば、世界が壊れてしまいますからね」 「世界が壊れる?」 「はい、竜は世界を壊す、竜は世界を造る、これはおなじ意味なんですけれどもね。古代から、我が一族にそう伝わってきているのですよ。そして、あのアマノメも、そんなことができる偉大な竜の一匹です」 「だから殺しちゃうわけ」 「さようです」 「わたしも竜なんだけど、アマノメの血をひく」 「うーん真浦さまは、こんなことをいうと叱られるかもしれませんが、そこまではおそらく……」 「あら、失礼しちゃうわ。もしわたしが、その偉大な竜になれたら、トマスさんわたしも殺す?」 「それはまた、そのときになってから、あらためて考えるということで……」 「お上手ね。ところで、そもそも、あれはどういった伝承の五寸釘だったの?」 「あれはですね、竜があばれ出したときに、それを鎮めることができる、たしかそんな伝承なんですよ。ですからてっきり、封印系のものだと思っておったんですがね」 「それは日本の伝承?」 「もちろんですよ。とある大きな寺の、誰もが知っているような寺の、伝承なんです。もっとも、その伝承それ自体は、ごく些細で、あたかも御伽噺《おとぎばなし》のようなしろものですが」 「ふーん……さあ、わたしはベッドから抜け出してそろそろ仕事をはじめないと」 「今時分に、どのようなですか?」 「ここがチャンスじゃない。アマノメはでくのぼうとかしたんだから。今を逃す手はないわよ」 「はっはははは……それは、そのそのとおりでございますね」 [#改ページ]  21 「この五寸釘で手の平を刺せば、わたしは元の世界に戻れるってわけね」 「いやあ、実は自信ないんだ。けど、それを刺してこちらに来たんだから、戻れるってふつう思うだろう。だから、ふつう思う、てところにかけてみようかと思って」 「おにいさん。いつになく弱気ね」 「ごめんごめん。このパラレルワールドの仕組み、おれ何回となくチャレンジしてんだけど、その都度、頭ん中が真っ白けになってしまって、このあたりがおれの限界かもしれない。そんなわけで申し訳ないんだが、実際にためしていただくしか」 「じゃ、ためしてみるけど……でもうまくいくかもしれないから、お別れをしとかないと。水野さん、短い間だったけど、いろいろとありがとうね」 「どういたしまして、わたしも、少しちがった先輩とお話ができて、とても楽しかったです。向こうへ行ったら、わたしを探してくださいね」 「うん、探す探す、西新井《にしあらい》の道場に行けばいいのよね。そして、おにいさん……」 「あれえ、姫、自分とはお別れせーへんつもり?」 「だって土門くんは、向こうへ行っても、まったくおなじ土門くんがいるんだもの」 「そ、そんな冷たあい。うぇーん、うぇーん、もう自分泣くぞう」 「勝手に泣いて。じゃあ、おにいさん、お別れしないと……」 「でも、向こうにはパパがいるじゃない」 「あれはパパで、こちらは、おにいさんじゃなあい。それに秘密の兄妹だなんて、そんな素敵な話って、そうそうないわよ。まな美さん羨ましい」 「じゃあ、ま、握手をして」 「…………」 「水野さん、立っていた位置はこのあたり?」 「ええ、入口から……二歩ぐらいでしょうか」 「じゃ、ためしてみてくれる」 「……うーんためすけど……ちょっとおにいさんとだけ内緒話」 「なあに?」 「あのさ、銀座のママがいってたじゃなあい」 「なにを?」 「来世は恋人どうしだって」 「いってたっけえ」 「つ、つめたーい。だからここでお別れしても、また会えるかもしれないって話」 「あ、たしかにね、じゃあ来世でね」 「では、刺すわよう」 「——痛っ、痛あい、お嫁にいけなくなっちゃう」 「あら……えー、ちなみに、わたしは誰?」 「おにいさん。さっき内緒話したでしょう」 「あー……入れ替わらなかったかあ」 「姫がちゃんと自分とお別れせーへんからやー」 「じゃ、土門くんとお別れしたら、戻れるのね!」 「実は、もう一ヵ所、ためしてもらいたいんだあ。あっち側で、あなたが刺した場所ね。警察にいって、電気をつけてもらってるから、中も明るいので」 「立っていたのは、たぶんこのあたりだと思うわ」 「じゃ、ためしてみてくれる」 「姫、今度こそ自分とお別れせなあかんぞう」 「じゃあね、土門くん、ばいばい」 「姫も元気でなあ……」 「では、行くわよう」 「——痛っ、痛あい。うぇーん。このう——」 「——えせ学者!」 [#改ページ]  22 「……み、皆のもの! 狼狽《うろた》えるでない! アマノメの御神さまは、インフルエンザじゃ! インフルエンザでとおせ! よいな! ゴホ、ゴホゴホゴホゴホゴホゴホゴホゴホゴホ……」 「お家長《とう》さま、あまり無理をなさらずに、お休みになっていただいた方が」 「なにをいっとる、こんな一大事に寝ておられるものか、ゴホ、ゴホゴホゴホゴホゴホ……」 「誰か、水を! 水を!」 「……あー、はあー、はあー、はああ……」 「お家長さま、大丈夫ですか? ほんとに大丈夫ですか?」 「……ああ、人心地ついたわ、もう心配はいらぬ」 「けれども、どうしてこのように、氏子たちからの御神さまお言葉|賜《たまわ》りの電話が、急激に増えたんでしょうか?」 「それはじゃ、裏で糸をひいておるやつが、きっとおるのよ」 「誰か、こころあたりでも……」 「ああ、竜蔵さんがいうには、おそらく大炊御門じゃあるまいかと。その孫娘がからんでんじゃあるまいかと」 「そういわれてみれば、最近、大炊御門はとんとご無沙汰ぎみですねえ」 「年貢《ねんぐ》はもってきとるのか?」 「はい、今年のぶんはいちおう。ですが、もう氏子たちはほぼ全員、来年のぶんを振り込んできておりますので、その来年ぶんは、大炊御門はまだ……」 「ならば陰を飛ばして、一度徹底的に調べさせろ。場合によっては、縁切り状だ。アマノメを敵にまわすとは、いい根性しとるわい」 「ですが、大炊御門は、けっこうな大口ですからねえ」 「んなもの、一件ぐらいどうってことないじゃろうが。竜作、おまえもっと大所にたって物事を見よ。そんなちまちました考えじゃ、アマノメの将来を守っていかれんぞ」 「さ、さようでございますな」 「それにじゃ、竜生はどうしとんじゃ? 最近」 「はあ、電話をかけて話しても、いつもの調子で、のほほんでして」 「もうどいつもこいつも、頼りがいないのう。竜蔵さんが先生先生っていうのも、わかるような気がするぞ」 「ですが、竜蔵さまは、どうされるおつもりなんですかね。もう陰たちの間でも、先生への信奉者が、けっこう増えてきたらしく、聞くところによりますと、独特の変人だそうで」 「その変人にじゃ、今や、おすがりするしか手がない状態なんだぞ。あの竜蔵がだ、自身の手には負えぬといっとるんじゃから。わしゃそんな話、はじめて聞いたぞ。だがな、わしは竜蔵さんは信じておる。あやつのいう言葉に、今まで一度たりとも嘘があったためしはない」 「しかし……」 「しかしもかかしもないわい。竜作、おまえも知恵を絞って、先生をいかように処遇すればよいのか、いい策を考えろ」 「まあそういわれましても、竜生の立場というものもありますし……」 「竜生? あんなのほほん、わしがニラむに、もうすでに先生の軍門に下っとるわい!」 [#改ページ]  23  日曜日である。  竜介とまな美と土門くんの三人は、滋賀県は琵琶湖湖畔にある、三井寺《みいでら》へと向かっていた。  五寸釘の謎を解くヒントはもうここにしかないと、竜介は考えたからである。もちろん、歴史部も同意した。見城さんの家にあった(元はといえば洞窟に置かれてあった)新羅明神像は、三井寺にあるそれと親子ほどに似ているそうで、だから明らかに矢印は、三井寺のみを指している。それに五寸釘も新羅明神像も、おなじ寺(竜眼寺)の寺宝と秘密のご本尊である。つまり誰がどう考えたって、三井寺へ行くべし、の結論がえられるのだ。  大津駅からタクシーを使って、三井寺の大門の前に着いた。 「うわあ……ものすごい霧やでえ。来る途中に琵琶湖が見えとったんやけど、そのへんは青空やったのになあ」 「おにいさん、これは霧? ここだけ雲が降りてきているみたいよ。空から雲が」 「うん、まさにそんな感じだね」  いいながら、竜介が大門の脇にある拝観受付へと歩きはじめると、 「おにいさんおにいさん。先に新羅善神堂《しんらぜんしんどう》へ行きましょうよ」  まな美が呼びとめていった。 「なるほどね」  竜介も同意してから、 「けど、ちょっと離れてるんだったっけ?」 「ちょっとじゃないみたいよおにいさん。新羅善神堂がある北院《ほくいん》までは、歩けそうにないみたい」  まな美は地図を見ながらいう。 「姫らっきーやでえ、乗って来たたくしーが止まってくれてはるやんか。未来が見える運転手さんや」  三人は、それにふたたび乗って、目的地に向かった。  タクシーから降りて、十二月のこの時期でもなお木々が鬱蒼《うっそう》としている静かな参道を一、二分歩くと、白塀に囲まれてそれはあった。 「うわあ……きれいやなあ……これは美しいなあ、自分こんなびゅーちぃふるな神社見たん、生まれてはじめてやぞう」  珍しく土門くんが褒《ほ》めた。 「ほんとにきれいだね。ごてごてしてなくてきれいだね。ある種、日本の美の極致だよねえ」 「それもそのはずよ。中に置かれているはずの新羅明神像は国宝だけど、建物も国宝だそうよ」 「どうりで」  男ふたりはうなずく。 「これって、三間社流造《さんげんしゃながれづく》りね、一間二間三げーんと数が増えていくと、幅が広くなっていくのね」  まな美は、リズミカルに、あたり前の解説をし、 「けど、ここはふつうのそれとは少しちがうみたいで、前室《ぜんしつ》つき、というそうよ。屋根は檜皮葺《ひわだぶ》き」 「姫、それは韻を踏んで洒落《しゃれ》ていうてはんのん?」 「こころもちー」  まな美は、いつになく陽気そうにいう。  そして三人は、建物を中心に、白壁に囲まれた中をひととおり見て廻ったが、これといって竜や五寸釘に関係ありそうなものは見あたらなかった。 「そやけど、このへんは霧は、うっすらただよってる程度ですよう」 「いわれてみればそうだな、濃かったのはさっきのところだけだね。あの大門の向こうは、ちょっと小高くなっていて、たしか、立派な金堂が遠目に見えたんじゃなかったかなあ」  三井寺には、竜介は十年ほど前に一度来たことがあり、まな美は今日がはじめて、中学までは神戸の土門くんは遠足で来とうかもしれへんけど記憶にはあらへん、とのことである。 「じゃあ、さっきのところに戻ろうか……とはいったものの、タクシーを呼ばないといけないね」 「でも、北院から三井寺までは……歩こうと思えば、歩けそうよ」  まな美が地図を見ながらいう。 「ひ、姫。そうころころころころいうこと変えへんように」 「でも、東海道自然歩道とかいうのがあって、そこは土道《つちみち》で、約十五分ぐらいって書いてあるわよ」 「その土道いうん、ちょっとひっかかるぞう」 「じゃあ、歩こうか」  竜介がいった。  その道は、土門くんが想像していたよりは少しましで、木々に囲まれたどうということのない自然の道であった。途中、新羅三郎義光の墓があったが、それ以外にはこれといったものはない。 「そやけど先は、すごい雲が降りてきとうでえ。それで霧になっとんやけど。こういうところにこそ、竜が棲んではってやな、くねくねーとうねりながら、飛びまわっとおんやでえ」  土門くんにしては珍しく落ちのないことをいう。  まな美は、竜介の横に並びかけて歩いている。  土門くんは足の長さの関係もあって、数メーター先をひとりで歩いている。 「この、雲だけどね」  竜介はまな美に話しかける。 「まあ、霧でも似たようなものだけど。この雲を、記憶のモデルとして考えることもあるんだ」 「へー……雲を?」 「そう、ふたつの雲があったとして、その雲と雲とが左右からやってきて、重なっていったとしよう。すると、その重なっている部分だけ、雲の密度が濃いいでしょう。すると、その濃いい部分は、記憶が強化される、そんな説明に用いたりするんだ」 「へー……だったら、人の記憶って、雲みたいなものなのね」  まあそんな単純なものではないことを竜介は熟知しているが、自分でいった手前そのままにしておく。  そうこうしながら歩いていくと、大津市歴史博物館の建物の横に出た。さらに二、三分歩くと、最初に到着した大門の前であった。それは仁王門とも呼ばれるが、白粉《おしろい》をふいたような感じで、相応に立派な門である。  拝観料を払って薄っぺらいパンフレットをもらい、三人は境内《けいだい》の中へと入った。 「うわあ、ますますすごい霧やなあ。誰かさん迷子になったらあかんでえ」 「それは土門くんでしょう」  といいながらも、まな美は、竜介のコートの帯の先を命綱のように握っている。 「しかし、ほんとにすごい霧だなあ。参詣客がほかにいるのかどうか、すらわからないよなあ」  大門から真っすぐに歩いて、石段を上った。そこは台地で、ほぼ正面に、金堂《こんどう》がうっすらと見える。 「えっと、この右手にね、三井の晩鐘《ばんしょう》という有名なのがあるわよ」  まな美が拝観受付でもらったパンフレットを見ながらいう。  三人はそちらへと向かった。  相応に大きな鐘楼の建物と、そして緑青のふいた古くて立派な鐘がある。 「えー、たしかね、この鐘から出ているいぼいぼがあるでしょう」 「おにいさん、乳《にゅう》、ていっていいわよ」  まな美は自身の胸を両手で隠しながらいう。 「そうそう、それがね、煩悩《ぼんのう》の数の百八あるって、よくいうじゃない。そういったタイプの鐘の、これが一番古いやつじゃなかったかな」 「ところで、あの有名な伝承があるでしょう」  土門くんがいう。 「子供を背負って朝と晩に鐘を鳴らすやつ。あれ自分ね、琵琶湖のほとりにあるもんやと、ずーと思っとったんやけど、これは山ん中やないですか」 「あ、いわれてみれば。あの物語からは、たしかに土門くんのいうとおりのイメージだよな」  まな美がパンフレットを見ながら、 「そして、さらに左へ行くと、一切経蔵や三重塔があるわよ」  その指示のとおりに、三人はそちらへと歩いていく。  そして、そこを見終えると、 「大師堂があるわよ」  そして、そこを見終えると、 「毘沙門堂《びしゃもんどう》があるわよ」  そして、そこを見終えると、 「ずーと行ったらね、観音堂《かんのんどう》があるんだけど」 「姫姫。自分らをどこまで連れていく気や」 「あれ、このへんまで来ると、霧がちょっとやわらぐよね」 「そうですよね。三井の晩鐘から、行かなかった側あたりが、一番濃かったですよね」  すると、まな美が、 「おにいさん。ごめんなさい」  ……蚊の鳴くような声でいう。 「うん? 何が?」 「部室の引き出しをごそごそやっていたら、三井寺のパンフレットが出てきたの。たぶん、これと一緒ね。この一番最後のを読んで、おにいさん」  まな美が手にもっているそれを、竜介に手渡した。 「どれどれ……伝説・左甚五郎《ひだりじんごろう》の竜。霊泉|閼伽井屋《あかいや》の正面には、有名な左甚五郎作と伝えられる竜の彫刻があります。むかしこの竜が夜な夜な琵琶湖に出てあばれたために、困った甚五郎が、みずから竜の目に五寸釘を打ち込み静め……」  竜介は、最後まで読まずに、沈黙してしまった。 「……姫、これぴったしなんやろう」  土門くんは自分がもっているパンフレットで確認  しながらいう。 「そう、ぴったし。それに写真をよく見てみると、おにいさんがいっていた、左目のところに、穴が開いてるし……だから、ごめんなさい」 「いや、それはいいけど。ほんとに穴が開いてるみたいだね。じゃ、行ってみましょうか」  三人は来た道を逆にたどって、金堂がうっすらと見えるあたりへと歩いてきた。 「あれだな……金堂の側面にあるんだなあ」  三人はそちらへと歩いていく。  右手には、金堂の高床を支える柱が立ち並んでいて、人の背丈よりやや上のあたりに金堂の縁側がある。その金堂の軒下といっていいほどの至近距離に、素木《しらき》造りの小さな閼伽井屋があった。  ——天智・天武・持統の三天皇の産湯となり、三井寺の名の起こりとなった湧泉が石組の間から湧《わ》きでています。そんな説明文の看板もある。  竜介は、その閼伽井屋の正面に立って、見上げながら、 「あれだ! 竜が一匹だけいる。うずくまってんのか何をしてんのかわからないが、ともかく立派そうな彫刻だ。けれど、えらい上にいるから、ちょっと見えにくいよね……」 「穴も、こっからじゃようわからへんですよねえ。それに霧は、あの竜が吹いとんちゃうやろか。いや、竜が雲を吸いよせてるようにすら自分には見える。やっぱりおったんや、雲の中には竜がおったんや」  土門くんは厳粛な声でいう。 「そうするとだな、チェンジするときには自身に刺して、それを戻すには、竜の目に刺す。それがわかる人にはわかるようにと、ふたつの伝承にわけて、ここと竜眼寺、それぞれに置いたわけだなあ」 「あ、そやから、新羅明神像が親子のように似とったわけですね」 「それにさ、この竜。その昔に偉大な竜がいて、その竜こそが、このパラレルワールドを造った。そういった竜の象徴ではないかなあ……」  そんなことをいいながら、竜介がちょっと夢想していると、まな美は相変わらず竜介のコートの帯をつかんでいて、それをひっぱり、 「うん?」 「おこってない」 「おこってないさ。大丈夫」  竜介はやさしくささやきかけてから、 「あっ、あなたの顔を見ていて気がついた。あの竜の目に、こっち側の釘を刺して戻れるのだろうか? あなたの使った釘は、あっち側のそれでしょう。だから、あっち側の竜の目を刺さなきゃ、戻れないような気もする」  といってから、腕組みして沈黙する。  すると土門くんが、 「まあ、理屈としてはそうやろうなあ。そやけど、それは現実としては、どうせえいうんやろう。どない頑張ったって、でけへんような気もするぞう……」  なり代わって疑問点と否定的な見解を述べる。 「えーと、こういう場合はさ、えてして、両方同時に刺すべし、て感じしない?」 「ふーん、するといえばしますよねえ……」 「ちょっと待てよ、あっちの世界に行っているのは、かの怪物まな美さんだよな。ずば抜けて賢いからね。その彼女だったら、どういう行動をとるだろうか? えー、まず、あの新羅明神像は、あなたはあっちで見ているのね?」 「うん、見ているわよ」 「それ、写真は撮った?」 「撮って、家の近所のDPEに入れたまま」 「じゃ、とってきているはずだよな。土門くん、前のまな美さんだったら、その写真を見て、どれぐらいで正体を見抜けると思う?」 「まあ、ものの一、二分ってとこでしょうね。恙堂とおんなじレベル」 「そ、そんなにすごいのかあ。すると三井寺ってこともわかるよな。じゃ、つぎは釘だなあ。五寸釘はどうなってるの?」  竜介は、まな美にたずねる。 「五寸釘は、わたしが握ったままで倒れちゃったから、そのまま持っていると思うけど」 「じゃ、その件は問題ないな。あとは……あの洞窟がある場所は元お寺であると、それは誰だってわかるし、その寺の名前ぐらいは調べるだろうな。すると、竜眼寺……なんだから、この三井寺にやって来て、そして竜の目を探すよね」 「ええ、あの姫やったら、そんな推理はおちゃのこさいさい」 「だよな。……てことは、……てことは、……てことは」  竜介は気配でも感じたいのか、あたりを見廻してから、 「うん、来てる。彼女のことだから、絶対に来てる。今日来てるかどうかはなあ」 「そうやけど、姫、姫がこっちに来たんは、先週の木曜日やったやろう」 「うん」  まな美はうなずく。 「その週の土日は、さすがの姫もちょっと無理やと思う。こっちとおんなじでパパがちがってはんねんから、てんやわんやの状態や。するとこの土日やけど、自分らは昨日は、洞窟に釘を刺しに行きましたよね。姫も、おんなじようなこと試しとんちゃうやろか。それであかんかったんで、いよいよ大本命の三井寺には、やっぱり今日来てる。自分はそう推理しますけど」 「うん、さすがは土門くん。姫とつきあい長いから、行動パターンよく把握してるよね。てことは、てことは、てことは……あとはどうやって同時に刺すかだなあ」  といって竜介は、またもや沈黙する。 「おにいさんそんなことできるのう」  まな美がもじもじしながらいう。 「ふむ」  竜介は何やら気づいて、 「あのさ、あなたは、土門くんを自由にあやつれるとかいってたよね。あれはどうしてなの?」 「それは、土門くんの行動パターンとか、会話とかが、わたしの記憶と、すんぷんたがわないから」 「え? すんぷんたがわないの?」 「そうよ、すんぷんたがわないの」 「ほんとに、すんぷんたがわないの?」 「そうよ、ほんとに、すんぷんたがわないの」 「自分ほっといてなんで自分の話しとんやあ」  土門くんが怒り出した。 「いやいや、これはすごい大発見さ。どういう仕組みになってんのかは知らないけど、土門くんだけは、あっちの世界とこっちの世界で、ウリふたつの動きをするわけね。もっとも時間のズレはあるんだろうけど、何かひとつのきっかけがあれば、後はおなじなんだろう?」 「そう、動き出しちゃうのね」 「うわーん、自分ぜんまい仕掛けかあ」  土門くんは泣いてすねる。 「いやいや、ちがうちがう。この広い大宇宙において、それこそパラレルワールドも無数にあるだろうに、その中において、唯一土門くんだけが、あまねく存在し、統一されていて、まあいわば、大宇宙における絶対的な真理、のようなものなのさ」 「おう、それはかっこええなあ。大宇宙における絶対的な真理。かっこええぞう。自分そうゆうん一度やってみたかったんやあ」  土門くんは機嫌をなおして喜ぶ。 「だからさ、土門くん、もうきみに全権をゆだねる。どうやってあそこに釘を刺すか、もう全部きみが決めて、きみのタイミングでやって」  いってから、竜介は背広の内ポケットに仕舞っていたアルミの葉巻ケースをとり出して、彼に手渡した。もちろん、中に五寸釘が入っている。 「いやあ、責任重大やなあ。なんせ相手は、ぱられるわーるどやろう。自分生まれてこのかた、こーれほどまでに重要な仕事、やったことあらへんぞう。いや、世界中の誰ひとりやったことあらへんぞう」 「いや、きみならできる。きみの意のままにやればいいわけさ。つまりそれが、絶対的な真理、なんだからさ」 「あっ、そういうことか、自分が自由に勝手きままにやっとっても、それが絶対的な真理?」  土門くんは、手でたくみにパントマイムをまじえながらいう。最後の部分は両手がひらいている。 「そういうこと」 「そういわれると、気が楽になってきたぞう。ほんじゃ、さっそく段取りをつけようかなあ……」  と土門くんは、上を見上げる。 「……高さ的にいうたら、縁側の上にのっかったら、ちょうどぐらいやなあ。それに長さも、これぐらいやったら、竹竿があったら十分やぞう。それに刺すところは、ぱんふれっとの写真で確認しながらやればええわけや……決定! ほんじゃ、自分、ちょっくら竹竿を探しにいってきますねえ」  土門くんは、霧の中へと消えていった。 「おにいさん」 「うん?」 「ほんとにお別れみたいよ」 「うん、たぶんそうだろうと思う」 「短いあいだだったけど、楽しかった」 「ぼくも楽しかった」 「わたしのこと、忘れないでね」 「もちろんだよ」 「わたしも、おにいさんのこと忘れないから」 「うん、ありがとう」  霧の中から、竹竿を手にもった土門くんがあらわれた。 「いやあ、長さといい持ち具合といい色艶といい、ちょうどええのみつかりましたよう。あとは、この先にどうやって五寸釘をくっつけようか、そうや、ちゅーいんがむ」  土門くんは、ひと箱をぜんぶ噛《か》んでから、それで五寸釘を竹竿の先にくっつけた。 「ふむふむ、われながらみごとなできやぞう」  土門くんは悦にいっていってから、まな美の方に向きなおると、 「姫、ほんまにほんまにお別れやで」 「そうみたいね、土門くん」 「やっぱり、さみしゅうなるなあ」 「わたしもよう」 「ところで、あんな、ここだけの話やねんけど、自分、前の姫さまと、今の姫さまとを比べると、目の前にいる姫の方が好き」  いってから、竜介の方に顔を向けるや、 「これ絶対いうたらあかんですよう」 「うん、うん」  竜介はうなずいてやる。 「それじゃ、姫、やりに行ってくるで」  と土門くんは、五寸釘のついた竹竿を手にもって、駆け出していく。そして、ぐるっと廻っていかないと金堂の正面にある階段をのぼれない。彼がそこを駆けのぼって、さらには縁側を駆けている音が聞こえてくる。  ——ドッターン!  すさまじい大音響がそこらじゅうに響きわたった。 「だ、だいじょうぶかあ」  竜介が声を飛ばして問うと、数秒後に、土門くんが縁側の欄干《らんかん》から顔を出して、 「こけてもたあ、てへへへ」  と照れ笑いを返してくる。  な、なんだこの緊張感のなさは。けど、それこそが彼の真理のはずだろうと竜介は思う。 「あっ、高さぴったしや。ちょっと伸ばして予行演習しますねえ……うん、余裕でとどくとどく。そんなわけで、位置につきましたよう。姫、位置につきましたよう。姫、位置につきましよう。姫!」 「な、なんのことよ土門くん?」 「こんなふうに離れとおんやから、やることはひとつやんかあ。船の桟橋、船の桟橋、紙てーぷちゃう方」  土門くんは、なにやら催促をしているようだ。 「わかったわ土門くん。しっかと受けとめんのよ」  投げキッスを、まな美は彼に送った。 「うわあ、とろけるう」  至上の幸せ、土門くんはそんな顔をしてから、 「ほんじゃ、そろそろいくでえ」  まな美が竜介の方をふり返るや、抱きついてきた。 「最後だからいいでしょう」 「うん」  竜介も、彼女の背中に両手をそえた。  銀座でふたりで話していたときに、ぼくからおれに変わった、そのわけが竜介にはわかった気がした。  あちらの世界では、娘、こちらの世界では、妹、そして来世は、恋人、だというではないか。  ——そんな奇異な!  竜介はこころの中で叫んだ。 「そろそろ刺しますよう」  竜介は目をとじた。  まな美が強く抱きついてくる。  竜介も、少し手に力を込めた。 「おっ、うまく入ったぞう」  彼女の体からガクッと力が抜けた。  ……ボコボコ、ボコボコ、ボコボコ、ボコボコ、ボコボコ、ボコボコ、ボコボコ、ボコボコ…… [#改ページ]  24  こちらに戻ってきたまな美の話を聞くと、竜介らが想像していたものと、おおむね一緒だった。が、唯一ちがっていたことといえば、歴史部の預金通帳には千円未満しかなく、土門くんとふたりで三井寺まで往復するお金を工面するのに手間取ったという。まあ、ところ変わればといった感じだ。  それに、まな美も、空想をたくみにしていた怪物まな美ではなく、やはり可愛い竜介の妹であった。  そして御神・天目マサトも、同様に元に戻った。  彼の場合は日数が短かったこともあって、不自由はそう感じなかったようである。が、ひとつ興味深い話を竜介に聞かせてくれた。それは、あっちの世界の御神は精神病院に入っているらしく、その担当医の若くて美人の女医さんの頭の中に、竜介の絵が入っていたというのだ。けれど、その絵とともに激しい憎悪が伝わってきたので、本人には探りを入れなかったとのことなのだ。  どんな経緯があったのか竜介にはわかろうはずもないが、向こうに戻ったまな美が協力して、その溝が埋まるんじゃないだろうか、とそんな未来が彼の頭をよぎった。  そして土門くんは、やはり信じられないくらいに、土門くんであったという。そして案の定、五寸釘を刺すちょっと前に、ドッターン! と金堂の縁側でこけたそうであった。 「われこそが、全宇宙、全ぱられるわーるどにあまねく君臨しとう、絶対の、真理なわけやあ」  土門くん[#「くん」に傍点]の高笑いもしばらくつづいていた。  竜介は、まな美のことを思う。  彼女に初めて出会ったのは今年の三月のことだったろうか。突然、研究室に訪ねてきたのである。以来、秘密の兄妹、という奇異な関係をつづけている。その最初に出会った瞬間、ひとめ惚《ぼ》れしたかのように胸がときめいたことを竜介は覚えている。それは思うに、元恋人の面影《おもかげ》を、彼女に見たからだったのだろう。  そして、もうひとりのまな美のことを竜介は思う。  わずかなつき合いではあったけど、竜介にさまざまなことを教えてくれた。父親・竜一郎の真の姿や、元恋人・ママの素顔や、そして、竜介自身の探求の頂点にも立ち会ってくれた。  不思議なことに、あの五寸釘は消滅してしまっていた。  もうひとりのまな美とは、もう二度と会うことはないだろう。彼女は、竜介の記憶の中にのみ生きる。  数日後のことだが、竜介の仕事机《デスク》の電話が鳴った。  出てみると、女性の声であったが、思わず顔をしかめたくなるほどの悪声で、それもあって、 「……あ、『呪詛』の本をごらんになったんですか、あんなのデタラメですよ。他人の記憶が見えるなんて、そんなのぼくの空想話ですよ。だから、ご協力はちょっとできないと思いますね」  そういって、依頼を断った。  それは、おぬま記念病院の、さいとうゆきえ、と名乗る女医さんからの電話であったが、そんな名称の病院には竜介はこころあたりはなく、それに、さいとう、はあの斎藤だろう、ゆきえ、はいろいろとありそうだが、などととりとめもないことを電話を切ってから考えていて、竜介は、今までに一度も見たことのないような漢字が、ふと、頭に浮かんだ。  ……ゆき靉。  雲に愛。 [#改ページ] 底本 徳間書店 TOKUMA NOVELS  神の系譜 竜の時間 神国  著者 西風隆介《ならいりゅうすけ》  2003年10月31日  初刷  発行者——松下武義  発行所——徳間書店 [#地付き]2008年5月1日作成 hj [#改ページ] 底本のまま ・すんぷん。 ・ひたとびタバコに火をつけると ・クギさしとあげる ・位置につきましよう 置き換え文字 頬《※》 ※[#「夾+頁」、第3水準1-93-90]「夾+頁」、第3水準1-93-90 噛《※》 ※[#「口+齒」、第3水準1-15-26]「口+齒」、第3水準1-15-26 唖《※》 ※[#「口+亞」、第3水準1-15-8]「口+亞」、第3水準1-15-8 LIADRO ※[#Oはアキュートアクセント付き]Oはアキュートアクセント付き